本文へスキップ

忘れないで!東日本大震災 きぼうのきずな ひとつ。

石巻日記ISHINOMAKI DIAry

298. 先輩から後輩に託すメッセージ              R1.12.10

 多くの高校に硬式野球部がある。当たり前と言えば当たり前。歴史を積み重ねて数十年、または開学と同時に1世紀を超えたところも多く、入学、入部する生徒にとってはもはや歴史は関係ないのかもしれない。石巻好文館高校は以前、石巻女子高校であり、平成18年に共学化された。やはり女子高だけに今も女子の比率が高く、7体3ぐらいだろうか。それでも近年は男子の比率も徐々に増えてきた。現在は老朽化した校舎の改築で仮設校舎での勉学に励む。令和3年の開設を目指しており、いずれは生徒の割合もちょうどよいぐらいになるだろう。
 当然ながら女子高時代に野球部はなかった。それから10年余が過ぎた現在、マネジャーを含めて17人が所属する。今季は秋季大会で敗れたものの、1年生のみで戦った準公式戦の大会では地区ナンバー1となった。創部以来初のタイトル。今年は仙台圏域での練習試合も数多く重ね、力は備わってきており、今冬のトレーニングが来季を占う。
 勝てるようになると、目先の勝利しか考えなくなる。部活があって当たり前、勝って当たり前。それでは心が育たない。やはり原点を見つけなおすことは必要だ。先日、硬式野球部親の会が主催する講演会が仮設校舎内であった。講師は元同校野球部マネジャーの日野朱夏さん(27)。高校時代の3年間を野球部創部のために尽くした立役者。愛好会、同好会と進み、日野さんが3年生のときに初めて部に昇格した。強さを追求するのではなく、野球ができる環境を整えることに青春を捧げた人だった。
 彼女らの功績がなければ今の野球部は存在していなかったのかもしれない。現に石巻好文館高校にはサッカー部やラグビー部など男子中心の部活は今もない。野球部があること自体が奇跡かもしれない。彼女たちは情熱を注ぎ続ければ芽が出ることを体現した。それを受け入れてくれた学校の理解度も大きい。講演を聞いた生徒たちは「今を当たり前と感じず、野球ができる喜びに感謝しながら一戦一戦戦い抜く」と日野さんに伝えた。先輩から後輩たちには「諦めなければ夢はかなう」とメッセージが託された。
 石巻好文館高校野球部の夏の大会は初めて挑んだ平成20年の0対28から始まった。まだ10年余り。歴史は浅いが、石を少しずつ積み重ねていけばそこに石垣ができ、やがて城が建つ。石垣が隙間だらけで揺らぐようなら、やがて崩落する。過去を知り、現在に生かし、未来につなぐ。講演会で生徒が得た経験は大きい。立派な石をまた一つ積み重ねてくれるだろう。
 
 
 

297. 親子で学ぼう!女川のいま                R1.11.13

 タイトルそのままで石巻日日新聞社が主催した事業が開かれた。当初は10月13日を予定していたが、台風19号の接近に伴って延期していた。今に思えば道路冠水やがけ崩れなどまだ災害復旧に時間を要しており、とてもこの日に開催できる内容ではなかった。
 そこから約1カ月先送りし、11月に入ったことで寒さも気になっていたが、この日は雲一つない快晴。3回目の事業だが、私は引率者として初参加であり、わくわく気分でバスに乗り込んだ。最初に向かったのは女川港の桟橋。復興道路の整備で当初予定より早く女川町に着いた。ここでバスを降り、クルージング船へ。青空と青い海が広がる中、船は女川湾を一周。船を追うようにウミネコが空を舞い、参加した8組25人の親子はエサあげなどを体験し、歓喜を上げていた。
 岸壁に着いた後は女川魚市場へ。ここではモニターを使って私が女川町の水産について説明。にわか仕込みの勉強だったが、漁獲量や魚種、ちょっとしたクイズを織り交ぜて子どもたちを飽きさせないようにした。その後、バスは女川駅前の商業エリアを経由し、少し離れた女川原子力PRセンターに向かった。
 センターではアテンダントが分かりやすくエネルギー資源について説明。女川原発は震災後、稼働を停止しており、現在は3つある原子炉のうち、1つは廃止、もう一つは再稼働に向けて手続きを進めている。残る一つは保守点検を行っているが、再稼働の有無に対する動きはまだない。昼食をはさんで原子力発電所の構内も見学。29メートルの高さで整備されている防潮堤では、その壁の高さと長さに「進撃の巨人の壁みたい」と人気アニメにちなんで声を上げる子どもたちもいた。
 最後は笹かまぼこで有名な高政の女川本店「万石の里」を訪問。笹かまぼこが出来るまでの様子をガラス越しに見学し、手焼きのかまぼこ体験でアツアツを頬張った(あくまで参加者であり、私は仕事の立場なので見ている側)。石巻駅に到着し、降りた方から「また来年もやりますか?」と笑顔で聞かれた。よほど楽しかったのだろう。その顔が一番うれしかった。
 
 

296. 町田市とのつながり今も                 R1.11.11

 「外処さん。ご無沙汰しています。今度、石巻に伺いたいのですが、よろしいですか」。1カ月前になるだろうか。うれしいメールが届いた。主は東京都町田市つくし野二丁目の元防災部長、近藤泰三さん。震災後、私が町田市で講演した以来の付き合いだ。近藤さんはその後、石巻市に何度か足を運び、復興の状況を視察している。今や全国各地で自然災害が猛威を振るう。「災害は忘れる間もなくやってくる」ようになった。東日本大震災のテレビ報道が減り、復興は完遂したように思われているのかもしれない。でもそれは違う。今も重機が土を盛り上げ、道路や堤防を築いている。2020年の復興五輪の間も復興事業は進んでいる。そんな状況だ。
 近藤さんは友人5人を連れて訪れた。旧友とあり、みんなスポーツマン。「全員、後期高齢者ですけどね」と笑うが、老いを感じさせないハツラツさ。早速、レンタカーで女川町に向かい、これを目当てに来る人も多いという特選女川丼をみんなで注文。ご飯がみえないくらい豪華な魚介類が山盛りだったが、全員ペロリ。町内の復興状況を確認した後、石巻日日新聞社で輪転機が稼働し、新聞が印刷されている様子を見てから被災した門脇小学校の旧校舎に向かった。 この校舎は震災遺構として残るが、全体保存では維持管理がかかるとし、市は両端を切る部分保存を決めた。全部残してほしかったと思うのが本音。解体してしまえば元には戻らない。地震、津波、火災にあった校舎はここだけ。でも全員避難して無事だった。部分保存でどこまで伝わるのかは分からない。住民から全部保存の声は根強い。工事が間もなく始まるため、8年ぶりにシートが外された姿を見ることができた。全体を見渡すことで伝わることがある。この校舎にはそんな力を感じた。解体した後に「残せばよかった」と行政が悔いることはあってはならない。それだけの覚悟が必要だ。
 その後、一行は石巻ニューゼで6枚の壁新聞を見学し、震災伝承施設で説明を受けた。「胸が詰まる思いだった」。近藤さんの友人はこんな言葉を漏らした。今の私たちにできることは正しい情報を伝え続けること。そして多くの人に被災地に関心を寄せてもらうこと。犠牲となった人々のためにもその日がずっと続くようにしていかなければならない。近藤さんまた来てくださいね。
 

 

295. 台風19号が直撃                     R1.10.15

 東日本を中心に甚大な被害をもたらした台風19号。そのあまりの大きさに接近前から危機管理情報が出され、石巻市では予定されていた「大漁まつり」が中止された。石巻魚市場を会場に新鮮な魚介類が奉仕価格で提供される年に一度のイベント。心待ちにしていた人は多いが、台風のコースを見る限り、断念せざる得ない状況だった。台風が直撃するときは三連休とあり、この時期に合わせてイベントを組む団体も多かったが、ほぼすべてと言えるほど中止、延期を決めた。
 台風の接近に伴って石巻市では12日昼過ぎから風雨が強まり、夜の9時過ぎからは横殴りの雨が屋根を激しくたたいた。カーテンを開けても漆黒の闇。何が起きているのか、まったく見えない中、スマートフォンには最大級の警戒を呼び掛ける警報レベル5の緊急メッセージが流れた。外に出るのは自殺行為。現場を取材に行くにしても台風が過ぎ去るのをじっと待つしかなかった。
 風雨は明け方から弱まり、夜明けごろには雨も止んだ。早速、石巻市方面に車を走らす。頭の中で描くルートは少しでも海抜が高い道路だ。迷路のように道を縫いながら冠水地帯を避けて中心市街地に入った。空き地に車を止める。長靴はしっかり準備してきた。案の定、まちなかは冠水。一番深いところではひざ下まであった。店舗前には土のうが積み上げられているが、その上を水が覆っていた。シャッターは下りているが、店舗内の浸水は免れないだろうと思った。
 石巻市の中心部には旧北上川が流れており、震災前はまちなかに堤防がない無堤地区だった。水辺の近さを感じることができたが、震災では川を遡上した津波がまちなかを襲った。復興事業の中で堤防が築かれた。今回の冠水は高潮被害ではなく、純たる雨水。透き通ってにおいもない。「よくここまで降ったものだ」と痛感した。堤防はあるが、内排水設備はまだ整っておらず、逃げ場のない水はまちなかにとどまった。間もなく、がけ崩れや行方不明の情報が入ってきた。「また大変なことになったな」。災害は忘れた頃にやってくるというが、近年は忘れる時間も許されないくらい大きな災害が立て続けに起きている。備える間もないくらいに。

 

294. 子は未来の宝                       R1.9.21

 石巻市の高齢化率は30%を超えており、超高齢社会に入っている。沿岸部にあり、東日本大震災で甚大な被害受けた石巻市雄勝地区は50%を超え、2人に1人が65歳以上の高齢者。雄勝地区の人口は約1200人。震災で半減以上しており、復興のまちづくりは進んでいるが、それに反して人口減少は止まらない。雄勝地区にとどまらず、沿岸部、いや石巻市全体、そして地方が抱える大きな問題がここにある。
 雄勝小学校は被災校舎を新築して中学校との併設校となった。それでも全校児童は17人。4年生はゼロとすべての学年に児童がいるわけでもない。一般的に校外学習と言えば学年単位だが、雄勝小は全校児童が1台のバスに乗り、石巻市の中心部で社会に触れる機会を設けている。低、中学年は観光施設の石ノ森萬画館、または図書館など親しみやすい場所、高学年になると企業を回り、6年生は自主研修した後、電車に乗って途中まで移動するという交通機関の使い方も学ぶ。
 石巻日日新聞社には5年生4人が訪れた。5年生は社会科の授業で新聞作りを学習する項目があり、本社では依頼があれば職場見学を受け入れ、学習会を開いている。いつもはクラス単位だけに30人近くだが、付き添いの教職員2人を含めて6人はアットホーム感覚で充実した学習環境となった。テーブルに新聞を広げ、昔は伝書鳩が通信の役目だったこと、インクは大豆を使っていること、新聞を印刷する巻紙の重さは約400キロで、まっすぐ伸ばせば約10キロの長さになることなどスケールの大きさに子どもたちは目を丸くしていた。
 講座だけでは飽きるので、途中でクイズを挟むなどこちらも工夫を凝らした。やはりお楽しみは社内見学。報道部、企画制作部、営業部を順番に見た後、最後は新聞を印刷する輪転機。あいにく稼働前だったが、動いている様子を話すと「見て見たい」と好奇心旺盛な声が帰ってきた。子どもは地域の宝ともいう。目を輝かせ、質問する姿は実に印象的だった。願わくば、地域産業に関心を持ち、この地域で就学、就労してほしい。そのためには私たち大人がどんな環境を築き、残してあげられるのか。また一つ考え事が増えた。
 

 
 

293. プログラミング教室                    R1.9.2

 皆さんは幼少期に描いていた夢は何だったろう。私は自宅の前が運送会社であり、大型トラックを毎日目にしていたことから「大型トラックになりたい」と書いていたそうだ。正確には「大型トラックの運転手になりたい」となるはず。これでは人間をやめて車になるのと同じこと。こんな私でも新聞記者になれたのだから世の中、何があるか分からない。
 石巻市唯一の大学である石巻専修大学で小学生を対象としたプログラミング教室が開かれた。大学と石巻市、ソフトバンクの三者で結ぶ包括連携協定の一環。来年度から始まる次期学習指導要領で、小中高校にプログラミング教育が順次導入されるのを受け、産学官連携で初めて取り組んだ。
 今の子どもたちは電子メディアには長けているはず。と思う人は多いが、あれはスマートフォンやタブレットなど指先だけでの操作。アプリケーションも誰かが作ったものを使っており、キーボードをたたいて文字を打ち込んだり、プログラムを構築して物を作るという行動には結びついていない。むしろ現在はキーボードもたたけない若者が多く、これから社会に巣立った後が心配。そのころにはスマホのように指先だけですべて事足りるようになるのだろうか。いや、まだ、そこまでにはならないだろう。
 教室では人型ロボット「ペッパー」の動作知識を学び、8月から5回にわたって実際にペッパーを動かすためのプログラミングやアプリの実装を経て最終6回目で発表した。
 石巻の名産を取り上げたクイズ、引いた内容で答えが変わるおみくじ、観光施設の案内など小学4、5年生が趣向を凝らしたアプリを作り、ペッパーに覚えさせた。感想では「写真を探すのが苦労」「長い文章が苦手」という声はあったが、プログラミングが難しいという話はなかった。ということはやればできるということ。子どもたちよ。まずはキーボードに触れることから始めよう。

 
 

292. 野球がつなぐ感謝と感動                  R1.8.6

 石巻日日新聞社が主催した「第61回石日旗争奪少年野球大会」(6月14日―7月6日)で初優勝した大谷地二俣野球スポーツ少年団には、副賞として神奈川県厚木市での遠征交流会の権利が与えられた。厚木市野球協会が震災後から継続して招いており、本紙との共催は昨年から。今年は8月2−4日の2泊3日の日程で選手、監督、コーチ、保護者ら29人を引率し、2日は午前6時半に大型バスで石巻市を出発。約7時間かけて厚木市役所に到着した。
 市役所では小林市長に表敬訪問し、記念品の交換を行った後、会場を商工会議所に移して交流会を開催。石巻市、厚木市の球児や関係者が和やかに会話を弾ませた。子どもたちは緊張しているのかと思いきや、厚木市の選手たちが積極的に声を掛け、そこから打ち解け合って笑顔の花をあちらこちらで咲かせた。
 翌日は市営球場で5年生選抜と県央クラブとの2試合を実施。厚木市はスポ少単位ではなく、クラブチーム編成。数こそ多くないが、層は厚く、これまでの甲子園を沸かせた選手やプロ野球選手を輩出している地域だ。大谷地二俣は1勝1敗の成績。過去、宮城県勢は8年間にわたって招待されており、昨年、連れて行った石巻小レッドベンチャーズが初めて1勝をもぎ取ったが、勝ち越しはならなかった。
 最終日は神奈川工科大のKAITAスタジアムでは、今年の全国学童野球神奈川大会を制した三田フレンズと対戦。好投手を擁する大谷地は中盤から打線を封じる好投を見せたが、序盤の失点が響き、惜敗。悲願の勝ち越しは来年以降に持ち越された。
 試合の勝ち負けも一つだが、今回の一番の目的は子どもたちの心の交流。別れ間際には「もっと話したかった」「寂しい」との声も聞かれた。でも次はある。彼らが高校生になったとき。このまま野球を続け、力をつければ甲子園の舞台が待つ。再会の地は決まった。あとは練習を重ねるのみ。多くの支えに感謝しながら。
 

 
 

291. 三度目の正直                       R1.7.29

 石巻港に英船籍の大型客船「ダイヤモンド・プリンセス」が入港した。昨年9月、今年4月に次いで3度目。石巻市にとっては苦い経験がある。初回は情報共有が上手くいかず、たくさんの外国人が石巻市の中心部に足を運んだが、通訳はおらず、月曜日とあってシャッターを閉めている店が多々。どこに行けばいいのか分からず、観光地ではないお寺を訪れた人もいた。初回の失敗を反省し、迎えた2回目は20種類の体験プログラムも用意し、おもてなしの心を込めた。そして今回の3回目。初の日曜日とあり、高校生の通訳ボランティアが浴衣姿で道案内したほか、街なかを回遊できるようにスタンプラリーも設けた。
 乗客約2700人のうち、1000人が街なかを訪れた。今回は日本人と外国人の比率は6対4だが、もともと石巻は外国人が少なく、サングラスをかけて金髪をなびかせながら歩く姿は目立つ。市民は英語で書いたボードなどを掲げ、客を呼び込んだ。高校生は「普段は学校のALT(外国語指導助手)としか関わる機会がなく、生の英会話は自らのスキルアップにもなる」と話していた。
 豪州から来たブライアンさんは「岸壁では幼稚園児の歓迎を受け、街では高校生が道案内しており、とても元気があるまち。オーストラリアも地震はあるが、このような大規模な災害はない。写真を見るたびに悲しく思う」と話していた。
 石巻日日新聞社が運営する震災伝承施設「石巻ニューゼ」にも多くの外国人が足を運び、6日間発行した壁新聞などを目にした。同じく豪州のカルメラさんは「震災のことはニュースでみた。あの中でも手書きで新聞を発行し続けたのはすごい」と語った。ニューゼでは石巻日日こども新聞を発行する小学生の子ども記者が折り紙の製作体験と駄菓子の販売を行った。いずれも外国人にとっては興味深く、折り紙では子どもたちの器用さに感心していた。
 また、街なかでは外国人の名前を漢字を使った当て字で書くコーナーや茶道とふれあう企画もあった。お点前では日本のわびさびに向き合いながら見様見真似で茶碗を回し、茶の苦みに驚いた表情を浮かべつつも日本の文化に親しんでいた。
 今後も石巻港には大型客船が入っている。港を新たな観光の扉とし、インバウンド(訪日外国人旅行)に力をいれながら観光振興と震災伝承に力を入れてほしい。
 
 

290. 市内唯一の公衆浴場に幕                  R1.7.20

 のれんをくぐると天井から下がった千羽鶴と園児が書いた絵が目につく。昭和の香りを残す石巻市唯一の公衆浴場「鶴湯(つるのゆ)」が7月末で営業を終える。昭和2年に創業し、92年の月日が過ぎた。建物は創業時から今も変わらぬ場所に建つ。「これも時代の流れだね。寂しさもあるけれど、やり切った感じの方が強い」。女将の杉山きよさん(78)に後悔はない。最終日の30日は入浴無料とし、支えてきた人たちに感謝を込める。
 旧北上川沿いで海にも近い鶴湯。全盛期の昭和40年代は石巻市内にも銭湯が10数店舗あり、組合もあった。まだ風呂がある家が少なかったほか、石巻に入港した漁船からタオルを手にした船員が次々と降り立ち、銭湯でひと汗流していた。「船員さんからサンマもいただいたこともあったわ。毎日がおおにぎわい」。当時を思い出してきよさんは目を細めた。
 のれんの先に番台があり、ここで入浴料を支払う。木製の下駄箱、風情ある体重計、1回20円のドライヤー、そして牛乳瓶が入った保冷庫。洗い場のタイルは一度改修した昭和42年当時のまま。掃除が行き届いており、古さを感じさせない。正面奥壁には震災後に大阪府のボランティアが描いた富士山のペンキ画がある。湯船は2槽あり、ライオンの口から湯が出ている。古き良き昭和の時代がここに詰まっていた。
 震災で被災したが、ボランティアの精力的な活動で翌年の平成24年元旦に再オープン。これを見届けるように二代目できよさんの夫の栄八さんが夏に亡くなった。それ以来、きよさんが女将として一人で運営している。営業を終える最大の理由は消防法で地下にある重油タンクが使えなくなったこと。指導を受け、2カ月間の有余期間をもらったが、直すには大金がかかる。「年齢的にもあと数年。ここで100万円以上かけてもね。後継ぎもいないし」と話す。
 銭湯は体を清潔に保つだけでなく、地域のコミュニケーションの場。鶴湯もこの日本独自の文化を支えながら社会的な役割を担ってきた。きよさんは「最終日はたくさんの人にきてほしいね。公衆浴場がにぎわっていた昔のように」と話し、きょうも店先にのれんを掲げた。この日課も間もなく終える。石巻の歴史がまた一つ閉じようとしている。
 
 

289. 房総半島へ                         R1.7.2

 震災後に東京都町田市で講演して以来、長い付き合いが続く。石巻日記を運営する「きぼうのきずなひとつ。」を筆頭に町内会、個人の付き合いがある。個人では石巻市にプロラグビー選手やプロキックコーチを招き、地元の高校生に支援する働きもあった。今回は御礼を兼ねて立役者の別荘に招かれ、妻と2人で訪れた。
 東北新幹線から東京駅南口のバスターミナルに向かう。結構速足なので5分もすればついた。乗り込んだバスは金田バスターミナル(木更津)行き。一度は見て見たいと思っていた東京湾アクアラインを通過したが、前半は長いトンネル、そこを出た先は海だが、ものすごい強風でバスも揺れ、恐怖で顔が引きつった。そこで待ち合わせ、千葉県勝浦市にある別荘に向かった。
 何気に別荘を持っている友人はおらず、今回が初めて。夏休みなど長期休暇はにぎわうというが、日曜日と月曜日であり、ほぼ誰とも会わず。でも大手不動産が開発した地域であり、ヨーロッパや北欧、琉球文化などが感じられる国際色豊かな建物が並ぶ。個性と言うべきだろうか。聞けば別荘に来るには年数回。でも掃除も定期的にしないといけない。手がかかるそうだ。家の中はゴミ一つ落ちていない。世界観の違いを感じた。
 勝浦市は海に面しており、翌日は朝市に繰り出して街並みを眺めた。電柱に「海抜〇〇メートル」「津波避難先」と書かれた標識がいたるところにある。海底地震が起きれば津波の危険性が高い地域であり、標識で注意をうながしているようだ。避難訓練はどうしているのだろう。海を見る限り、大きな堤防はなく、越波したら大災害になるのではなどと推測できた。万が一の時は浸水は免れない地域だが、命を守る行動さえできれば生存確率はぐっと高くなる。「津波は来ない」ではなく、「来る」と考えて避難先を考えておくことがそれにつながる。
 2日目はその方の父が利用している高齢者施設を訪れた。今後の介護をどのようにするか。大きな問題。私の妻はケアマネジャーであり、一般論程度しかできなかったが多少の助言はできたと思う。ここは施設というよりホテルのような場所。東京もピンキリとは言うが、石巻市ではまずお目にかかれない施設。驚かされることばかりだった。介護を要すると生活は一変する。
 PPK(ピンピンコロリ)という言葉がある。ピンピンと生きてコロリと亡くなる。理想かもしれないがそううまくはいかない。長生きすれば誰しもが通る課題。難しい。

 
 

288. 教訓つなぎ減災へ                      R1.6.17

 今年は宮城県沖地震から41年、宮城県北部連続地震から15年、そして東日本大震災から8年が過ぎた。少なからず私が生まれてから3度の大地震を経験した。宮城県沖地震は幼少のころ。突然の揺れに驚くよりもいきなり祖母に手を引っ張られ、テーブルの下に潜り込んだ。ペンダント型の蛍光灯が天井にぶつかり、テーブルの上に破片となって落ちてきた。あのままいすに座っていたら間違いなくけがをしていただろう。5歳の記憶が今もしっかり残っている。
 続いて県北部連続地震は、子どもの幼稚園の運動会当日の朝。玄関にあった水槽の水が勢いよくあふれ出し、周辺のものも次々となぎ倒した。宮城県沖地震ほど大きな被害はなかったが、内陸部では土砂災害が起き、尊い命が奪われた。もちろん運動会は延期された。そして東日本大震災。8年が過ぎても忘れるどころか鮮明に記憶に残っている。あのとき、こうすればよかったと思うこともたくさんある。皆そうだろう。戻せるなら時間を戻してほしい。
 宮城県では、宮城県沖地震が発生した昭和53年6月12日を「県民防災の日」と位置付け、この日前後に総合防災訓練を行う自治体が多い。東日本大震災が起きる前はどちらかといえば地震による家屋倒壊をイメージした訓練が主だった。これは地域的に古い建物が多く、震度6強では倒壊する家も多いと見込んだうえでの対応だった。しかし、東日本大震災後は津波避難の想定が大きくなり、訓練の内容も昔でいう劇場型(ストーリーを立てて行う)から実践型(何が起きるのか分からない・または知らされていない)に移り、避難もまずは自分の命を守るにはどうすべきかを考えるようになった。

 今年の訓練には航空自衛隊、陸上自衛隊が参加し、ドローン(無人航空機)を使って倒壊家屋の中にいる負傷者を見つけ、救助隊が助けるという内容を実践したほか、防災備蓄倉庫から隊員が物資を運んで避難所に届けるという災害後の対応にも取り組んだ。
 災害対応に正解がないのと同じように、訓練にも正解はないのかもしれない。ただし最優先は人命以外にない。自分の命を救い、誰かの命も救えるか、どうかだ。モノは必要ない。津波警報が出たら急いで逃げるしかない。生きてさえいればなんとかなる。
 

287. 老老介護と継続取材                     R1.5.25

 65歳以上の高齢者が65歳以上の高齢者を介護する「老老介護」。少子高齢化の中で今や珍しいことではない。でもやがて来る死は避けて通れない。老いと死は誰もがたどる。伴侶を失ったとき、人は何に救いや希望を求め、何にすがって生きるのか。石巻地方に暮らす高齢者夫婦に数年前から密着し、取材を続けてきた。
 夫の蛯名勝蔵さんは青森県出身、妻の照さんは石巻市出身。照さんは7年前にアルツハイマー型の認知症を発症し、物忘れや記憶の欠乏は緩やかながらに進行した。でも変わらないものがあった。笑顔である。結婚して55年。一度も怒ったことがなく、まして手を上げたこともない。症状が進んで周囲のことが分からなくなっていても笑顔だけは絶やさなかった。
 勝蔵さんも「カチンときても6秒間我慢するれば落ち着く。ときに受け流すことも大事」と話す。妻の認知症を公表し、介護講習や認知症カフェ、終活セミナーなどに参加してきた。周囲からはおしどり夫婦と呼ばれるほど。そんな2人にも別れの時がきた。
 繰り返す転倒の中で体調を崩し、5カ月間の入院生活。「おとうさん。ありがとう」が夫に対するいつもの言葉であり、昨年12月の入院当日も同じように話したという。でも肉声を聞いたのはこれが最後だった。照さんが亡くなったのは5月9日。葬儀を終えて一人となった勝蔵さんは涙を見せて泣いた。いつか別れが来ると思っていても寂しいものは寂しい。受け入れたくない現実もある。時間をかけて話を聞き、記事にした。
 老老介護や伴侶を亡くした後の一人暮らしは、誰しもに可能性はある。若いうちは介護に無関心だが、家族が要介護となれば必然的に関心は向く。そうなる前に認知症や介護について広く知ってほしいという思いがあった。でもこれが終わりではない。勝蔵さんがこれから先、どのようにして生きていくのか。むしろここからである。場面を切り取った報道では核心は伝わらない。継続してからこそ意味を持つ。だから私は今後も取材を続けていく。
 

286. 平成から令和へ                       H31.5.1

 皇位継承に伴い、5月1日から平成の幕が下り、令和の時代が到来した。改元前に驚いたのが4月30日の夜。テレビは一斉に特番を組み、カウントダウンで時を刻んでいた。まさに大みそか。ツイッターのトレンドが「そば」となり、年越しそばを食べる人も多かったとか。午前零時を迎えると画面にはでかでかと「令和」の文字。若者がはしゃぎ、花火が打ちあがる映像があった。年越しと同じである。
 改元でお祭り騒ぎ的な日が来るとは思わなかった。石巻日日新聞が昭和64年1月7日に報じた1面には「天皇陛下崩御」の大見出し。訃報一色の中で、その下に「新元号は平成に決定」とあった。これまでは日本が喪に服す中、新元号が発表されてきた。だから祝いのムードというものは存在しなかった。今回は生前退位であり、元号が発表された4月1日以降は「令和」商戦も始まるほど。そして改元された5月1日の石巻日日新聞には「新天皇即位 令和幕開け」の見出しが躍った。
 1日は大安と重なったこともあり、石巻市役所には日付が変わる前からカップルの姿が見られ、朝までに14組が届け出た。幸先の良いスタートであり、幸せになってもらいたい。また、結婚式を挙げた人もいた。幼稚園の幼なじみで平成29年に結婚し、長男を授かった。今回、知人の式場スタッフから「令和結婚式プラン」があることを聞き、チャペルで執り行ったという。2人は新時代の幕開けの中で永遠の愛を誓った。
 大型店のショッピングモールでは縦3メートル、横6メートルの用紙に揮ごうするパフォーマンスもあった。石巻市出身の書家、千葉蒼玄さんであり、大筆を使って令和としたためた。千葉さんは「世界中に戦火の火種がある中、誰もが和を持ち、安泰であり続けるように願いを込めました」と話していた。
 石巻市にとって平成時代は東日本大震災が筆頭に来る。決して安泰な時代ではなかった。だからこそ、迎えた令和は安泰であってほしい。平和は人の手によって守られる。自然災害は人の手ではどうにもできないときもある。令和を迎えることなく、震災で失われた多くの御霊に応えるためにも、この時代においても教訓を伝え続けていくことが大切。そう思えた令和元年5月1日だった。
 
 
  

285. ふれあい朝市                        H31.4.8

 石巻市では毎年4月から12月までの第1、第3日曜日に朝市が開かれている。市民にとっては恒例行事。朝採りの野菜や魚介類が並ぶほか、ワカメうどんなど旬の食材を使った一品も販売される。今年で22年目を迎えた。
 会場を巡っては、ジプシー(移動型民族)のように転々としてきた。もとは石巻駅前のにぎわい交流広場で開かれていたが、震災後、石巻市立病院が移転新築することになり、同じく駅前の観光交流施設「ロマン海遊21」の前に移った。しかし、道路の拡幅工事でこの建物も解体され、朝市は駅前を離れてまちなかで新たに整備が進む「かわまちエリア」内のかわまち交通広場を使うことになった。いわゆるバスターミナルである。朝市は午前6時半から8時ごろまで。8時半にはバスが入るのでその前に撤収しなければならない。
 22年目にして初めてのまちなか開催。目の前には1時間無料の立体駐車場があり、何気に駅前より利便性は良い。広場もバスが回れるぐらいなのでそこそこの広さ。事務局の観光協会は「今年はかわまちからにぎわいを発信したい」と気勢を上げた。初日は午前7時から紅白の餅もまかれた。石巻は港まちであり、朝には強い。テンションが高い中で「こっちにまいて」「こっちにも」という声が飛び交っていた。
 物販の目玉は「石巻おでん」。よくおでんの中で見かける太いちくわに焼き目がついたものがあるが、それが「牡丹(ぼたん)ちくわ」。なんと発祥は石巻市という。そのほか、揚げかまぼこや煮卵、はんぺんなど7種類の具材がカップに盛り放題で200円で売り出された。行列は絶えることなく、60食分を設けたが、開始30分を絶たずに終了。販売者は「たぶん40人ぐらいが利用したと思うが、皆てんこ盛りだったのですぐになくなった。今度はもっと仕入れておかないと」と話していた。
 震災から8年が過ぎ、朝市のように当たり前のことが当たり前に思えるようにもなってきた。コミュニティ―再生などソフト面を考えればまだまだ先だが、「見た目」だけは平時に戻りつつあるようだ。

 
  

284. 町田市のつながり今も                    H31.3.26

 すべては平成26年3月7日にさかのぼる。「きぼうのきずなひとつ。」とつながり、震災から3年を迎える石巻市の今を伝えるため、東京都町田市に向かった。つくし野駅の真向かいにあるコミュニティセンターで講演の機会をいただいた。終えたあとに名刺交換をさせてもらった女性がいた。
 彼女は石巻の復興支援に高い関心を抱き、物心の支援を展開してきた。豊富なネットワークも持っており、昨年はラグビー界で日本初のプロキックコーチとなった君島良夫さんを石巻市に呼んでいただき、石巻・宮城水産高校の合同チームに直接指導してもらった。そして今年はプロリーグのNTTコミュニケーションズ「シャイニングアークス」主将の金正奎(きん・しょうけい)選手を石巻に連れてきた。
 石巻市はかつて「ラグビー王国」と言われ、高校ラグビーでは毎年のように石巻市内から花園行きの切符を手にしていた。しかし仙台圏の巻き返しが強まり、今は仙台育英が常連。石巻勢は石巻工業が決勝まで進むが、育英の壁を破ることができず、長年、花園からは遠ざかっている。王国時代を知る人たちからは「もう一度、石巻から花園に」が口癖。震災後、高校野球21世紀枠で石巻工業が出場したときは地域が沸いた。そのラグビー版が望まれている。
 金主将は、初日は石巻・宮城水産の合同チーム、翌日は石巻工業も加わり、3校の生徒に対して直接指導。寒の戻りで強風が吹き荒れる中だったが、時間いっぱいまで心のこもった熱い指導を展開した。金主将のスタイルは言葉や行動で伝えるのではない。あえて疑問を投げかけ、生徒たちに考えさせた。「言葉で伝えるのは簡単。でも僕がいなくなったら元に戻る。何をすべきか、どうすべきかを考えるきっかけを与えたい」と話していた。

 最終日は電車までの時間を利用し、多くの犠牲が出た大川小学校の被災校舎を案内した。関西生まれの明るい性格の金主将も言葉をなくした。君島さんも同じだった。強いショックを受け、何ができるのかを深く考えていた。
 1度きりの町田市訪問だったが、得たものは多い。むしろそれをきっかけにつながった人たちもいる。被災し、家族を失った人がこう話していた。「確かにつらい。でも震災でつながった縁もある。人の温かさを知った」。痛いほど気持ちが分かる。
 

  

283. 祈りで包む雨の8年目                     H31.3.11

 未曾有の被害を出した東日本大震災。最大の被災地となった石巻市、隣接する東松島市、女川町を合わせると死者、行方不明者数は6000人となった。8年目を迎えた石巻市の朝は雨。日中は横殴りの風雨となるなど、今までに例のない「3・11」となった。午後2時46分には防災行政無線からサイレンが鳴り響き、1分間の黙とう。遺族らは涙雨の中で故人の安らかな眠りを祈り、そっと手を合わせた。
 祈りは全国で行われ、「忘れない」という言葉が目立った。もちろん大事な言葉だが、震災を経験した私たちにとっては「忘れることは生涯ない」と言い切れる。まして家族を亡くした人ならなおさら。でも震災経験者は時間とともに減る。現在の小学校低学年は震災後に生まれた子どもであり、未経験者。高学年になれば「教科書の中の震災」として習う。あと5年、10年、20年経てば人口の3分の1は震災を知らない人たちとなる。だから「忘れることのない」私たちに課せられるのは、どのようにして震災に向き合い、教訓を伝えていけるか、どうかだ。この発信力が弱まれば、非被災地の記憶の風化は一気に進む。
 本紙の記者も各地の2時46分を追うため、取材に向かった。黒板には行先が告げられている。もちろん帰社時間も。8年前も同じだったが、帰社時間になっても戻らない人もいた。連絡がつかない人もいた。でもきょうは多少のずれはあるものの、全員が戻ってこられた。これが本来の日常である。変わったことがなくても、わくわくする日じゃなくても、少し寂しい思いをしても、ちょっぴりケンカをしても「きょうも1日過ごせたな」って思える日が来て当たり前。人にとってこれほど幸せなことはない。
 政府は先日、宮城県沖でマグニチュード7クラスの地震が30年以内に発生する確率を90%とした。「あれだけの災害が来たのだから30年と言っても25年以上は先」と思っていないだろうか。30年以内とすれば、きょうも、あすもあり得る。根拠のない安心感を持っていては再び悲劇は起きる。一人一人の覚悟が問われている。
 

  

282. 石巻は水産の担い手地域                   H31.3.4

 石巻市の基幹産業は水産業だが、慢性的な後継者不足が続き、漁具や漁船、民家をすべて奪った震災はそれに拍車をかけた。そこで移住者や若者を積極的に受け入れ、新たな担い手を確保するため、水産業の担い手対策に力を入れている。平成27年から地方創生事業として空き家などを活用した担い手センターを整備。これまで荻浜、泉町、北上、渡波の4地区に整備しており、今回は津波で中心部が壊滅的被害を受けた雄勝地区に新たに設けた。
 雄勝の企業が所有する物件を借りて改修。建物は木造2階建ての4LDK。短期利用、長期利用を合わせて5人が住めるシェアハウスだ。市は事業の運営を一般社団法人フィッシャーマン・ジャパンに委託している。この団体は地元の若手漁業者らで構成されており、いわゆる「かっこいい」漁業を提唱。これまでの概念を変え、全国から漁業の担い手を募り、漁業者とのマッチングを図っている。こうして若手漁業者とそれを支える親方漁師による師弟コンビが各所に誕生してきた。
 養殖業を営む漁師にとって、よそからやってきた人を受け入れる経験は、ひと昔前までは想像もつかなかった。でも変わることができた。フィッシャーマン・ジャパンは今回、PR動画を初めて作成し、石巻市のかわまち交流センターで披露会を開いた。約4分間のPR動画。カメラワークやBGMにもこだわり、カッコよさを出した。動画の中で90歳の漁師が言う。
 「今までのやり方を全面的に改革しなくちゃいけない。革命ですよ」
 長年育んできた浜の気質が震災後の外からの力によって大きく変わった。フィッシャーマン・ジャパンは「あの水産王国の北海道が石巻に関心を寄せている。まさにここは日本に誇れる水産の担い手地域」と断言した。
 震災で失ったものは数知れない。しかし復旧復興を遂げる中で得たものも多い。漁業は今、変わろうとしている。きょうは3月4日。間もなく忘れもしない「あの日」がやってくる。

  

281. 圏人会で初の女性会長抜てき                H31.2.12

 石巻地方出身者やゆかりのある人たちで構成される「東京みやぎ石巻圏人会」。昨年、創立30周年の節目を迎え、これをステップに次の時代に向けて歩みを進めた。2019年度の定期総会は8日に千代田区のKKRホテルで開かれ、石巻地方の経済界、行政、在京者ら約60人が集まり、新年度の事業計画案などを審議した。任期満了に伴う役員改選があり、新会長に小林美恵子副会長=東京都町田市=が就いた。7代目にして初の女性会長が誕生した。
 圏人会は30年に合わせ、基本理念に親睦、提言に加え、新たに「共生」を盛り込んだ。「石巻と手を携え、人と人とのつながりをさらに強めたいです」と小林会長。「古里を知るには、古里を訪れることが一番。いつも石巻から東京に来て総会を開くだけでなく、私たちが古里を訪れ、目で今の現状を確かめることが大切」と説く。総会後の懇親会で私の隣席者は「スライド映像で今の復興状況を知るだけでなく、私たちも現地に行くべき。それが首都圏と古里をつなぎ、新たな支援の在り方も見えてくるはず」と話していた。納得。
 圏人会の会員数は30年末で55人。入退会で入れ替えはあるが、ここ数年はほぼ横ばい。しかし女性の数は10人に満たない。石巻地方から首都圏に移住した人はかなり多いが、圏人会の敷居が高いと感じているのか、それとも存在そのものを知らないのか、いずれにしてもアピールは命題。小林会長は「いきなり会員に招いても抵抗はあるはず。そうね。まずは非会員向けのセミナーやイベントを開くなどして周知を図り、そこから入会を検討してもらうなど段階的な対応は欠かせないわね」と話していた。
 小林会長は武蔵野音大を卒業後、スイスで学び、帰国後は国内各地で演奏会を開いたほか、後進の育成にもかかわってきた。震災前に南浜町にあった旧石巻市立病院が完成したときはピアノを寄贈、震災後に駅前に移転新築した市立病院の開院時はピアノ演奏を披露した。有志と震災遺児支援団体「かんがるーの会」を立ち上げ、物心両面で寄り添い続けている。また長女の正枝さん=ベルリン在住=は国内外で活躍するバイオリニスト。石巻で毎年、リサイタルを開いており、心に癒やしを届けている。親子の継続的な支援に頭が下がるばかりだ。
 圏人会の会員も年齢層が上がっており、持続的発展を目指すには若い世代へのアプローチは欠かせない。「経済界だけでなく、文化関係者も巻き込んで会員増加につなげていけたら」と小林会長。圏人会に新たな風が吹く。そう感じた。
  

280. 継続支援のカタチ                     H31.1.16

 年始最初の主催事業といえば石巻日日新聞社杯サッカー大会だ。震災後は復旧復興支援で東京都の明治大学付属明治高校が共催している。支援も今年で7回目となった。名義貸しや事業費支援とは異なる人的支援。毎年、希望する生徒を募って成人式をからめた3連休を利用して石巻市や女川町に訪れている。冬の石巻地方は寒い。ましてサッカー大会は当然屋外。今年を含め、過去7回を振り返ればここ2年は晴天だったが、その前以降は雪や風、当初、別のグラウンドで行っていた時は土が凍り付き、足を切る選手が続出。日中は土が溶けて泥となり、泥んこサッカーになったときもあった。
 明治高校からは必ずサッカー部員が訪れ、大会の主役である小学生選手の試合で審判を務める。さすが高校生、フットワークの軽さはぴか一だ。名門校から来てもらっているのに審判だけさせてはもったいない。昨年からはエキシビジョン戦を設け、明治高校対大会に参加したチームの交流戦を行っている。高校生にとってもこの部分が楽しみの一つだ。
 また、生徒会や他の部活の生徒も有志で訪れている。今年は総勢37人。年々増えている。明治高ではその年の参加者が全校生徒の前で活動を発表し、校舎内に活動記録を掲示している。それを見て「私も行ってみたい」と次年度に希望し、訪れるという仕組み。全員が初めてではなく、中には2年、3年連続の生徒もいる。「復興に同じ日はない。1年前と今年ではどこか必ず違っている。そこを見つけたい」と話す生徒もいた。
 初めて訪れた3年生の女子生徒は「東京では東日本大震災の話を聞く機会がほとんどない。テレビでも見なくなった。でも日和山から海側を見たとき、更地となっていることに驚いた。震災前の写真はあんなに家がいっぱいあったのに。改めて津波の恐ろしさを知り、復興が進んでいるところと、そうではないところの違いを知ることができた」と語っていた。大きな収穫だろう。目で見て肌で感じる。復興途上だからこそ、気づくことがたくさんある。これは教科書には載っていない。テレビでも放映されない。ここに来た人だから分かる感覚だ。
 例年、仮設住宅で茶話会や創作を行ってきたが、退去が進んだことで昨年から女川町の災害公営住宅集会所で茶話会と創作を行っている。1年に1回とはいえ、住民にとってはとても楽しみ。公営住宅の高齢化率は50%を超しており、人と人とのつながるがますます重要となっている。明治高の支援は当初の5年からさらに延長され、計10年となった。あと3年。残された時間の中で11年目以降の在り方を考えなければならない。被災地に求められている自立の意味を感じている。
 

279. 新春知事対談                       H31.1.7

 2019年の幕が開いた。新聞社では西暦表記の社が多いが、石巻日日新聞は代々元号を多用する。行政も元号使用が多く、西暦とごちゃごちゃになってしまわないかとの理由。元号だと1、2年先や数年前が分かりやすいが、その反面、5年、10年先になると迷う。この迷うは天皇陛下の生前退位が決まった時から常に念頭にあった。平成の世もあと4カ月。昨年までは今年のことを平成31年と普通に書けたが、年が明けた途端、改元がものすごい勢いで近づいてくる感覚に陥った。平成32年とは書きにくいのが心境だ。なぜならそれは存在しないからだ。
 石巻日日新聞社は毎年、提携を結ぶ大崎タイムス社(大崎市)、三陸新報社(気仙沼市)と一緒に知事に対して直接インタビューを行っている。聞く内容は今年の懸案課題が中心だが、震災後はもっぱら復旧、復興が柱。今年も3社共通質問は震災復興。4期目を迎えている村井嘉浩知事は「復興計画の終了まで残り約2年。ハード事業はおおむね完了に近づいているが、大規模なかさ上げ工事を行っている地区や離半島部など地域で復興の進ちょくに差がある」と語った。いわゆる復興格差だ。
 復興完了は平成32年度(西暦にすれば2020年)。新春知事インタビューの記事でこうした数字はどうしても書かざる得ない。そのため、この5日間連載のインタビューでは「今年5月1日に改元となりますが、新たな元号が発表されるまで本紙では便宜上、数年先については「平成」を使用し、長期的なものに関しては西暦表記としています」と注釈を入れた。知事の回答には復興のその先、すなわちポスト復興の話も多い。平成40年ではさすがに現実味がないので、その際は2028年と表記している。
 村井知事は復興課題の一つに心の復興を挙げた。震災に伴うPTSD(心的外傷後ストレス障害)の相談件数は24年度6437件、27年度7589件、29年度7121件と高止まりが続く。中学生の不登校は27年度から全国ワースト1位となるなど、中長期的な対応が必要。見た目のハード整備が終わっても心のケアはこの先の課題。終わりは見えてこない。
 新時代を迎える5月からは新たな…という考えもできるが、被災地にとっては平成、新元号の時代でもやることは同じ。迎えた新年の中で間もなく終わる時代が交錯する。何とも不思議な感覚だ。

278. 暮れゆく平成30年と迎える新時代             H30.12.31

 地域の歴史と文化を育み、市街地に沿うように悠久と流れる旧北上川。石巻市は江戸時代に北上川の水運を生かした交易のまちとして栄え、明治に入ってからは世界三大漁場の金華山沖を背景に漁業のまちとして発展してきた。昭和期は新産業都市の指定を受け、工業都市として新たな顔を築いた。
 平成時代は石巻専修大学の開学、復元船サン・ファン・バウティスタ号や石ノ森萬画館の完成、平成の大合併など産業や行政の一大転機が続いた。そして東日本大震災が未曾有の被害をもたらし、石巻地方は復旧復興に向けて歩み出した。
 「内外、天地とも平和が達成される」という意味を持つ平成。国内では災害が頻発したが、明治、大正、昭和と違って戦争のない時代でもあった。30年続いた平成も残すところ約4カ月。改元で新時代に入っても平和の崇高な営みは、次世代に受け継がなければならない。
 きょうも西の空に日が沈む。オレンジ色に染まるまち。旧北上川の水面が日を浴びてキラキラと輝く。こんな風景を目にすると心が安らぎ、師走の忙しさも忘れる。災害復旧で2020年度の完成を目指す新内海橋。4代目の架橋を待ちわびている市民は多い。
 湊方面から内海橋を通り、中央二丁目に入ると左手側に市が今年9月に開設した「石巻市かわまち交流センター」が見える。観光案内や地域交流の拠点であり、昨年開業した隣の商業施設「いしのまき元気いちば」と連携し、中心部のにぎわい創造を目指していく。
 震災前は無堤防地区だった中央付近には河川堤防が築かれ、川に親しむ遊歩道も一部で整備が進むなど川と街が一体となった空間が生まれつつある。平成30年は、石巻市の「かわまち交流拠点整備事業」に大きな前進が見られた年。今ある姿も途上であり、整備は来年も続く。
 川の流れのように時も流れゆく。きょうは大みそか。時代とともに1年を振り返り、迎える年、時代は平凡な日常のありがたさが感じられる毎日であってほしい。東日本大震災を経験した私たちだからこそ、心からそう願う。

277. 石巻のクリスマス                    H30.12.24

 日本は11月半ばを過ぎればクリスマスムードが高まる。今年もイルミネーションが点灯され、彩を増した。東日本大震災後、石巻市は色を失ったが、ここ数年はイルミネーションも復活。震災前ほどではないが、新たなクリスマス企画も生まれ、子どもたちに再び夢を与えるようになってきた。
 12月23日は石ノ森萬画館でイベントがあり、松ぼっくり(松かさ)を使って手のひら大のツリーを作るイベントが開かれた。クリスマスツリーは大きなものや豪華なものに焦点が充てられるが、手作りの小さいサイズも実にかわいらしい。松かさに接着剤を使ってビーズや星を取り付け、マスキングテープで巻いた台座の上に乗せれば完成。「お家に戻ってテーブルの上に飾りたい」と目を輝かす子どもたちの姿があった。
 一方、日没後に人気を集めたのが復元船サン・ファン・バウティスタ号がある石巻市のサン・ファン館だ。江戸時代、伊達政宗に命じられ、支倉常長ら慶長使節団がヨーロッパを目指し、石巻を出航した帆船だ。平成5年に復元され、展示されていたが、老朽化で崩壊する恐れがあるとし、船内見学は昨年から中止。船も2021年以降に解体されることが決まり、現在、県で原寸大、または4分の1大で材質を変えて残すか、どうかの検討が進められている。
 サン・ファン号をイルミネーションとライトアップでまとったイベントは毎年恒例だが、夜間に施設中段の屋外広場から間近で眺められるのは1年を通じてもこの日だけ。少し小雨が降る中となったが、黄金色に輝き、太平洋に船首を向けるサン・ファン号の雄姿を眺めようと多くの家族連れが訪れた。
 こうして船体を見ることができるのもあと数年。また石巻の観光の風景は変わっていく。消えゆく船に完成当時、取材していた若き自分の姿を重ねてみた。「随分、歳を重ねたものだな」とつぶやく、クリスマスだった。
 

276. 仙石線開通90周年                    H30.12.5

 JR仙石線は石巻市と仙台市を結ぶ在来線。震災後は途中で別ルートを通る仙石東北ラインが開通し、最短で石巻―仙台間は50分弱で結ばれるようになった。仙石線はこれまで通り沿岸部を通る電車であり、地域住民にとってはとてもなじみ深い。私も仙石線には学生時代に特にお世話になったものだ。
 仙石線は大正14年に私鉄宮城電気鉄道が仙台―西塩釜間で運行を開始したのが始まり。その後、松島海岸まで延伸して昭和3年に現在の石巻―仙台間がつながった。当時の石巻駅は石巻線と仙石線の運営会社が異なり、国鉄となった後も2つの駅舎が隣り合う全国的にも珍しい形。地域の足を支える駅舎として愛されたが、乗り継ぎなど利便性の問題から平成2年に統合され、現在に至っている。
 青い車体の4両編成で以前はトイレがなく、よくお腹を押さえながら途中下車するサラリーマンの姿を見かけたことがある。私が学生のころはそれが当たり前の光景だったが、今では車内にしっかりトイレも完備。利便性と安心感はぐっと高まった。確かに仙石線は通勤用電車のイメージが強いが、政令都市と結ぶ重要な鉄路であり、観光客誘致にも利便性向上は欠かせない。当時の新聞でもトイレ設置を求める要望や投稿が相次いでいた。
 私は車窓から好きだった風景がある。無人駅の東名駅(東松島市)から松島海岸まで行く途中は沿岸部を走る。車窓からはすぐに海が見え、一瞬だが、線路の下に海が見える場所もあった。まさに海の上を走っているような感覚。朝日が昇るとき、夕日が沈むときに車窓から眺めることができればそれだけで幸せな気分だった。今は被災に伴う高台移転でこの風景は見られなくなった。
 多くの夢を乗せ、人々を運び続ける仙石線。仙台市との距離が近くなるのはうれしいが、同時に距離の短縮は人口減少も招く。この部分を抑えるには仙台市とは違ったまちづくりで魅力を引き出すことが大事。10年前後には大崎市に人口が抜かれ、石巻市は県下第2の都市から降格する可能性もある。仙石線100周年となっても県下第2の都市を維持できているような取り組みを急いでほしい。
 

 

275. 国定公園に不法投棄                   H30.11.21

 三陸復興国立公園内にある石巻市の離島、金華山(きんかさん)に灯籠などを不法投棄したとして、県警と石巻署は島内にある黄金山(こがねやま)神社の宮司ら神社職員3人を逮捕した。警察署から情報が入った途端、衝撃が走った。同時に「神聖な場所にしかも宮司自らが」と考えただけで憤りを覚えた。極めつけは取り調べに対して宮司は容疑を否認。その後の調べて他の2人は「宮司の指示」というが、当の宮司は口を閉ざしたまま。
 金華山は青森県の恐山、山形県の出羽三山に並ぶ奥州三大霊場と称される。金華山は2015年に三陸復興国立公園に編入され、黄金山神社も1000年以上の歴史を持つ。「3年連続お参りすればお金には困らない」と言われ、全国各地から足を運ぶ人は多い。公園内にはたくさんのシカが生息しており、のどかな風景が広がる。石巻市民がこよなく愛する場所だ。
 そんなところに不法投棄である。まさに開いた口がふさがらない。市民からも憤りの声が上がる。震災で石巻市は国内外から多くの支援を受け、最大被災地とあってその名を全国、全世界に広めたが、近年はこうした事件や不正問題などで時折クローズアップされるようになり、残念でならない。
 ごみは袋に入れられ、今後は適正処理されるが、金華山のイメージダウンを懸念する声は出ている。発覚後の最初の週末は大きな影響はなかったが、あと一か月となる新年を迎えるときはどうなのだろうか。市内の観光関係者からは「あってはならないこと。信頼回復を図っていかなくてはならない。神と宮司は別。これからも多くの人でにぎわう金華山になってほしい」との声もあった。
 震災の混乱はあってもそこに良し悪しはしっかりある。もうこれ以上、別の意味で石巻が名をはせることがあってはならない。
 

 

274. インバウンド(訪日外国人旅行)対策            H30.11.1

 最近よく石巻で耳にする言葉がインバウンド。何も弾むわけではない。訪日外国人旅行。日本語に表せば分かりやすい。でも日本人はあえて横文字を使いたがる。もう一つ言えば「リノベーション」。これも建物の大規模改修を示し、よく「イノベーション」(新しい切り口、新しいとらえ方など)と勘違いされる。一文字違いで全く意味は異なる。だから私もあまり使いたくはない。
 話が脱線したようだ。戻そう。東日本大震災で甚大な被害が出た地域の復旧、復興は進んでおり、震災直後から2〜3年は災害ボランティアや支援者、視察などで被災地を訪れる人は多いが、時が経てば記憶の風化とともに足も運ばなくなる。被災地の産業は風評被害や失われた販路が回復しておらず、補助金を得て再興した企業も今が正念場を迎えているところは多い。5年、10年先はどれだけの企業がこの地域に残っているのか、考えれば怖くなる。
 観光も同じ。誘客を図ってお金を落としてもらわなければ潤いはない。でも人はこない。ではどうするか。ターゲットを日本人にこだわらず、世界に目を向けることが大切だ。それがインバウンド。石巻には昨年あたりから大型外国客船が寄港するようになり、港から交流人口が生まれ始めている。これを使わない手はない。先日、英国船籍の「ダイヤモンドプリンセス」が初入港し、外国人約2700人が石巻港に降り立った。
 私たちメディアは外国人が下船した後に船内を見学したが、船というよりは海に浮かぶリゾートホテル。華やかなカジノ、プールでは優雅に泳ぐ姿もあり、別世界に来た感じだった。乗客はバスやタクシーで石巻市内を巡ったが、対応は万全ではなかった。地元商店主にはこうした情報があまり伝わっておらず、月曜日とあって休業する飲食店もあり、突然の来訪に戸惑う店主も多かった。観光案内もないため、まちなかのベンチでたたずむ人、観光地でないお寺を巡る人、外国人の目に石巻はどう映ったのだろう。
 岸壁では「ウエルカム」のカタカナ表記の歓迎ボード。通訳の数も足りない。情報共有が図られないとこんなにお粗末になってしまうことを痛感した。反省点は多く、後日、まちなかでは民間が主体となって今後の対策を考えた。失敗から学ぶことは多い。大型客船は来年も入港する。さあ、どのように変わるのか。石巻の「おもてなし」の力に注目したい。
 
 

273. 潜水士の思い                       H30.10.17

 石巻の港といえば輸出入の拠点、産業の玄関口だが、一昔前までは港に市民が立ち寄る、親しむという場ではなかった。それを一変させたのが港湾感謝祭。今から17年前に始まり、イベントを通じて港に足を向けさせた。今ではすっかり定着し、年に数回は大型観光客船も入る。先日は英国船籍のダイヤモンド・プリンセスが入港。乗客約2700人、8割が外国人だったが、インバウンド(訪日外国人旅行者)元年を掲げる石巻市の対応には疑問符が付いた。通訳不足、カタカナでの「ウエルカム」。まちなかは連休明けとあって休みの店舗も多い。外国人が大挙しても受け入れができていなかった。
 これはまた別の機会に話すとし、今回は港湾感謝祭に目を向けよう。第17回目の今年は宮城海上保安部所属の巡視船「くりこま」が入港し、船内が公開された。くりこまは東日本大震災があった平成23年3月、宮城県のほぼ中心部で沿岸部にある塩釜港に係留されていたが、津波被害を受けて船体が15度傾斜し、浅瀬に座礁した。船の修復には約9か月間要したが、その間は潜水士(海猿)が被災地の海で行方不明者の捜索に当たった。潜水士も被災しながらも何度も海に潜り続けた。
 船内には潜水士の装備や海の安全を守る機能が充実。乗船した子どもたちは楽しそうに目を輝かせ、大人はあの日を思い出しながら潜水士の苦労を感じ取っていた。70代の男性は「亡くなった兄が海上保安庁の船に乗っていた。船内は観光船と違うので狭い。兄は不満を口にしなかったが、大変な仕事。この年になって苦労が分かった気がする。もう伝えることはできないけどね」と話していた。
 7年7か月前の風景がまた目に浮かんできた。「とにかく一人でも助けよう」「見つけよう」。潜水士はこんな思いを抱いていたのだろう。きょうも海は穏やか。海に面した石巻は常に地震と同時に津波に対する危機感を持つ。しばらく海に近づけなかった人たちが多かったが、その数は徐々に減ってきた。港湾感謝祭も多くの人でにぎわい、人々の笑顔が一瞬、震災を忘れさせた。
 「母なる海」。誰もがまたそう思える日はくるのだろうか。
 

272. 東京みやぎ石巻圏人会が30周年              H30.9.14

 首都圏に住む石巻地方の出身者やゆかりのある人たちで構成される「東京みやぎ石巻圏人会」。石巻地方の繁栄に貢献することを目的に昭和63年に立ち上がり、石巻地方と首都圏を結んだ情報交換や提言活動を行い、平成26年からは通常総会のほか、毎年交流会も開いている。会員は現在60人。今後は組織力強化に向け、会員の拡充に力を注いでいく。
 30周年の集いは霞が関ビル35階にある東海大学校友会館で開かれた。国会議事堂が一望でき、霞が関ビルといえば、日本で初めて高さが100メートルを超えた高層ビル。今年で竣工50年の節目だが、古さは感じない。ここに石巻地方2市1町の自治体や商工会議所関係者、そして在京者ら約120人が集った。開会あいさつで阿部勝会長は「強い意志と使命で石巻の復興は進んでいる。石巻圏域に限らず、広く宮城が東北のリーダーになることを願う」と述べた。
 石巻市の菅原秀幸副市長は「誰もが役割と生きがいを持つことが真の復興」、石巻商工会議所の浅野亨会頭は「新しいまちづくりにはそれぞれの立場での協力が必要」と呼び掛けた。記念講演した村井嘉浩知事は復興状況や空港民営化、水産業特区制度など震災後の県内情勢を説明。「今後、石巻市の人口が爆発的に増えることはありえない。仙台空港から石巻方面に外国人を導く方策が必要」と提起し、インバウンド(訪日外国人)対応への尽力を説いた。
 その後、木管五重奏の記念演奏があり、石巻市出身でファゴッド奏者(読売日本交響楽団首席)の井上俊次さんら東北出身者5人の首席がアンサンブルを披露した。祝賀会では「復興支援」について私も各界の人と意見交換。支援のあり方に迷いを感じている人が多いが、北海道地震を含め、国内で安全な場所がない中、どれだけ災害に敏感になり、有事のときに行動ができるか。それには日頃、被災地から目を離さないことを強調した。悲しみも多いが、ここから学ぶものはたくさんある。何度も同じことを繰り返してばかりでは、亡くなった人たちに申し訳がない。だから私たちは伝え続ける。
 

271. リボーンまつりが開幕                   H30.9.3

 来夏、石巻市の牡鹿半島などを舞台に繰り広げられる芸術、音楽、食の総合祭「リボーント・フェスティバル」(RAF)。東日本大震災で甚大な被害を受けた石巻市の復興を願った企画であり、昨年に次いで2度目となる。それに向け、今年はプレイベントの「トランジット!リボーンアート2018」が8月から約1カ月間、展開された。今後は本祭、プレ、本祭、プレと繰り返しながら10年間の支援を視野に入れているという。昨年を初年度とすれば今年のプレは2年目に入る。
 RAFは国内外で活躍するアーティストの作品を牡鹿半島内に展示し、地域を巡りながら見物してもらうイベント。実行委員長は音楽プロデューサーの小林武史さん。コネクションが豊富で、これまでにも多くの芸能人やアーティストが石巻市を訪れており、小林さんも昨年は長期間、石巻市に滞在し、RAFに主体的にかかわってきた。
 今年のプレ企画では牡鹿半島で捕獲した鹿を丸焼きにして食べるという斬新なイベントから始まり、昨年のRAFで人気を集めた巨大な鹿の像の展示、地元食材を使ったレストランの営業など県内外から多くの人が足を運んだ。その最後を飾ったのが「リボーンまつり」。3部構成で行われ、1部は地元のチアリーディングやよさこいチームの舞踊、2部は演歌歌手の八代亜紀さんやアニメソング歌手の水木一郎さんらが出演、3部は櫓(やぐら)を囲んで「リボーン音頭」に合わせて盆踊りを繰り広げた。
 リボーン音頭はこれまで3番までだったが、今年は石巻市内のこどもたちが「100年後の夢」をテーマに石巻の未来を想像。「ゆめがはばたく未来だよ」「笑顔があふれるあつい町」などのキーワードをつなぎ合わせ、歌詞にして4番目の歌を作り、この日に披露した。このワークショップ事業に参加して歌詞を作った高校生は「石巻が元気に楽しいまちになってほしい」と思いを込めていた。
 RAFは概ね10年の支援。他の事業も時限付きが多い。問題はその後。今後は支援も先細りとなっていく。これは見放されたのではなく、自立が求められている証拠。支援がないから事業を止めるでは本末転倒。時間は刻一刻と過ぎていく。石巻市民の力が試されている。
 

270. 石巻焼きそばで支援の恩返し                H30.8.18

 第60回記念石日旗争奪少年野球大会で優勝した野球スポーツ少年団「石巻小レッドベンチャーズ」を引率して、神奈川県厚木市に向かった。厚木市少年野球協会の全面支援であり、来年以降も継続するというからありがたい。石巻ナンバーワンと厚木市のチームが戦い交流戦がメーン。2泊3日の日程で訪れ、試合結果は1勝2敗。それでも過去に招待を受けた宮城県勢では初めて勝利をもぎとった。同時に神奈川県の野球のレベルの高さを改めて知ることができた。 日程の間には厚木市最大の夏祭り「あつぎ鮎まつり」の見物もあった。そこで偶然出会った「石巻やきそば」の看板。石巻市桃生町で居酒屋を経営する鈴木美香さんが出店しており、聞けば震災があった平成23年の夏から厚木市に来ているという。
 「避難所にいたとき、厚木市の職員さんにとてもお世話になったからね。私ができるのはこれぐらいだけど、石巻の味を楽しみ、震災の記憶が息づいてくれればうれしい」と鈴木さん。石巻焼きそばは茶色い麺に目玉焼きを乗せたシンプルな焼きそばだが、厚木市は焼きそばがソウルフードではないため、看板に興味をひかれた老若男女が列をなしていた。
 そこで手伝っていたのが厚木市職員の川内伴秀さん。元々、川内さんが避難所運営支援で震災直後に石巻市を訪れ、そこで鈴木さんと出会った。「今も石巻に行っています。復興道半ばですけれど、私も石巻でたくさんの人に出会い、心の温かさに触れた。これからも思いを寄せ続けます」。この一言が何よりもうれしかった。
 震災で結ばれた絆がここにあった。どんなに時が過ぎても決して色あせることはない。鈴木さんは「また来年も来るよ。その次も」と話す。恩返しの旅に終わりはない。
  

269. 復興完結へ誓い新た                    H30.8.1

 第95回石巻川開き祭りが7月31日、8月1日の2日間にわたって繰り広げられた。平成最後の夏物語であり、平日にも関わらず大勢の人がまちに繰り出した。毎年思う。平日の昼間にまちなかを歩いても人とすれ違うことはあまりない。でも川開きとなれば在来線は山手線並みの混雑。しかも仙台市からなどではなく、皆近場で下車する。すなわちほとんどは地元の人たち。「なんだ、このまちにも若い人がいるじゃないか」と。
 川開き祭りは復旧復興の象徴でもある。震災があった平成23年は中止も検討されたが、復旧復興に向かう姿を見せるため、あえて実施した。賛否はあったが、今では開催してよかったという声を多く聞く。その年から1日目は震災犠牲者に対する慰霊、2日目は復興に向かうパワーを体現するようになった。毎年、何かが復活してきた。旧北上川を舞台とした水上レースの孫兵衛船競漕、再建に伴う重吉神社祭など。そして沖縄のエイサーや笑点でおなじみ、林家たい平師匠のパレード、模擬聖火リレーなど震災前はなかったものが新たに加わった。
 祭りが最もにぎわうのが小学生の鼓笛隊パレード。今年は15校の児童たちがそろいのユニホームで目抜き通りを行進し、校歌やポップス曲を披露した。沿道には保護者の人垣ができ、温かい拍手を送り続けた。ちょうどこの頃、石巻市は観測史上2番目となる最高気温が36.1度まで上昇。そもそも石巻市は海風が入るため、他地域に比べても涼しいが、よりによってこの日に猛暑日。取材する側にとっても熱中症で倒れる人がいないか不安の限りだった。
 夕方とともに幾分暑さも和らぎ、日没に合わせて夜空に8000発の花火が打ち上がった。下から眺める人々。そしてきっと、天から見下ろすように眺める人たちもいたはず。「見守っているから、元気で頑張れよ」と声が聞こえてきそうだ。
 震災から8回目の川開き祭り。あと5年経てば第100回の大台を迎える。5年後の石巻市はどんなまちになっているのだろう。前提は安心安全。それがなければ、犠牲となった皆さんに申し訳ない限りだ。
 

268. 善意は国境を越えて                    H30.7.23

 テレビから映し出される映像に目を疑った。押しつぶされた家、積み重なるがれき、呆然と立ちすくむ人々。西日本を襲った豪雨被害。東日本大震災と同じように再び自然が牙をむいた。逃げ遅れた人が犠牲となった。備えと教訓。東日本大震災の被災地は何度もこの言葉を唱え続けてきたが、一人一人には届かなかった。無念がにじむ。命が失われてからでは遅すぎる。
 メディア対応にも疑問を感じた。東日本大震災では思うように取材ができず、発災直後の様子が伝えきれなかったこともあった。今回は妻が行方不明になった男性のそばでマイクを向け、思い出の品、そして遺体発見後もマイクを向け続けた。同じメディアとして記録することの重要性は理解できる。でも突然の家族の死をまだ信じられない中、コメントを求める姿勢に強い違和感を覚えた。同時に地元メディアと全国メディアとの温度差も感じた。
 水が引いた後は酷暑が続く。続々とボランティアが被災地に入り、汚泥の除去に汗を流す。熱中症で倒れ込む人々。ライフラインの復旧にはまだ時間がかかる。今後は仮設住宅や復興住宅の整備、復興計画に基づくインフラの再構築と宮城、岩手、福島と同じような復興の歩みをたどる。時間と共に街並みは戻るだろうが、失った命は戻らない。悲しみを背負い続けて生きなければならない。何よりも辛いのは被災者だ。
 東日本大震災で甚大な被害を受け、国内外の支えで復興を歩む石巻市では、恩返しの輪が広がっている。外国籍の市民は、フィリピン台風や南米コロンビア大規模土石流被害で母国が被災したときも日本人が支えてくれたことを知っている。「今度は私たちの番」と立ち上がり、覚えた日本語で義援金の募金活動を行った。「日本人のボランティア精神は素晴らしい。善意を西日本に届けたい」と語り、炎天下の中で募金箱を首に下げ、協力を呼び掛けた。
 できることから始める。何かの行動を起こすことで輪が広がる。今がそのときだ。
 
 
 

267. 少年の主張                       H30.7.11

 等身大の言葉で思いを語る少年の主張。私も中学生のころ、同級生が原稿を見ずにすらすらと発表する姿を見て「すごい」と感じたことがある。しかも5分近くの原稿を頭の中に入れているのだ。もはや映画のセリフ以上。余談だが、好きな歌の歌詞を記憶している人は多い。言葉もリズム。その感覚で覚えれば記憶に残るというが、私はどうも苦手。むしろ、原稿がなく、自由気ままに話すほうが得意かもしれない。
 教育委員会から電話が入り、「審査員をお願いしたいのですが…」と一報。「はいはい、分かりました。いいですよ」と快諾した。「後日、説明に伺います」と言われ、大会1週間前に会社を訪れたとき、突き付けられたのは審査員長。「最後に講評もお願いします」というおまけもついた。
 事前に原稿が手渡され、一読しながら自分なりに審査を行った。当日はこれに表現力、態度を加えて点数にしようという目論見だったが、思惑は違った。論旨が素晴らしくても表現力が乏しければ思いは今ひとつ伝わらず、逆に論旨がちょっと不明確でも声の抑揚や表情が良ければすっと内容が頭に入ってくる。もはや私が行った事前審査は単なる参考資料。登壇するときの様子から礼儀、発声、論旨、視線などに気を配り、審査をした。
 その結果、最優秀賞と優秀賞の2人が決まり、5人の審査員に大きなずれもなく、審査はすんなり終わった。600人以上の観衆がいるステージに上がり、そこで発言するだけでも勇気がいること。中学生は緊張とも戦いながら主張を行った。その努力を考えれば全員に最優秀賞をあげたいほどだった。
 講評では論旨や表現、態度など思いついたことを話した。主張の中に夢や目標が多く出てきたことに触れ、最後は「夢を実現するには目標を持ってそれに対し努力すること。人は学生時代の生き方が基礎となります。皆さんは今の時間が将来につながっていくことを忘れないでください」と結んだ。講評から人生論に変わったが、どうせなら伝えたい言葉。あまり中学生に話す機会はないので、この際という思いが強かったのだろう。
 少年のころ、「すごい」と思った少年の主張。同じステージに立てただけでもうれしかった。
 
 

266. 遠のく古里に思い寄せ                  H30.6.13

 東日本大震災の津波は多くの人命を奪い、まちの風景を変えた。沿岸部の地域は「壊滅」の言葉通り、どこが道路なのか、どこが家なのかも全く分からない。うず高く積まれたがれきを見て、何から手をつければよいのか分からず、ただ立ち尽くす人の姿だけがあった。
 あれから7年。沿岸部の土地は産業用地に生まれ変わり、今も重機がうねりを上げて整地を行っている。土埃が舞う光景からはとても「復興完結」の四文字は浮かばない。まだまだ道半ば。それ以外の言葉はない。山間部は開拓され、高台に防災集団移転地が整備された。沿岸部で住宅を失った人が仮設住宅での暮らしを経て終の棲家となる場所だ。ここに災害公営住宅や自力再建した戸建て住宅が建ち並び、ひとつのまちが形成された。
 石巻地方には、こうした防災移転地が数多く点在する。最も広大と言えば石巻市の蛇田地区。震災前は水田用地だったが、今は住宅や商業施設が建ち並び、多くの人が住む。その一方で沿岸部に行けば人の気配はなく、寂しさが募る。津波の浸水区域外に人が集中した結果、こうした事象が生まれている。
 震災後、やむを得ずこの地域を離れた人も多い。東松島市では約1500人が市外に流出した。2割程度は戻ってきたが、やはり住めば都。そのまま市外に永住する人も少なくない。「鳴瀬サロン」は同郷者の集いであり、震災翌年から開いてきた。開催地は仙台市内。毎月、近況を語り合う会合であり、毎回25人前後が参加する。71回目の会合にして初めて、古里でこのサロンが開かれた。
 「正直、足が向かなかった」「でも野蒜がやっぱり好き」「今も体が重い。甘えることもできず、苦しい」「こんなにまちが変わっているとは思わなかった」「海を見るのがまだ怖い」。思いは人それぞれ。古里の地を踏めば、どうしてもあの日の記憶がよみがえる。いつしか、ハンカチで目を拭う人の姿が増えていた。
 その後、参加者は震災遺構となった旧野蒜駅ホームの裏手に整備された震災メモリアルパークを訪問。1000人以上の名前が刻まれた慰霊碑の芳名板から親族や友人、知人の名を見つけ、指でそっとなぞった。「また来るね。必ず」と言いながら。
 

 

265. 体感で学ぶ防災施設                   H30.5.29

 東日本大震災の津波で被災した旧野蒜小学校の校舎を使った防災体験型の教育宿泊施設こども未来創造校「KIBOTCHA(キボッチャ)」が間もなく完成する。校舎内を改装し、防災体験や震災語り部の講話、宿泊などができる施設。充実した室内遊具もあり、小さい子どもたちが遊びながら防災とは何かを学ぶところだ。
 野蒜小は津波で1階が浸水し、校舎が利用できなくなった。すでに解体されたが、隣の体育館では犠牲者も出た。地元からは災害時の避難先と地域活性化の両面から保存活用の要望が出され、東京都内に本社を置く貴凛庁株式会社が公募型プロポーザルを経て校舎を借り受け、昨年6月から改修工事を進めてきた。
 施設名は「希望」「防災」の頭文字と、未来を意味する「フューチャー」の一部を用いた造語。貴凛庁は本社機能を東京都台東区からキボッチャ内に移し、腰を据えた。1階は地元産のカキなどを提供するレストラン、物販店、大浴場を配置。2階は防災資料館、体感で学ぶ室内パーク、シアター室を完備した。3階は約70床の宿泊フロア。非常時は300人規模の一時避難所の機能も担う。
 校庭ではバーベキューもできる区画もあり、これから夏場のシーズンはにぎわいそうだ。泊まって楽しむだけでなく、例えば停電を想定したキャンプ、夜間の避難訓練、非常食の活用など使い方はさまざま。語り部は実際に旧校舎周辺で被災した人たちが務め、生の声を届ける。 
 震災から7年も過ぎれば関心は薄れがち。でも被災した人たちに記憶の風化はない。むしろ、ここ数年は伝えることの意義を強く感じている。キボッチャでは傾聴以外にも「体験」を通じて防災を学ぶことができる。夏休みの日程に加えてはどうだろうか。自分の身を守るのは、自分しかいないのだから。
 

 

264. 38人が挑む春の陣                    H30.5.16

 任期満了に伴う石巻市議選が告示された。定数30に対して現職25人、元職2人、新人11人が立候補した。震災後では最多であり、今回は初めて20代の若者も立候補した。争点は東日本大震災からの復興に他ならない。今後4年間は震災復興の発展期であり、国の支援が終わった後、単独自治体としてどのように財政を回していくのか。復興財源がなくなったからといって復興事業も同時に終わることはない。むしろ今後は人口減少が進む中、どうやって税収を増やし、被災者の支援や復興公営住宅の維持管理を進めていくか。首長や議員の手腕が試される時期に入る。
 そう考えればしっかりとした目で議員を選びたいところだが、市民の関心度はどうも低い。「1票で何も変わらない」「誰が出ても同じ」など批判的な言葉が目立つ。でも「1票で変えてやる」という思いを持たなければ変わるものも変わらない。震災前の石巻市は各種選挙で投票率が70%台など高く推移していた。しかし、震災後は生活再建などが最優先され、選挙の関心度は年々ダウン。致し方ない面もあるが、7年が過ぎる中で関心の上向きは願いたいところ。民意が届かなければ住みよいまちづくりなど絵に描いた餅。その声を届ける代弁者を選ぶ選挙と考えれば、重要であることには変わらないのだ。
 選挙管理委員会もあの手この手で投票率を引き上げる方策を探っており、今回は石巻専修大学内のコンビニエンスストアの弁当類に啓発用のシールを張った。「その一票 すてきな町への 切符です」とキャッチコピーを載せ、切符風のシールにした。18歳選挙権が導入され、有権者の幅も広がる中、いかに若い人を巻き込んでいくかが課題だ。
 若い人が投票行動を起こさなければ、立候補者の政策は年配者向けに偏りがち。育児や介護、就職などバランスの良い政策を進めるためにも若い人たちの声は欠かせない。選挙戦は1週間と短いが、何とか前回の投票率(52・82%)を上回ってほしい。
 そう考えてる矢先、若者のわきを選挙カーが通り過ぎて行った。手を振る候補者。無関心な若者。おいおい、このまちの将来を背負うのは君たち。もう少し関心を持ってはどうか。でも、こんなことを言えば押しつけになるのだろうか。難しい世の中だ。
 

263. 大川小控訴審判決                    H30.4.26

 一呼吸おいて広げられた垂れ幕には「勝訴」の二文字。遺族はこの7年間を思い起こし、涙を拭った。東日本大震災の津波で児童・教職員合わせて84人が死亡、行方不明となった石巻市立大川小学校を巡り、児童23人の遺族が石巻市、宮城県に約23億円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審。仙台高裁の判決が26日に行われ、一審判決に続いて市と県に約14億円の支払いを命じた。
 一審判決では津波が襲来する直前の判断ミスを過失としたが、控訴審では、学校や石巻市の震災前の防災マニュアル対応の不備が過失に当たると判断。事前防災で管理者の法的責任が認められたのは初めてであり、今後の全国の学校防災に与える影響は多大だ。石巻市の亀山紘市長は「大変厳しい判決」とし、今後は市と県で対応を協議していく。
 遺族は「今はほっとした気持ち。子どもたちの声が高裁に届いた。この7年間はとても苦しかったが、たくさんの人に支えられた。私の息子は常に心の中にいる。『おっとう。7年間よくやったな。俺、ちゃんと見ていたぞ』って言ってくれている」と話した。
 「勝訴」の幕をよく見れば亡くなった子どもたちの名前が何度も何度も書かれ、それが勝訴の文字を作っていた。裁判には勝ったが、失われた命は戻ってこない。一番悔しいのはここだ。大川小の遺族に限らず、大切な人を失った人たちは、皆、後悔している。「あの時、声をかけていれば」「無理にでも手を引いていけば」「時間が戻せるなら戻してほしい」。悲痛な叫びは何度も聞いた。
 ハードが整えば次は心のケア。そんな話はよく聞くが、人の心であり、時間では解決できない。もちろん足並みも違う。悲しみは癒えることがない。
 
 
 

262. スタントマンの安全教室                H30.4.23

 「注意一秒けが一生」。よく聞く言葉であり、注意を一秒怠ると、一生のけがを負うので気を付けようという謂れだ。工事現場でよく目にするが、交通事故にも当てはまる。でも事故によっては一生のけがですまない場合もある。車にぶつかって体が宙に浮いたときなどは、後悔後に立たず。「交通ルール・守るあなたが守られる」。不慮の事故で命を落とさないためにもドライバー、歩行者のマナーが極めて重要となってくる。
 先日、東京都町田市にある有限会社シャドウ・スタントプロダクションのスタントマン5人が中学校を訪れ、交通安全教室を開いた。過去に実際に起きた交通事故をスタントマンが体現し、事故の衝撃と怖さを知ってもらう企画。各学校は毎年のように応募するが、例年県内では中学校、高校合わせて当選は4校と狭き門だ。
 教室は校庭であり、まずは時速40キロの速度で自転車に衝突した場合を実演。自転車には人形が乗せられていたが、人形は吹っ飛び、車が衝突した自転車の後輪付近はタイヤが割け、金属のフレームが折れ曲がるほどの衝撃。ドライバーなら40キロのスピードはさほどでもないと感じるだろうが、与える衝撃は命をも奪うほどだった。
 ここからはスタントマンの技術であり、自転車に乗車中に車にはねられ、ボンネットに体を乗せてそこから跳ね飛ばされる様子や自転車同士の衝突、大型車の内輪差に巻き込まれる事故などを実際に行った。あまりの衝撃に生徒は目を丸くして事故現場に見入り、体を寄せ合うようにして恐怖を体験していた。事故も災害も奪われる命に変わりはない。朝の「いってきます」、夕方、夜の「ただいま」がセットであることのありがたさを改めて肌で感じた。
 どれだけ注意していても事故に巻き込まれるケースもある。どちらもなくすには、一人一人の交通マナー順守しかない。一歩社会に出たら互いに気を引き締める。当たり前のことだが、一番大事なことだ。
 
 

261. 復興支援のカタチ                   H30.4.12

  東日本大震災から8年目に入った。時折、被災地以外の人にとって、現在の東北地方に対する思いはどうなのだろうと考える。「支援の方向性が分からない」「復興は終わっているんじゃないか」「平時との違いは何なのか」。8年目に突入すればもはや過去の話と思われても仕方がない。むしろ、10年一区切りと言われるように、あと2年後はすっかり見放されるのではないかという危機感すら覚える。
 よく自治体の首長は「心の復興はこれから」と強調する。では心の復興とは何か。外の人ができることは何か。何をすれば復興につながるのかと思われるだろう。決められた答えはない。だから迷って当然。物が届いたから、イベントに参加したからはあくまで一過性。それが終われば、ぽかんと心に空いた穴が見えてくる。大切な人を亡くした大きな穴。隙間なんていう小さいものでなく、ふさぐことができない穴なのだ。
 多分、この先も乗り越えることはできないと思う。だってその人は震災の津波が襲来するまで確実に生きていたし、まさかきょうで命が終わるなんて微塵も考えていなかったから。残された人だって同じ。境遇は交通事故で突然、命が奪われるのと一緒だ。
 不謹慎と言われるかもしれないが、長生きし、最後は家族に看取られて永い眠りにつくほど幸せなことはない。「ぴんぴんころり」という言葉があるように元気に長生きし、誰にも迷惑をかけず、すっと亡くなる。そんな人生はうらやましい限りだ。震災は老若男女を問わず命を奪った。命の重さは皆一緒であり、深い悲しみは、どんなに月日が流れても埋めることはできないだろう。
 「俺が死んだときにゃ、天国でおっかあ(妻)に会えるな。そんときまで一人で頑張るか。でもまたあの世で会えるなら死ぬときも怖くねぇ」。震災で妻を亡くした漁師の言葉を思い出した。
 夏木マリさん主演の「生きる街」、ドキュメンタリー映画「一陽来復」。最近は震災後の石巻に目を向け、生きるとは何かを問う映画が増えている。震災直後の生々しい映像や表現ではない。どちらも完成度が高い作品。「あなたのことは忘れない」と言っているようだ。こうした映画を見ることも復興支援の一つ。思いがあればどんな形でもいい。途切れたらそこで終わりなのだから。
 

260. あせぬ記憶 変わらぬ思い                 H30.3.12

東日本大震災から丸7年を迎えた。例年、あの日を思い出させるかのように毎年、この日は寒さと時折、雪が舞うが、今年は快晴。あの日も地震を境に好天から曇天に変わり、横殴りの雪が舞っただけに天候の変化に気を取られたが、穏やかな1日だった。同時にこうして何事もなく過ぎていく1日の大切さを改めてかみしめた。
 各地は追悼行事一色となり、海岸では海に入って花を流すサーファーの姿があった。知り合いの男性を亡くしたサーフショップのオーナーは「生きていればそろそろ結婚している歳。あの日はサーフィンではなく、仕事で避難する途中の渋滞に巻き込まれ、命を落とした。7年が過ぎても寂しい思いは変わらない。だから毎年、この日は彼が好きだった海に遺影を掲げている」と話していた。
 ガソリンスタンドを経営する男性は、妻と妻の両親を失った。「まさか妻が海辺に近い実家に両親の安否を確認に向かっているとは思わなかった。見つかったのは1カ月過ぎてから。3月11日は決して忘れることはない。昨年、孫が誕生した。妻もきっと喜んでくれていると思う。私たちは与えられた時間を大切にし、1日1日を過ごしていきたい」と語っていた。
 午後2時46分。地域は静寂に包まれた。多くの人が黙とうを捧げ、故人をしのんだ。同時にあの日の記憶が鮮明によみがえる。「風化」と叫ばれるが、震災体験者にとっては、あれだけ強烈な印象を残す事象は生涯ない。忘れるわけはない。辛くて思い出したくなくても忘れられない記憶として深く刻まれている。たぶん私もこの命が尽きるまで記憶から離れることはないだろう。
 復興庁がなくなるまであと3年。2020年の「復興五輪」の旗揚げと同時に支援は終わる。それまでに復興の加速、完結に向けて被災自治体は動きを速めるが、地域によって格差は見られ、とてもあと3年で新たな姿に生まれ変わるかどうかは分からない。むしろ時間的にはかなり厳しいといったほうが賢明だ。でも心の復興は別。これは10年とか20年とかの問題ではない。一生、心の中に残り続けていくもの。ケアは大事だが、亡くなった人たちは、生きている人たちの心の中で今も生き続けている。 そこをしっかり理解して取り組まなければならない。寄り添うとはそういうことだ。
 そして日付が変わり、東日本大震災から8年目が始まった。何もない1日がどれだけ幸せなことかをかみしめて。
 

259. 近づく「あの日」                     H30.3.3

3月に入った。今年は寒暖の差が大きい。石巻市は沿岸部であり、もともと積雪量は少ないが、今年は何度か大雪に悩まされた。気温が上がらず、路肩にガチガチに凍った雪がしばらく残るなど見るだけでも寒さが身に染みた。と、思えば屋根を吹き飛ばす勢いの強風、そして気温の急上昇。体調を維持するのがむしろ難しい感じだ。
 3月3日はひな祭り。各所で桃の節句を祝うイベントが行われ、小学生や乳幼児がひな壇にうっとりしながらひなあられを頬張る姿があった。吊るし飾りびなに手を伸ばす乳幼児もいた。生まれてまだ1年。この子たちが大人になる頃にはどんな地域になっているのだろうかと考える。無邪気な笑顔をいつまでも大切にし、この地域を愛し、住み続けたいと思う人になってほしい。それには今の大人が何を残していけるのかにかかっている。復興道半ばだけに責務は重い。
 石巻市の中心市街地も重機が入り込み、更地になった場所もある。石巻商工会議所の跡地もそうだ。被災と老朽化で会議所は数百メートル離れた場所に新築移転し、元の場所は民間に譲った。ここにはやがて商業ビルが入るという。中心部は再開発で住居は増えているが、気軽に買い物ができる場所は少ない。地方都市が生き残るには公共施設、スーパー、医療機関、住居がまとまったコンパクトシティー施策が重要。徒歩圏内でことを済ますことができれば高齢者にとって運転免許がなくても暮らし続けることができるまちとなる。
 間もなく発災日を含めれば8回目の3月11日がやってくる。「時間の流れは早く感じるのか、それとも遅いのか」。そんなことをこの時期はよく聞かれる。家族関係が代わった人、住まいが代わった人、学校が変わった人。逆に何も変わらない人を探すのが難しいほど。時の流れの感覚は十人十色といえるのだろう。ただし、まちづくりに落とし込めば「遅い」の一言に尽きる。今も人口流出、人口減少は止まらない。
 復興庁がなくなるまであと3年。そう考えれば時の流れは早い。悲観的になるのではなく、この3年間で復興を完結させる勢いで進まなくてはならない。ただしそれはハード面。心のケアはむしろこれからであり、終わりはない。なぜか毎年3月11日は「あの日」のように天気が目まぐるしく変わり、寒くなる。きっと忘れないでほしいという天からの思いなのだろう。
 

258. 子ども食堂オープン                   H30.2.22

子ども食堂をご存じだろうか。地域住民や団体が主体となり、無料か低料金で食事を提供するコミュニティーの場。2012年に東京都大田区の「気まぐれ八百屋だんだん」の店主が始めたのがきっかけとなり、全国に波及した。背景には子どもの貧困がある。貧困世帯はひとり親の家庭が半数を占めており、孤食も併せて問題として取り上げられるようになった。子どもの食事難や孤食に対する問題は、親の就職、離婚などが深く関連しており、根本的な解決方法を見つけるのが難しい現状だ。
 「難しいことはさておき、子どもたちにはおいしく温かいご飯を食べてもらおう」と一石を投じたのが子ども食堂。親から子への貧困の連鎖を断ち切る目的がここにある。最近は「子ども食堂=貧困」ととられ、ためらう親や子どもが増えているため、子ども食堂の名を全面的に出さず、コミュニティー形成や世代間交流の場として開いているところもある。
 石巻市では2015年に県内では初めて子ども食堂を開設。NPO法人が展開し、学習支援も行うなど積極的な活動で今も子どもたちの憩いの場となっている。東松島市では今年2月に初めて催され、多くの子どもたちでにぎわった。 東松島市赤井の柳北自治会が主催した取り組みであり、ここは新興住宅地で若い世代が多く、貧困層はみられない。ただし、自治会は子ども食堂を通じて高齢者世帯との世代間交流を図ることを目的に開いた。とはいえ、各家庭の細かな状況までは分からない。自治会長は「会を重ねていく中で何かが見えてくるはず。それが貧困か、学習支援なのか分からないが、何かが見えれば対策はできる」と話す。今回は限定オープンだったが、課題を整理し、4月からは定期開催していくという。
 宮城県内では東日本大震災で遺児、孤児が増えた。大人は職を失い、今も産業再生は7割程度にとどまる。首都圏や関西圏とつながった販路は風評被害で絶たれたまま。工場が再建できても売る相手がいなくては本末転倒。そんなジレンマが今もある。親の苦悩が生活に現れ、それが子どもに連鎖していてもおかしくない。見えない貧困にどう対応していくか。地域の課題がここにある。
 

257. 東京から厚木市へ                    H30.2.13

 東京みやぎ石巻圏人会は石巻出身者や石巻にゆかりのある首都圏近郊に住む人たちで構成される。今のメンバーは約60人。本来、在京者はまだまだたくさんいるはずだが、会員集めは本当に一苦労だ。若手をどれだけ振り向かせ、ふるさとに思いを寄せることができるか。一人一人、考え方は違うだけに難しい問題だ。
 圏人会の総会が千代田区内のホテルであった。昭和63年1月に発足し、今年で創立30周年。9月9日には都内で記念のつどいを開くことが承認された。講演会とコンサートが軸。人選や内容はこれからだ。その後はお決まりの懇親会。ある都内在住者から「被災地への支援の方向性が難しくなってきている」と相談を受けた。確かに物資などはもはや不要であり、それでは自立ができない。でも大切な人を失った悲しみ、思いは時間で埋めることはできない。抱えているものは大きい。
 「石巻では目的意識がはっきりしている団体がしっかりとした方向性を掲げ、将来の姿を思い描きながら元気に活動しています。勢いで動いたところや迷いの中から抜け出せないところは消えていっています」。きつい言い方かも知れないが、それが私の出した答えであり、ありのままの姿だ。
 都内を歩く限り、どこをみても震災のかけらを探すことはできなかった。これが平時。当たり前の生活。正直、うらやましくも感じてしまう。
 翌日、電車を乗り継ぎながら神奈川県の厚木市に向かった。厚木市野球協会が今年6月にある第60回石巻日日新聞社旗争奪少年野球大会の全面支援を決めてくれた。しかも単年度ではなく、長期を視野にいれているという。優勝したチームを厚木市に招き、神奈川県の野球チームと交流戦や祭り見物などを行う企画。案内をしてくれた協会事務局の木村淳さんは「厚木は何もなくてすみません」とひっきりなしに言うが、自然環境に恵まれ、人の心が温かい。まして被災地からちょっと離れ、息抜きをすることは子どもにとっても必要。行程は8月上旬となるが、きっといい思い出、忘れられない夏休みになるだろう。
 個人的には夏休みの絵日記にそのことを書いてくれればうれしい。子どもたちに夢を届けられるように会社に戻ってから早速、情報共有し、今月末には大会実行委員会を立ち上げることを決めた。何事も行動あるのみ。また自分に言い聞かせた。

 

256. 高砂長寿味噌本舗が事業停止               H30.1.23

 高砂味噌長寿本舗。石巻市民ならご存知の人は多い。しょうゆ、みその製造販売を行い、高砂ブランドは何度も大臣賞を取るなど実績から知名度を高めた。国産大豆のみを使い、みやぎの名工に選ばれた職人を工場長に丹念に仕込む。大手メーカーの製品と比べれば幾分割高だが、贈答用や特別な日などに愛用する人も多い。約1世紀近く愛されてきた本舗だったが、閉店は突然やってきた。
 と言っても閉店で知ったわけでなく、昨年末から水面下で取材は進めていた。経営を巡るトラブルなどもあったが、一番大きかったのは東日本大震災による被災。海沿いにあったしょうゆ工場は打撃を受けるも何とか半年後に醸造を再開できた。みそ工場は震災前に東松島市の高台にある産業団地内に移転しており、こちらは被災を免れた。被災後に追い打ちをかけたのは国産大豆の高騰だった。
 「これ以上どうしようもできない。震災前の売り上げは4億5千万円を超していたが、今はその4割減。経営は成り立たない」。本舗では生産調整で昨年10月から量販店での扱いを休止しており、消費者からは「何かあったのだろうか」と懸念する声も上がっていた。
 本来ならここで終わってしまうが、そこにホワイトナイト(救世主)が現れた。東松島市内の有力企業である。そこが、みそ工場を任意売買で取得し、遅延だった従業員の給与も支払った。社長と顧問は引責辞任するが、高砂長寿味噌本舗は、2月1日から「東松島長寿味噌本舗」として再スタートを切ることが決まった。経営陣は一新するも、新会社で働く意欲のある従業員は原則、全員雇用する。
 先日、従業員に解雇通知書を渡した本舗の顧問は「悔しい思いでいっぱい。でものれんと味、そして人を守ることができた」と話した。一つの時代が終わった瞬間だった。顧問に取材したのはみそ工場に隣接する直売所内。まだ陳列棚に商品が並んでいる。とても業務停止を迎えるとは思えない。でもこれが現実だ。
 翌日、このニュースを報じたところ、ホームページに驚きの声が多く寄せられた。「寂しいが、味が守られるだけでも救い」と言う書き込みもあった。誰しも大切にしたい地元の味がある。高砂長寿味噌もその一つだったに違いない。
 震災後、多くの事業所が再開したが、販路の回復や拡大に伸び悩み、ここにきてつまずく企業が多くなっている。震災から間もなく丸7年。復興も企業も正念場を迎えている。
 

255. 高校生が見た風景                     H30.1.12

 明治大学付属明治高校・中学校が震災復興支援をしてから今年で6年目。毎年、年始早々に高校生が石巻市や女川町を訪れ、震災の爪痕を学んでいるほか、石巻日日新聞社が主催する少年サッカー大会を共催し、盛り上げてくれる。男子サッカー部の部員は大会で審判を務めたほか、今年は初のエキシビションマッチとして小学生チームと対戦。高校生は10人を2チームに分け、5人で攻守を展開するが、小学生チームは保護者や監督も入り、大人数で攻め込む。でもさすがは都内でも実力派の高校生。なかなか子どもたちもゴールをこじ開けることはできない。見ている方も楽しい試合だった。
 今年は生徒と教職員合わせて31人が訪れた。初日は石巻日日新聞社が開設する震災伝承施設「石巻ニューゼ」で震災直後の様子に理解を深めた後、翌日は早朝からサッカー部が大会運営、生徒会本部や有志の生徒はグラウンド前で選手や子どもたちにホットドリンクを提供したほか、的当てゲームで一定数を倒せばお菓子のつかみ取りに挑戦できるなど、趣向を凝らした。用意されたお菓子はざっと3000個。明治高校の力なしでは、ここまではできない。
 女子生徒は過去5回、仮設住宅を訪問し、利用者と茶話会などで交流を深めてきた。でも今年は、女川町の仮設住宅も退去者が進み、多くが終の棲家となる災害公営住宅に入居したため、そこの集会所を使ってエコバッグづくりと茶話会を開いた。
 「皆さん、昨年と表情が違いますね。昨年は仮設を出る期待と不安が入り交じった感じでした」。2年連続で女川町を訪れた女子生徒はこう語った。的確。確かに昨年、被災者の心にあったのは公営住宅に移ってからもコミュニティーが維持できるかどうかの不安が先行していた。でもこの公営住宅では集会所を使ったカフェがあり、運営も客もすべて住民が行う。男性も来やすい環境にあり、人が自然と集まればコミュニティーがそこに生まれる。特別なことはなくてもやり方一つということだ。
 この女川町の公営住宅で区長を務める鈴木浩さんは「男はね。交流会などの名前だと、何かしゃべらなくてはならないと感じ、敬遠してしまう。交流の場を持つにはタイトルが大事。そうだね。お茶っこ会程度でいいんじゃない。固く考えないこと。だってコミュニティーは自然に発生し、広がってきたものでしょ。無理に早めようとすると誰もついてこなくなる。目配り気配りしながらじっくり進めないとね」と話す。
 コミュニティー再生の手法に正解はないのだろう。いろいろなやり方があって当然。人の深層心理を読み解くなど小難しいことをせず、まずはゆっくり思いやりを持って接する。鈴木さんの考えに同調できた。
 

254. 平成30年の幕が開く                    H30.1.4

 平成30年がスタートした。予報では初日の出が臨めるかどうかが微妙だったが、当日は水平線から顔を出し、穏やかな1年が始まった。2日は天気がよいものの、風で波があり、新春恒例の初漕ぎ(ボート)は神事のみで室内練習となった。3日は消防の出初式などがあったが、交通網に追い打ちをかける雪。やはり今年は雪が多い。
 宮城は豪華景品で知られる仙台初売りが有名であり、県内の商業施設や小売店は元旦、または2日の初売りに力を注ぐ。一年の景気を占うのだろうか。大型商業施設の前は夜明け前から人の列が続く。開店となれば、われ先にとエスカレーターを駆け上がり、目当ての限定商品や福袋に手を伸ばす。あの様子にはいつもながら圧倒される。
 一方の中心市街地はそれほどの混雑はない。ここは逆に活気がほしいところ。店舗を見てもシャッターが下りていたり、営業時間がまちまちだったりと一貫性はない。この界隈は震災後に復興公営住宅や分譲マンションが増えており、定住化が進む地域。こんなときこそ、地元商店街の力を見せるべきと思うが、どうも連携は感じられなかった。
 朝日が昇ると長い影が伸びる。数年前はがれきが撤去され、何もなかった土地に今はまばらながら家が建ち始め、再開発を始めたまちなかには中層型のビルも建った。今年は影の数が幾分増えたような気もする。いやいや確かに増えた。復興庁が廃止されるまであと3年。被災地には虫食い状態の土地が今もかなりある。3年。この間にどれだけ復興を進めることができるのかが鍵だ。
 行政も1月4日から仕事始めだった。求められるのは「攻めの行政」。市民サービスを最優先に国、県に対しては強気で臨まなければならない。見切りを付けられれば人口減少に歯止めがきかなくなる。時間がない。平成30年。戦いの幕が開けた。
 
  

253. どこに向かう地球号                   H29.12.31

 平成29年も暮れていく。来年は30年。天皇陛下の生前退位によって平成の時代を丸々過ごすのは来年だけとなる。時代がまた一つ変わる。生きていることを実感する。
 未曽有の被害を出した東日本大震災から間もなく6年10カ月。年が明ければ丸7年が見えてくる。慰霊碑の前に刻まれた無数の名前。誰もこの日に命が奪われるとは想像もしなかったことだろう。「妻を亡くしました」「子どもを亡くしました」。取材先でよく聞く。最愛の人を失った痛みは本人しか分からない。いくら私が近づいて理解しようとしてもそれだけはできない。
 今年も国内ではたくさんのニュースがあふれた。パンダの赤ちゃん誕生など明るい話題も多かったが、親が子の命を奪うといった残虐な事件も目立った。生きたい。生き続けたい人の命を奪う権利はどこにもない。後悔しても戻すことはできない。
 今年の漢字には「北」が選ばれた。北海道日本ハムファイターズの大谷選手や清宮選手、北海道のじゃがいも不作、九州北部の豪雨などと言うが、一番は北朝鮮のミサイル挑発に他ならない。これも命を脅かす脅威。人はどうしていがみ合うのか。
 豊かさや快適さ、地位や富を手にすれば人は変わる。さらなる欲を求め、不協和音が出始めればそれを力で抑える。この国は、この世界はどこに向かおうとしているのか。ひと昔前「宇宙船・地球号」という言葉があった。人類の共存か、それとも共滅か。地球号が進む先は分からないが、誰もが明るい未来に向けて舵を切ってほしいと願っているはずだ。
 石巻地方では仮設住宅の入居者数はだいぶ減ったが、それでも終の棲家の完成を待ち、今年も仮設住宅で年を越す人もいる。沿岸部に目を向ければ造成工事が至るところで進んでいる。色に例えるなら「茶色」。土の色だ。緑やカラフルな色に染まるのはまだ先。それが現状だ。復興は道半ばであり、来年もまた一歩進むが、完結には至らない。
 平成30年は希望に満ちた年であってほしい。命を大切に人の痛みを知り、支え合う。当たり前の毎日が当たり前に来る。そんな日々を願って今年の筆をおく。
 
  

252. 来年の3・11は新本堂で                  H29.12.26

 約600年の歴史を持つ東松島市野蒜の長音寺。海に近い寺院だったが、東日本大震災の津波で甚大な被害を受け、本堂などが流された。寺は平成15年の宮城県北部連続地震で被害を受け、檀家の協力を受けながら修復し、震災が起きる1年前には会館も整った。ようやく再起を果たしたというそのときに震災が再び襲った。
 当時の住職が犠牲となり、檀家も約100人亡くなった。半数以上の檀家が仮設住宅での生活を余儀なくされ、寺の再建は足踏みが続いていた。あれから6年以上が過ぎ、檀家の多くは高台に造成された市街地で住宅再建を果たすことができ、ようやく寺も再建にめどがついた。
 年の瀬が迫る頃、寺では上棟式が開かれ、檀家が焼香した後、屋根からは1600個の紅白餅がまかれた。寺は人々が集う場。ようやく地域コミュニティーの再生が始まったことの祝い餅となった。今の住職は先代の弟。「あの日から6年9カ月。長かった。周りは家もなく古里の面影も残っていないが、寺が皆さんの心のよりどころになればそれでいいのでは」と話していた。
 寺は会館風のシンプルな作り。でも今までは屋外にテントを張って3月11日の法要を執り行ってきた。求められているのは見栄えや大きさではない。上棟式では誰一人として本堂の形状に異議を唱える人はいなかった。むしろ、待ちに待った再建に安堵の表情を浮かべていた。
 「東日本大震災から丸7年となる来年の3月11日は新しい本堂で法要を営みます」と住職。長音寺の回りを見渡しても家はない。背丈まで伸びきった雑草が茶色になり、寒風に揺れている。その先では盛り土の造成や海岸堤防の整備が進む。長音寺の近くには震災前の夏だけで6万人以上が訪れていた野蒜海水浴場がある。防潮堤整備が順調に進めば、来夏が海水浴場のプレオープン。数年先には本格再開も見えてくるだろう。
 そのころには東京オリンピック・パラリンピックが終わっているのではないか。復興五輪の話題は最近聞かないが、東京が五輪で沸いているころ、地方との間にどんな温度差が生じているのだろう。

   

251. 神頼みで運をつかもう                   H29.12.19

 神頼み。誰もが一度はしたことがあるだろう。すがりたい気持ちはあるものだ。石巻市では受験期が近くなると北上地区にある釣石神社を参拝する中学生、高校生がどっと増える。ここは縁結び、夫婦円満、子孫繁栄にご利益のある神社だが、御神体の巨石が東日本大震災を含めて幾多の災害にあってもびくともしなかった(落ちなかった)ことから「受験の神様」として知られるようになり、今では合格祈願で足を運ぶ人が多い。
 毎年、12月になると日本音風景百選に入った北上川のヨシを使ったヨシ門松、それに茅の輪が飾られる。輪の直系は3、5メートル。「ヨシ合格」の語呂合わせにかけており、神社に登る階段の前にあるこの輪をくぐってから山頂で参拝するのが流れだ。
 釣石神社の付近は震災の津波によって家屋が流出し、神社も社務所や鳥居が流された。たくさんの人命も奪われた。神社の階段を登ると重機が土を盛っている光景が目に入る。川向うには児童、教職員を含めて84人が死亡、行方不明となった大川小学校の被災校舎がある。真ん中を流れる北上川。川の流れは静かだが、あの日は津波が川を遡上した。 もう一つ。石巻では有名な神社がある。日和山の鹿島御児神社だ。初詣と言えばここ。あと10日経てばカウントダウンを行うために多くの人が訪れる。今も正月飾りを買い求める人の流れは止まらない。年の瀬になればもっとにぎわうだろう。石巻市内が一望できる場所。眺める景色は希望か、それとも。人それぞれ感じるものは違って当然。一つ言えるのは復興はまだまだ道半ば。
 もうすぐクリスマス。そして年の瀬、お正月。10日ほどの間でたくさんのイベントがある。まずは仕事を片付けるのが先かな。私の場合は。
 
  

250. トンネルの先の郵便局                   H29.12.7

 水曜日の出来事を手紙に書いて送ると、代わりに誰かがつづった水曜日の出来事の手紙が届く。そんなちょっぴり不思議な架空の郵便局が、東松島市内の今は使われなくなった廃漁港内に開局した。その名も「水曜郵便局」。小さな日常の物語を通して心の声をつなげるプラットフォームとなりそうだ。
 このユニークな企画は映画監督の遠山昇司さん(東京都)らで組織する「水曜日観測所」が主催しており、東松島市が後援、日本郵便東北支社と石巻、鳴瀬両郵便局が協力している。設置期間は1年間の予定。熊本県で平成25年に行われた水曜郵便局事業の東松島版という。

 この廃漁港に行くには手掘りのトンネルをくぐる。長さは約50メートル。差し込む光りが別の世界にいざなうような雰囲気を醸す。郵便局はトンネルを抜けた先の小さな小屋。そこに白色の「灯台ポスト」が設けられ、全国から投函された「水曜日の出来事」がここに集まる。郵便局員がポストに手紙を配達し、水曜日観測所のスタッフが回収。個人情報を伏せ、手紙を送った誰かへ無作為に転送する仕組みだ。
 水曜日は1週間の真ん中。すなわち週明けと週末の接続点。誰かと誰かの物語が結ばれることで新たな奇跡を生む。実感できるのは心のつながりだ。実に夢がある企画。では、水曜日の出来事を書いて送ってみようかな。誰のが届くのか楽しみだ。
 宛先は〒981−0394 東松島市宮戸字観音山5番地その先 鮫ケ浦水曜日郵便局
 

  

249. 生み育てられるまちへ                   H29.12.2

 今までありそうでなかった企画。「マタニティフェスタ」。他県、他地域からすれば恒例の企画とも言えるかもしれないが、石巻地方(石巻市・東松島市・女川町)では前例がない。子どもや高齢者向けの企画やイベントは数多いが、妊娠期から切れ目なく支援する取り組みがこの地域には薄いとしか言いようがない。
 主催したのはNPO法人ベビースマイル石巻。子育て中の主婦らを中心とし、震災後に立ち上がった団体だ。妊娠期は体が不安定になり、精神的にも追い込まれるときがある。私を含め、男性の立場では分からないことだが、支えてほしいときに支える仕組みが不鮮明だと母体にとっては決して良い方向ではないのは確かだ。

 フェスタでは育児相談や名前の画数占い、乳幼児向けの製品を扱う企業ブース、ステージ広場、新生児や乳幼児、マタニティの衣類リサイクルがあった。これから出産を迎えようとする人から幼児期の子育てに励む人まで幅広く対応しており、多くの家族連れでにぎわった。
 石巻市で4人の子育てに励む主婦は「さすがに4人目となると大きな悩みは少ないですが、どうしても上の3人と同じような食生活になってしまう。つまり子育てに変化がないということですね。それにここ数年の間にいろいろな子育てグッズが誕生している。見るだけでも勉強になるほか、こうしたイベントこそ毎年、続けてほしいですね」と話していた。
 また、東松島市の主婦は「子どもはすぐに大きくなるので衣類も着られる期間は少ないです。こうしてリサイクルでいただけるのはとても助かる。不要になって捨ててしまう服でも欲しい人はたくさんいます。うまく循環できるような仕組みができれば、経済的にもかなり助かるんですけどね」と語っていた。
 少子高齢化が叫ばれているが、将来ビジョンだけでなく、こうした即効性の企画も大事。NPOだけに頼らず、行政も一丸となって支え、子育てがしやすいまちにしていかなければならない。石巻地方は人口減少に歯止めがかからず、震災で人口減は10年分進んだとされる。生まれてきた子どもたちは国や地域を選べない。でも「石巻に生まれて良かった」と思ってもらえるようなまちにしいていかなければならない。それが地域の務めだ。
  

248. 介護フェスティバル                   H29.11.22

 人は誰しもが年を取る。10代のころは「早く大人になりたいな」と思っていたが、30を過ぎ、40も半ばに差し掛かると「ちょっと時間が過ぎるのが早すぎないか」と感じてしまう。身勝手と言えば身勝手かもしれないが、誰もが一度はそんな思いに浸る瞬間があるのではないか。
 現実問題として年を重ねれば介護の必要性は高まる。ひと昔前は「○○さんの家で老人ホームに入れたそうよ」が近所の噂話だったが、今は施設利用は当たり前の世の中。むしろ待機者が多いのが現状であり、国は「住み慣れた地域で最後まで」をフレーズに在宅介護を奨めるが、介護者側にとっては大きな負担。でも介護を受ける側にとっては自宅で余生を過ごしたいという思いは強い。こればっかりは本当に難しい問題だ。
 在宅か、施設利用か。どんなサービスを利用するにしてもそこには人手が必要となる。だが、介護業界は慢性的な人材不足が続き、ある施設の関係者は「利用者の入居を進め、施設の稼働率を高めたいが、何せ職員が足りない」と職員の数に合わせて入居を抑えているところもある。地方においては超高齢化の流れは止まらない。むしろ東日本大震災の被災地は「10年、時間が進んだ」とも言われ、一気に進んだ人口減がその言葉を裏付けている。
 そんな中、石巻市では特別養護老人ホームを有す事業所や法人が連携し、初の介護フェスティバルを開いた。ただのイベントではなく、ハローワークの協力を経て職業相談ブースを置くなど「介護の魅力発信」に重点を置いた。訪れたのはたくさんの老若男女。年配者はこれから想定される生活をしっかりと考え、若年者は介護業界に興味を抱いた。
 個々の利益のみを追求すれば業界内で横の連携などありえない。でも共通課題に立ち向かうには利益よりも先に考えなければならないことがある。介護フェスではそれを立証させた。「来年以降も続けていきます。これからはどんどん人手がほしい状況。石巻市内にも介護を学べ、資格が取得できる専門学校や学科があればいいのですが」。介護フェス実行委員の言葉に私も大きくうなずいた。

 
 

247. 中学生の職場体験                    H29.11.10

 職場体験。私たちが中学校の頃はなかった活動だ。今は職業観を学び、将来の夢を具現化できるように若いうちから社会を見る授業が組み込まれている。逆に「中学生のころの夢はなんだった」と聞かれれば、即答できない。将来の夢が形となって描かれたのはもっともっと先の事だから。
 今の職場体験は実にユニーク。まずは学校側から紹介があり、受け入れ側の了承が得られれば後日、訪問する生徒自らが連絡を入れ、趣旨を伝える。その後、学校側から履歴書が送られてくるが、まだ中学生であり、人生経験は多くない。そろばん5級、書道、スポーツ少年団への所属経過、中には転んで骨折した経験も履歴書の中に書き込まれているなど読んでいるだけで楽しい。同時にその人柄が頭に浮かぶ。
 進学、就職の履歴書は型にはまったケースが多く、人物像を知るのは面接となるが、その面接もすでに練習済みであり、本心はなかなかつかみにくい。その分、職場体験の対象で受験まで1年ある中学2年生は素直に表現するので物事への関心がはっきり分かる。石巻日日新聞社でも毎年11月を中心に多くの中学生が職場体験し、2日間の日程で記者体験を行う。実際に取材し、記事を書く。後日、その記事は紙面で掲載して発表するという仕組みだ。
 石巻税務署にうかがったときは、署長へのインタビュー、子どものころの話やなぜ税務署を志望したのか、趣味など、業務から離れた質問も多く、和やかな雰囲気だった。記者体験は子どもたちにとって簡単なことではない。いや、すべての仕事がそうだろう。簡単なことなど一つもない。でもその一翼に触れることで社会の厳しさも知ることができる。
 今や少子高齢化社会。私たちが団塊の世代を迎えるころの高齢化率を想像するだけでも怖い。前途ある若者がしっかり就労でき、家庭や地域社会を支えていけるような世の中にするためにも職業観を植え付ける職場体験は意味がある。どうか他の事業所も「面倒だから」とそっぽを向かず、生徒たちを受け入れてほしい。次代の担い手を育てるのは今の私たちの使命だ。
 

246. 子ども会のない地域                   H29.10.31

 ハロウィーン。昔は聞きなれない西洋行事だったが、いつの間にか日本に定着した。バレンタインデーといい、日本はいろいろなものを吸収する。それによって儲かる業界もあるが、それはそれ。イベントを通じて楽しい思い出ができればそれで充分だろう。
 ハロウィーンを子ども会、育成会単位で行うところもあるが、東日本大震災で被災し、防災集団移転促進事業で整備された新市街地では、まだ子ども会ができていない地域もある。約540世帯、1500人が暮らす東松島市のあおい地区がそれだ。自治会は1、2、3丁目にそれぞれあり、これをまとめる地区会を設けるなど先進的な取り組みを進めているが、子ども会だけは今もない。
 交通安全週間などで旗を持って横断歩道を誘導する保護者をよく見ると思う。ほとんどは子ども会や育成会での持ち回りで保護者が協力しているが、あおい地区は他地域の保護者が旗を持って地区内の横断歩道に立つ。決して子育て世代の親がいないわけではない。育成会がないので何をどうしたらよいのかわからず、他地域の育成会が手を貸している状況だ。
 そんなあおい地区でハロウィーンパーティーがあった。企画したのは地区内に住む子どもたち。実行委員の9人は小学生、中学生、高校生と年代もばらばら。あおい地区は仮設住宅から転居しても学区を変えずに通学できるように越境学区を認めてるため、みんな学校が違う。実行委員長は小学4年生の女児であり、元々は内気な性格だったというが、責任感からかいつの間にか殻を破り、積極的にリーダーとしての資質を発揮した。
 パーティーも終わりに近づくにつれ、女児はちょっと寂しげな表情を見せた。「パーティーの運営をしているときが楽しかった。学区が違うので同級生が遊びにくることが難しいが、実行委員会があるのでこの数カ月は楽しめた。ハロウィーンなど行事じゃなくても子どもが集まれる場がほしい。早く子ども会ができないかな」と待ちわびる。
 この子たちは2歳か3歳の時に被災した。もちろん記憶はほとんどないだろう。でも被災の現実を今まさに肌で感じている。ハード整備が整ってきてもソフトは横倒しの課題が山積み。やるべきこと、やらなければならないことはたくさんある。
 

245. ミサイルから身を守れ                   H29.10.7

 ミサイル挑発を続ける北朝鮮。外交は緊張感の中にあり、全国瞬時警報システム(Jアラート)が2回も鳴った東北、北海道地方は戦々恐々としている。東松島市では県内で初めて、全国では17番目となるミサイル飛来を想定した住民避難訓練を実施した。
 市内全域ではなく、一部地域に限定。住民代表約130人がエリア内で自由に過ごし、防災行政無線からミサイル発射を告げるJアラートの情報が流れると各自で避難行動を起こした。北朝鮮から発射されたミサイルの通過、または落下までは約10分。首都圏と違って当然、近くに地下施設はない。物陰に隠れ、手で頭を覆う人、物陰も木陰もなく、地面に伏せて頭を覆う人、図書館に逃げ込んだ人は爆風による飛散を懸念し、窓ガラスから離れた中心部に集められた。
 訓練は正味10分。無線が聞こえにくいなどの意見もあったが、おおむね訓練の実施には理解が得られていた。その一方、「これが本当に落下するとなればパニックになるのは当然。こんな冷静な行動はとれない」「核弾頭を積んだミサイルが着弾したらもう終わり」という声もあった。自然災害とは違った脅威であり、対応に悩んで当たり前だ。
 訓練が実践にならないように国はさらなる外交努力が必要。再び襟裳岬を超えて太平洋沖に着水する可能性もあり、北朝鮮は水爆実験も示唆している。日本は10日に衆院選の告示を迎えるが、朝鮮労働党の創建記念日。この前後にミサイルが発射されるという話もあり、日本の対応力が注目される。再び戦争を引き起こしてはならない。尊い命を軽んじてはならない。被災地からのメッセージだ。
 

244. 復興置き去りの秋の陣                   H29.10.2

 宮城県では10月に任期満了の知事選があることは承知していた。現職に対し、なかなか対抗馬がでず、このまま無投票か、とまでささやかれた。このときまでは平時だったと思う。どの瞬間だろう。急に突風が吹き荒れ、衆院選を運んできた。宮城では史上初の知事選、衆院選の同日選。知事選のみを意識していた私たちは急きょ舵を切り、衆院選への対応を強めた。
 9月25日に安倍晋三首相は記者会見し、衆院解散を「国難突破解散」と位置付けた。その様子をテレビの前で一字一句漏らさず聞いた。来年の消費税増税分を子育て世代に充てる使途変更が軸。「大義なき解散」と野党批判を浴びる中、取ってつけたような政策に聞こえてならない。北朝鮮情勢が予断を許さない中、なぜこの時期にと疑問が浮かぶ。
 看過できなかったのは会見の中で「復興」の二文字はどこにもなかった。復興完遂など首相の口からいつでるのかと耳を立てて聴いていたが、最後の最後までそんなことはなかった。震災から6年半。被災地報道が減る中、復興はもう終わったと思われているのだろうか。被災地に来て視察し、「復興を成し遂げます」と放った言葉はリップサービスだったのか。残念でならない。

 石巻市内が一望できる山から見下ろすと長屋の仮設住宅が目に入る。多くはここを出て復興住宅に暮らしているが、行き先が決まらない人もいる。震災で生活の格差は顕著に表れている。市街地から外れた地方では今も造成真っ最中で建物のカタチすら見えてこない。
 石巻市を大票田とする宮城5区から立候補を予定する2人もまず口にしたのは震災復興。この課題には与野党の枠を超えて取り組まなければならない。立候補者には論戦だけでなく、何としても国会の場に戻り、復興完遂に向けて予算確保を訴えていく強い気概を持って戦いに挑んでほしい。
 

243. 東京みやぎ石巻圏人会交流会                H29.9.19

 首都圏在住の石巻地方出身者やゆかりのある人で構成する東京みやぎ石巻圏人会(阿部勝会長)の交流会が銀座で開かれた。石巻在住者も上京し、約50人が参加した。これまでは年1度の総会だけだったが、それでは連携が深まらないとし、平成26年から9月に交流会を差し込んだ。そして今年が4年目。講演会と懇親会の2本立てであり、講演では元石巻市教育長で石巻市文化振興財団理事長の阿部和夫さんが「石巻開港と米谷喜右衛門」をテーマに語った。
 懇親会は名刺交換を兼ねながら石巻と東京のつながりを考えた。石巻日記を掲載する支援団体『きぼうのきずな ひとつ。の代表である土肥礼子さんは、懇親会の間も石巻の地場産品の詰め合わせを来場者に売り込む精力ぶり。圏人会の皆さんは石巻の現状を良く知っており、私にも復興課題や人口減少を鋭く突く質問が寄せられた。それだけ地域の事を心配しているのが伺えた。
 東京は駅を降りれば人、人、人。どこにいっても人だらけ。石巻地方が抱える人口減少とは無縁と思えてならない。夜もネオンが光り、たくさんの人が行き交う。新聞を広げても震災の記事は特段目に付かない。もうそれが日常になってしまったのか。都心にいると東日本大震災は本当にあったのだろうかと錯覚するほど震災の痕跡を探すのが難しい。伝える側がしっかりしなければ風化を招くことが身に染みた。
 でも被災地から離れているからと、みんながみんな、』忘れかけているかといえば決してそうではない。「どのような状況になれば復興したと言えますか」。東京にいるとき、こう聞かれた。彼女は石巻出身ではなく、被災地にも足を運んだことはないが、被災状況や復興課題などを良く勉強している。正直、一番困る質問を投げかけられた。住んでいた地域、家族や知人の安否、フラッシュバックなど人それぞれ精神的ダメージは違う。それを一該に線引きすることはできない。ハード面だけにこだわるのならめどはつけられるが、コンクリートには心はない。う〜ん。やはり悩む質問だ。
 でも私の中には答えはある。これが当たっているのかどうかは分からない。「どのような状況になれば復興したと言えますか」。石巻日記での答えはまだ先に取っておこう。
 

242. 何もないことの幸せ                    H29.9.6

 震災遺構。東日本大震災で被災した構造物を現状のままで残し、後世に伝えるものだ。震災後、1−2年は遺構と呼ばれそうな被災構造物があちらこちらにあったが、解体や撤去が進み、今現存しているのは被災自治体に1−2個程度。背景には国が遺構整備に予算を付けるが、1自治体一つまでと決めており、複数の場合は自治体の単費となる。また、遺構の維持管理費は各自治体で賄っていかなければならず、被災という事実を踏まえれば観光地のように入場料は取りにくい。よって企業感覚でものを言えば生産性はない施設となる。
 でも10年、20年経って写真や文章、模型でいくら説明しても「百聞は一見に如かず」。そこに遺構があれば、すべてが伝わる。沿岸部にあり、被災したJR仙石線の野蒜(のびる)駅もその一つ。先日、取材で久しぶりに遺構として残るプラットホームに立った。至るところに段差がある。地盤沈下の影響でホームに亀裂が入り、段差や陥没が生じていた。震災前はたくさんの人がここを行き来し、出会いと別れがあった。ホームとはそんなものだろう。でも今は誰もいない。
 6年半も使われずにいるとコンクリートを突き破って雑草が背丈ほどに生えてくる。「雑草根性」とはよく言ったものだ。プラスチック製の駅の看板は劣化が見られないが、木製のベンチは色がすっかり落ち、木も腐食している。ホームから下をみれば使われなくなった赤茶色にさび付いた線路が延びる。もうこの上を電車が走ることは二度とない。
 駅の後方には10月末を目標に復興祈念公園が整備される。中央の祈念碑には震災犠牲者の名前が刻まれ、鎮魂と祈りの場となる。どんなことをしても亡くなった人は戻ってこない。日常の何もない暮らしがどれほど幸せか。被災地に住んでいるとこの意味が痛いほど分かる。きょうも曇りや雨の一日だったが、こうして何事もなく時間が過ぎていく。これだけで幸せだ。
 

241. 青空に描くスモークのアート                H29.8.29

 東日本大震災からの復旧、復興を経て航空自衛隊松島基地(東松島市)の航空祭が7年ぶりに復活した。アクロバティックな飛行を展開するブルーインパルスの曲技飛行を見るため、全国から航空ファンが訪れた。基地の門前には前日から泊りがけで並ぶ人もおり、開門は30分早めて午前8時としたが、人の列は後ろが見えないほど。手荷物検査もあったため、入場には時間を要した。
 震災前の航空祭は、記憶にある範囲で好天に恵まれたケースが少なかったが、今年はこの日だけが雲一つない快晴。航空祭を挟むように雨や曇りが続くだけに不思議なほど晴れ渡った。ここまでくれば条件に何の文句もない。基地を飛び立った6機のブルーインパルスは上空で回転や急上昇、編隊飛行を繰り広げ、青空にスモークでハートや桜の花などを描いた。
 来場者数は基地発表で43000人。よく、お祭りでは主催者発表で来場者数を多く上乗せする傾向があるが、基地はほぼ実数。入場口が限られているため、人数は把握しやすいと思うが、あの広い基地でも人、人、人の波。他の祭りでいう来場者20万人とかは「本当か」と思わず疑うほど。
 松島基地は沿岸部にあり、震災後は戦闘機が被災するなど大きな被害を受けた。ブルーインパルスは偶然にも九州地方におり、被災は免れたが、もし松島基地にいて津波被害を受けたことを考えれば復活は難しかっただろう。その後は津波から基地を守る防潮堤の整備などを経て昨年は抽選で選ばれた1万人を限定に感謝祭を開催。今年は入場制限を撤廃し、震災前同様の航空祭に戻した。
 きょうも空を見上げればブルーインパルスやF2戦闘機が飛んでいる。私たちにとってはこれが日常風景。音がうるさく電話が聞こえにくいこともあるが、やはり地域にとっては財産。来年の航空祭では「昨年よりもさらに復興が進んだね」と言ってもらえるようなまちにしていかなければならない。
 

240. ラグビー王国復活ののろし                 H29.8.16

 つながりとは不思議なものだ。平成26年3月に『きぼうのきずな ひとつ。』から講演依頼があり、東京都町田市で東日本大震災からの復旧、復興状況を語った。そこからのつながり、個人や団体を含め、町田市や都内から石巻市を訪れ、実際に目にする方が増えた。そして今回はつながりがつながりを生み、元トップリーガーで今は日本初のラグビーのプロキックコーチになった君島良夫さんが石巻市に来て高校生にラグビーの技術指導を行った。
 石巻市の高校ラグビー界は、かつて「ラグビー王国」と呼ばれた。昭和40年に全国大会である花園行きを決めて以降、50年代から平成5年まではほぼ石巻市内の高校が花園に出場していた。潮の目が変わったのは平成6年。高校野球の強豪でおなじみの仙台育英が頭角を現し、現在は21連覇の1強時代。ここ数年は石巻工業高校が3年連続で準優勝と大手をかけるもあと一つが勝てない。
 花園出場経験がある石巻のOBは何度も「王国復活」を口にするも古豪の石巻高校、宮城水産高校は共学化と少子化、スポーツ離れで昨年から合同チームを組むほど。合同では仮に優勝できても花園に行ける権利がない。やはり単独校が絶対条件だ。
 君島さんは2日間、石巻でラグビークリニックを開いた。初日は座学。「高校からラグビーを始めた人」と聞かれ、大半が恐る恐る手を挙げたが、君島さんも「僕も高校から。それまではサッカーでした」の一言で和み、逆に選手のやる気を引き起こした。
 技術指導は基礎から分かりやすく丁寧に教え、内気な選手たちも次第に緊張がほぐれ、君島さんにあれこれ質問をぶつけるようになった。2日目は内容も濃くなり、土埃を上げながらグラウンドを駆ける選手たちがいた。石巻、宮城水産の両キャプテンは「ぼくたちは合同なので花園には行けないけれど、1つでも多く勝って皆さんに恩返ししたい」と胸を張る。夢を描いてもどうしてもたどり着けない現実があるが、それでも前を向く選手たちを誇りに感じた。
 君島さんも「続けることに意味がある」と話す。近い将来、ラグビー王国が復活しそうな予感だ。すでにのろしは上がっている。
 

239. 祈りと躍動の石巻川開き祭り                H29.8.2

 当初の予報は雨だった。だから皆のテンションは低く、「今年の川開きは中止になるんじゃない」と言われたほど。でも当日はなぜか晴れた。初日は7月31日。ラグビーワールドカップのキャンプ地誘致を目指す石巻市は、祭り会場でストリートラグビーを繰り広げるなど機運を盛り上げた。
 また、津波で流出した神社も再建され、川開きゆかりの川村孫兵衛を祭る重吉神社では、7年ぶりに神社祭が行われた。氏子の協力や寄付を募って再建し、氏子総代は「まさに感無量」と目頭を熱くした。夜は5000個の灯ろうが旧北上川を流れ、空には供養花火が打ち上げられた。東日本大震災の供養祭もこの場であり、僧侶が読経する中、参加者が静かに手を合わせた。娘を亡くした70代の男性は「月日が経つごとに悲しさよりも悔しさを覚える。今はただただ冥福を祈るばかりだ」と涙を浮かべた。
 川開き初日は鎮魂、慰霊の意味合いが強い。流れゆく灯ろうに犠牲者の顔が浮かぶ。「今はどうしていますか」「向こうでは苦しみや悲しみはないですか」「もう一度、会いたい」。故人との対話の時間がここに流れる。1日目が過ぎて行った。
 8月1日は復興から未来へと進む石巻の躍動感を表現しており、活気を全面的に押し出した行事が目白押し。水上バトルの孫兵衛船競漕の決勝はわずか1秒差となるなどエキサイティングな展開。2020年東京五輪・パラリンピックの聖火リレー出発地誘致を目指すトーチリレーも行われた。日中で最もにぎわうのが小学校の鼓笛隊パレード。今年は曜日配列で月、火曜日となり、2日間の来場者は昨年より2万2千人少ない19万5千人だったが、我が子の勇姿を見ようと沿道は多くの保護者で人垣ができた。
 夜は6000発の花火大会。復興事業の関係で毎年、観覧場所が変わるのは石巻ぐらいだろう。それだけ物事が動いている証拠だ。今年は新たに河川堤防ができ、復興公営住宅を前に緑地帯で花火を見上げる人たちの姿があった。1年も経てばさらに堤防は延び、観覧場所も増える。これが固定化されたときこそ、石巻市の中心部の復興が完了したとき。その日を待ちわび、今年の祭りは終幕した。
 

238. 孫兵衛ゆかりの地巡り                   H29.7.29

 国土交通省東北地方整備局北上川下流河川事務所(長い名称ですね)で面白いイベントが始まった。夏休みに合わせたスタンプラリーであり、今から400年前に石巻の中心部を流れる北上川を開削し、流れを緩やかにして水害から地域を守った川村孫兵衛重吉の功績をたどるものだ。
 スタンプは移動距離と見つけやすさから3つの難易度に分かれ、全部回れば10カ所。難易度優しい(3カ所)の制覇でブロンズ、普通(4カ所)でシルバー、難しい(3カ所)でゴールドの孫兵衛オリジナルカードがもらえる特典付き。「あっこれおもしろい。紙面企画いただき!」ということで、早速、台紙を受け取り、地図に記された場所を頼りに10カ所を巡った。多分、効率よく回れば1日で制覇できるだろうが、取材の合間を見つけてであり、制覇には3日かかったが、その分、達成感はあった。
 意外と難しかったのが石巻市の中心部にある縄張稲荷神社。ここは孫兵衛が川の測量で使った縄を納めた神社と言われ、今でも石巻川開き祭りでは大縄引き大会や縄張神社みこしがでるなど市民になじみ深いが、実際の神社は民家の路地先。特に案内板もないため、初めての人は見つけにくい。案の定、台紙を片手にうろうろしている人がいたので、声をかけて場所を教えてあげた。ここは路地に入る前に案内表示が必要だろう。
 もう一つは鳥屋森山(とやけもりやま)。石巻市民にはこの名称よりも「馬子山(うまこやま)」の方が分かりやすい。山容が馬の背中を思わせ、馬草の草刈り場となっていることからこの名称が付いた。道路幅は狭くすれ違いはできない山道を登った先に車が3、4台止められるスペースがある。スタンプがあるのはここから1分ほど山を登った先。できればこの駐車スペースにも表示はあった方が良い。この2点は全制覇後、担当者に伝えた。ラリーに参加するのは土地勘がある人ばかりではないからだ。
 でも驚いたのは一番最初に達成したのは神奈川県海老名市から訪れた52歳の男性。ラリー初日に全制覇したつわものだ。スタンプラリーが好きで全国を巡っているという。ちなみに私は18番目の達成者。
 遊びながら学ぶ。小学生の夏休みにも使えるのではないか。人を呼び込む仕掛けは観光地や施設だけではない。今ある資源を有効活用し、どうやって魅力を高めていけるか、どうかだ。お金をかけない手法はたくさんある。今回のラリーが手本だ。
 

237. 川開き祭りカウントダウン                 H29.7.20

 第94回石巻川開き祭りが7月31日と8月1日の2日間にわたって繰り広げられる。石巻市内では最大の祭りだ。東日本大震災があった平成23年も賛否はあったが、中止せず、犠牲者への鎮魂と前に進む復興を全面に押し出した。あれから7度目の夏がやってくる。この7年の間に水上バトルと呼ばれる孫兵衛船競漕などが復活し、昨年からほぼ震災前の姿を取り戻した。
 とは言っても、前は前夜祭を含めて計3日間。今は2日間。花火は尺玉と呼ばれる体の芯まで響くようなどでかい花火が上がっていたが、今はまちなかを流れる旧北上川が舞台となっているため、4号玉が最大。震災前と全く同じようになるのか、どうかは不透明。たぶん、今のままの形式がスタンダードになってくるのだろう。
 川開きは今から401年前、伊達政宗の命を受けた川村孫兵衛重吉が北上川を開削し、石巻の礎を築いたことがきっかけ。報恩感謝と供養を込めて開いており、震災後は旧北上川を流れる灯ろうに震災犠牲者の思いを重ね合わせ、静かに祈る場ともなっている。だから「鎮魂・躍動・感動」が三本柱となり、今年もさまざまな思いが交錯した祭りとなる。
 先日、孫兵衛を祭った重吉神社が再建された。氏子や地元企業が支援し、寄付も募って計4千万円を費やして建てた。宮司や神主はおらず、地域の中で管理していく。社殿の中は集会所の機能もあり、一石二鳥。隣には川村孫兵衛の墓所がある。墓所の上屋も神社同様に震災の津波で流されたが、こちらは昨年、川開き祭り実行委員会が整備して建てた。川開き前に必ず行うならわしだった重吉神社祭は、神社の完成により、7年ぶりに再開する。地味かもしれないが、偉人への感謝の場であり、すべてはここから始まっている。
 旧北上川では、400メートルの区間で勝負する孫兵衛船競漕、女子だけのミニ孫兵衛船競漕の練習が最盛期を迎えている。今年の川開き祭りは月曜日、火曜日の平日開催だけに参加チーム数は前年度を大きく下回ったが、チーム数が減っても優勝にかける思いはどこも一緒。間もなく石巻で一番熱い夏がやってくる。

 

236. いしのまき元気いちば                   H29.7.3

 石巻市の中心には太平洋につながる旧北上川がある。母なる川と言われ、伊達政宗の命を受けて川村孫兵衛重吉が掘削した。今から400年前の話だ。かわみなとから発展した石巻市の河口部に新たな観光交流施設が誕生した。「いしのまき元気いちば」だ。石巻の歴史を知る人ならば旧丸光跡地と言ったほうが早い。震災後はこの跡地に仮設商店街が建っていた経過もある。
 元気いちばのコンセプトは3つある。鮮魚や野菜など生鮮品も取り扱っているため、まずは震災で絶たれた販売路線の確保。次にまちなか定住が増えているため、こうした人たちの買い物の場、最後は地場産品や限定商品も数多いことから観光面での誘客となっている。目標は年間購買者数40万人、売上は7億円以上とした。
 オープンしたのは6月30日。テープカットに次いで来客が風船を空に飛ばした。一番乗りした女性は近所の災害公営住宅に住む。高齢の二人暮らしで、近くにスーパーがないことから待ちに待った施設という。「これからはちょくちょく買い物に来ます。観光も大事だけどここに住んでいる人たちの生活を支えるような店になってほしいわね」と話していた。
 元気いちばは1階が商業店舗で鮮魚、野菜、ベーカリー、土産品、水産加工品を扱い、2階はフードコート。海鮮丼など石巻の魚介類を使ったメニューが豊富で、3800円の金華山丼は豪華で強気な値段と何かと話題をさらう。テラスからは旧北上川が眺望でき、川向いにはUFOの形をした石ノ森萬画館が鎮座する。なかなかのロケーションだ。
 オープン最初の週末は周辺道路が大混雑した。駐車場は約80台確保しているが、周辺は石巻市が「かわまちづくり」計画として一体的な整備を予定しており、元気いちばの前には約220台収容の立体駐車場ができるが、完成は今秋。商業施設はオープン時が一番混む。本来はこの時期と駐車場の供用は一体であってしかるべき。対応には疑問が残る。

 昔から石巻は「熱しやすく冷めやすい」と言われ、新しいものができればこぞって行くが、1カ月もすれば客足も落ち着く。背景には変化を求める声がある。新しいものを生み出したらそこで終わりではなく、リサーチを重ねて持続的発展が可能な施設にしていかなければリピーターは望めない。本当の勝負はこれからだ。
 

235. 飛鳥Uが初寄港                      H29.6.13

 国内最大のクルーズ客船「飛鳥U」(全長241メートル・総トン数50142トン)が石巻に初寄港した。石巻港は今年、開港50周年の節目の年。3隻の大型客船が延べ5回の寄港を予定している。飛鳥Uは「洋上のオアシス」と呼ばれる国内最高の豪華客船。日本一周クルーズの途中で寄港した。
 乗客は約450人、乗務員は約470人でこのうち日本人は約110人。残りは外国人であり、乗客とほぼ同数のスタッフ。至れつくせりの対応はさすがとしか言いようがない。天候不良のため、午後5時の出港が2時間繰り上げになり、乗客を対象とした石巻地方を巡るツアーの多くが中止となった。それでも岸壁では高校生の吹奏楽演奏や太鼓演奏、伝統芸能などが披露され、歓迎ムード一色。石巻地方をアピールする自治体の観光ブースも並んだ。
 ショートツアーで日和山から石巻のまちなみを臨んだという家族連れに話を聞いた。「広い平野が広がっていて緑がとてもきれいだった。何か大きなものを作っているのね」と。正直、ちょっと残念。「石巻=東日本大震災の最大の被災地」というイメージではないらしい。でも初めて訪れて震災前との比較ができない中、無理もない話しかもしれない。
 広い平野と緑は住宅地だった南浜・門脇地区が全壊し、現在は区画整理を終えて復興祈念公園の整備に取り掛かっている段階。確かに広い平野、そして緑は雑草も交じっているだろう。その家族に「震災から6年が過ぎましたが、こうして復興の姿も見てもらえるのがうれしいです」と話すと、目を丸くし、幾分、恐縮したように「そうよね。がんばってください」と声を掛けられた。温度差は仕方がない。ただ、知ってもらうことは重要だ。伝える義務はこちらにある。
 飛鳥Uに記者枠で乗ることができた。と、言っても30分間の見学。船内はまるでホテル。一人で離されたら迷子になる。一角に金色のプレートが飾られていた。聞けば宿泊日数の多い人のプレートという。1000日の人も随分いたが、驚きは2000日。乗務員いわく「私より長く船に乗っている人もいます」とか。
 世の中にはいろいろな人がいることを知った。驚きと圧倒的な豪華さにため息交じりの一日だったが、何となく自分自信もリフレッシュできた。30分の豪華な船旅もいいものだ。船は動いていなかったけどね。
 
 

234. 復興はまだ道半ばです。                  H29.6.9

 下段の写真を見てほしい。左は更地が広がり、右は真っ白な堤防が続くが、先には大型クレーンが目につく。「東日本大震災の復興は終わったと思っていたのですが」。関東以南から訪れた人を案内すると良くこんな感想が聞かれる。私の中でも復興はどこで終了なのかははっきりしないが、少なからず、更地が広がる状況は復興とは認識できない。  まず左の写真。もともとここには住宅がひしめいていたが、津波ですべてが流され、この地区だけで300人以上の命が奪われた。現在は区画整理が進み、ここは産業用地として生まれ変わる。企業の進出は8割を超えたが、運送業などが中心。人手がほしい製造業の誘致はうまく進んでいない。企業誘致は雇用確保につながる。どれだけ立地地域の優位性をアピールできるかが鍵となりそうだ。
 今度は右の写真。野蒜海水浴場と聞けば、東北では名が通る。震災前は年間5万人前後が訪れていたが、津波の引き波で堤防は破壊された。「野蒜海岸に多くの遺体がある」。震災から4日過ぎたころだろうか。石巻日日新聞社に駆け込んできた人が知らせてくれた。当時はがれきや浸水カ所が多く、車はもちろん、歩いていくにも無理があった。ついに現場に向かうことはできなかったが、今でもあの知らせは頭から離れない。
 この日の野蒜海岸は波が静かだった。堤防の高さは海抜7、2メートルにかさ上げされる。この高さなら道路から圧迫感があるのではと思ったが、堤防と並行する道路もかさ上げされるため、実際の高低差は1メートルほど。車窓から海はながめることができそうだ。しかも堤防が高いことで被害の軽減につながる。
 気になる海水浴場の再開は早くて来年度。でもプレオープンとなる見通しで、せいぜい夏の週末数回程度だろう。そこからは県の堤防復旧工事をにらみながら市で本格再開の時期を探ることになるが、平成32年の夏ごろになるのだろうか。勝手な予想だけど。東松島市はもともと観光を産業の一つとしていたが、震災で激減。回復を目指すには海水浴場の再開は不可欠だ。
 石巻地方の現状を少しでも理解してもらえればうれしい。「復興は…道半ばですね」と言ってもらえれば「はいそうです」と返すことができる。

 
 

233. 防災備蓄基地の全国展開へ                 H29.5.19

 被災地ではインフラの災害復旧、復興と同時に次への備えを進めている。ないに越したことはないが、自然災害だけに誰も予想することはできない。インターネットのサイトや一部週刊誌では「東日本大震災は予言されていた」「予想的中」など遺憾な言葉が並び、目にするたびに嫌悪感を覚えた。そうだとしたら失われた命は何だったのか。軽はずみに予言という言葉は使ってほしくない。事が起きた後にあたかも分かっていたかのように振る舞うほど失礼なものはない。震災後に特に感じた。
 今回のテーマはこうした文句ではない。話を戻そう。災害への備えにはインフラなどのハード、避難行動などのソフトがあるが、今回はどちらかと言えばハード。備蓄の部分だ。ひとたび災害が起きれば、量販店では防災コーナーを置く。そこで多くの人は非常持ち出し袋などを買い、家に保管していると思うが、さて、東日本大震災後に買った防災グッズ。今、災害が起きればどこになにがあるか、皆さんは大丈夫だろうか。食糧や飲料水の期限は残っているだろうか。
 石巻市、気仙沼市に続き、震災による死者が多かった東松島市。1110人が亡くなった。内陸にある運動公園内には防災備蓄基地があり、これは平成26年に完成した建物だ。また、この基地から枝分かれするように市内には小学校など24カ所に防災倉庫があり、基地、倉庫の保管量を合わせれば市内人口(約4万人)が3日間飲食できる食糧と水が確保されている。さらに基地には毛布や発電機、リアカー、バイク、ソーラーパネル、食器などの備品が収納され、強い地震にも耐えられるように置かれている。これらは全世界から震災後に贈られた物資。再びいつ起こるか分からない災害に備え、しっかりと保管しているのだ。
 ただし、食糧や飲料水の更新には4000万円程度が必要。自治体にとっては大きな負担だ。宮城県はこうした倉庫を県内8カ所にさらに整備する計画だが、維持経費に疑問が残る。でも災害はいつ起こるか分からない。他地域で起きたときに物資を搬送し、復旧後に清算を行うなど県が主導権を持って各地の防災倉庫を結ぶガイドラインは必要。むしろ、県単位を超え、全国規模となれば、被災者に物資が届けやすい。
 東日本大震災では3日間、食糧がまともに届かなかった。宮城だけでなく、全国で備蓄を進めて行けば、こんな思いはしなくて済む。3日目に食べた白米の味は今も忘れないが、あのような思いはもうしたくない。
 

232. 「きっぷのーと」とこいのぼり              H29.5.13

 「でかっ!!」。思わず口にした。この大きさの切符ならなくすことはない。でも改札口は絶対に通してもらえないだろう。中を開くと罫線が引かれており、商品名は「きっぷのーと」。すなわち切符を模した文房具だ。
 実在する駅を使っており、「東大前」「乃木坂」「横浜」「甲子園」など聖地と呼ばれる駅のノートもある。現在は国内で31種類発売されており、東北ではなんと「仙台」とこの「野蒜」だけという。おさらいしよう。野蒜駅はJR仙石線の駅名であり、震災前は一直線に伸びる東北地方でも屈指の野蒜海水浴場に近い駅。駅前から海岸に向けて林道が続き、リゾート気分をかき立ててきた。
 だが、東日本大震災の津波によってこの地域は甚大が被害が出た。野蒜駅も壊滅的な被害を受け、現在は高台造成地に新たな野蒜駅が設けられ、被災した野蒜駅は震災を伝える伝承館となった。駅のホームは今も被災当時のまま残されており、ここは震災遺構として永久保存される予定だ。
 新たな野蒜駅ができ、仙石線が全線復旧したのは平成27年5月30日。それまでの約2年間は仙石線に不通区間があり、仙台市から石巻市に行く場合、またはその逆は電車、バス、電車と乗り継がなければならず通学、通勤者は不便を感じただろう。こうした苦労を乗り越え、線路が一本に再びつながったときは地域全体が歓喜に沸いた。早くもその日から2年が経とうとしており、時の速さを感じずにいられない。
 「きっぷのーと」には「15.−5.30」と全線開通日の日付が記載され、切符穴もしっかりある。んっ。「3939 15:59」は何だ?。実は販売する駅の観光案内所も分からないという。と言うことで発売元の(株)オレンジページ=本社・東京都=に聞いてみた。詳しく教えていただいたが、残念ながらすべてを書くわけにもいかない。ヒントは「野蒜」のきっぷのーとは「東大前」「早稲田」など大学に近い駅と一緒に作られた。次のヒントはあの数字は語呂合わせであり、進学と言えば???。じゃあ最後にもう一つのヒント。桜が咲く時期に訪れる吉報とは。この程度にしておきます。さぁ分かりましたか。一つの言葉になりますよ。
 今回は旧野蒜駅の伝承館内にある青いこいのぼりも紹介。実はこれ、超人気ロックバンド「GLAY」から寄贈されたもの。直筆サイン入りで飾られており、全国からファンも訪れています。被災地にはこうしたアイテムもいっぱい。今度は夏休みにぜひ足を運んでみてはいかが。
 
  

231. 市長選で春の風と桜                   H29.4.27

 石巻市と隣の東松島市に春の風が吹いた。桜の花びらが舞う中、任期満了に伴う市長選を制したのは石巻市が現職の亀山紘氏、東松島市は新人で元県議の渥美巖氏だった。票が読みにく選挙だったが、新たなかじ取り役が決まり、復興発展期の4年が始まる。両市長は震災復興だけでなく、その先も見据えた施策が求められている。
 東松島市は2期(8年間)、市長選が無投票だったため、マスメディアは石巻市に絞ってきたが、今回は現職の市長が昨年5月に今期限りでの引退を表明。後継者選びが難航する中、結果的には市長が意中としていた若手の立候補はなく、いずれも現市長より年上の3人が立候補。三つ巴の戦いとなった。
 一方の石巻市は現職が続投を表明。4年前の前回選挙に出馬した2人と現職市議1人が挑む構図となり、2市を合わせると計7人の市長候補が立った。今までなかったことであり、石巻日日新聞社も記者を総動員。事務所開きから前哨戦、告示後は選挙カーの後ろをついて候補者を分析してきた。
 ふたを開けてみれば亀山氏、渥美氏ともに次点に大きく差をつける圧勝。亀山氏は派手さはないが2期8年の地道な実績、渥美氏は現市長や政党推薦のほか、地域の人望も厚く、2氏とも本命候補だったことに違いはない。ただし、亀山氏は74歳、渥美氏は69歳。元気な人が増えているのはうれしいが、ちょっと市長の高齢化は進み過ぎている。
 選挙に行く年齢も50歳以上が主であり、18歳選挙権が始まったといっても若者の投票率は低い。そのため、候補者もどちらかと言えば、高齢者に支持されやすい公約を掲げてしまう。それでは若者はなおさら見向きもしない。卵が先か、鶏が先かではないが、若者はもう少し地方政治に感心を持ち、政治を志す人も若い人をもっと意識した公約はやはり必要。そうでなければ地方は衰退してしまう。今回の選挙は先の先を考えさせられた。

 震災後、石巻市の人口減少は止まらない。東松島市は近隣市町のベッドタウンとなっているので人口は比較的安定しているが、企業が少ないため、税収が低い。それぞれに課題は多い。復興相は「東北でよかった」と発言し、辞任した。軽はずみな言動は自らの首を絞める。私たちは逆手にとり「石巻でよかった」「東松島市でよかった」と言えるすばらしいまちづくりを進めていかなければならない。その手腕は新市長に委ねられる。注目したい。
 
   

230. 併設校で学ぶ楽しさ                   H29.4.10

 地方や過疎地域でよく耳にする併設校。小学校と中学校などが一緒になった学校だ。首都圏ではあまり聞かないが、地方は多い。特に東日本大震災で甚大な被害を受けた石巻市は、過疎化が10年早く進んだ感じだ。復興事業は進んでいるが、人の数は減るばかり。安心安全なまちが出来上がっても、そこに住む人がいなければ何を守るのか。最近、ふと考える。
 震災で被災し、昨年度末で閉校した石巻市の沿岸部にある旧雄勝小、旧大須小、旧雄勝中、旧大須中の4校。この4月には小・中併設の「石巻市立雄勝小学校・雄勝中学校」とし、旧大須小の校舎を使ってスタートを切った。それでも児童21人、生徒20人の計41人。都心部と比較すれば1クラス分が雄勝小・中の全校児童生徒数と同じだろう。
 開校式では石巻市教育委員会から学校長に小学校、中学校の2つの校旗が手渡された。校章は雄勝の雄大な自然を表現、校歌には「三陸の波 越えてもなお」と震災を乗り越えて力強く歩む姿を映し出している。式では代表児童が「大好きな昆虫に出会える雄勝が好き。自然の中でめいっぱい楽しみたい」と目を輝かせ、代表生徒は「慣れ親しんだ学校がなくなることに寂しさもあったが、伝統を受け継ぎ、新たな学校の誕生という歴史的瞬間に立ち会えたことを誇らしく思う」と堂々と言葉にした。
 雄勝小・雄勝中は石巻市の中心部から車で約1時間半。川を越え、山を越え、海を越えた先にある。同じ市内に住んでいても確かに遠いと感じるが、道中は石巻の豊かな自然を感じることができ、なかなか楽しい道のりだ。学校は山道の中にあるため、歩いて通学するのは困難。通学バスや通学タクシーを使って登校する。1学期はこの学校を使うが、2学期はもう少し内陸側で建設が進む新設校に通う。子どもたちも待ち遠しいはずだ。
 石巻では学校の統廃合や新設が進む。閉じる歴史、受け継がれる伝統がそこにある。子どもたちは不便な中でも学校生活を楽しんでいる。人口流出と少子高齢化対策。地方に求められる課題はいつも同じだ。

     

229. 俊斎の墓前に報告                    H29.4.1

 東松島市の偉人であり、近代医学の礎を築いた大槻俊斎。地元の赤井小学校と父母教師会、地域住民の連携で約1年半かけて小学生向け志教育副読本「大槻俊斎」を完成させた。配本も順調に進み、東松島市教育委員会からの表彰、4月24日には宮城県教育委員会から表彰されることが決まった。
 表彰そのものは名誉だが、それは後からついてきたもの。今まで市内に銅像や碑は立っているが、顕彰には至っていないというところから始まった取り組みであり、学校が主体となって副読本を有効に活用し、そこに地域の力を加えていくというコミュニティスクールが形となることが本来の願い。まだまだこれからだ。
 私の中にはもう一つ、やっておかなければならないことがあった。俊斎が眠る墓前への報告だ。初めて墓を訪れたのは1年前。場所が分かりにくく、ずいぶん歩いてようやく見つけた。それから丸1年。3月30日と年度末ぎりぎりとなったが、何とか報告することができた。今度は迷わない。上野駅から山手線で大塚でおり、そこから都電に乗り換えて新庚申塚で降りる。赤門で知られる総禅寺までは駅から徒歩5分程度。前回は1時間近く周りをうろうろしていたが、道が分かればなんてことない。今回は大丈夫だった。
 突然の訪問ながら寺は丁寧に出迎えてくれた。副読本を墓前に捧げ、手を合わす。「1年かけてようやく作ることができました。功績を学び、子どもたちが志を持って育まれていけるようなまちを目指します」と誓った。隣に並ぶ医師で俊斎と手を携えた手塚良仙、漫画家手塚治虫の墓にも線香を手向けた。
 寺によると、俊斎の親戚が四国におり、2月に総禅寺を訪れたという。しかも医師であり、血縁が受け継がれていることが分かった。また三重からも関係者が訪れたといい、広がりを感じることができた。でも檀家は見つかっておらず、いまも墓の管理は寺が行っているという。新たな手掛かりがつかめたことで、いつか俊斎の調査を継続できればうれしい。そのときは四国でも三重でも足を運び、軌跡をたどってみたい。
 東京は発展が目まぐるしい。短い滞在期間だったが、立ち寄った先々では震災を思い出させるものはなにもなく、思い出すこともない時間が流れていた。でもこの6年間、東京や首都圏に住む人たちの温かい目に触れることができた。東京は冷たいと地方はよく言うが、決してそんなことはない。東北新幹線から仙石東北ラインに乗り換え、着くころは夜。新しくなった野蒜の駅に停まったとき、街灯の数が増えていることに気づいた。生活者の息づかいが聞こえてきた。
 
    

228. 明日へのYELL                     H29.3.18

 3月は別れのシーズン。幼稚園や小、中学校、高校、大学で巣立ちの春を迎えている。学び舎で育んだ友情は年数では表現できない。友との別れは辛く、寂しいものだ。でも人は出会いと別れを繰り返して成長を遂げる。こうした経験はとても大事だ。
 幼稚園や保育所を卒園した子どもたちは東日本大震災が発生した年度に生まれた。もちろん記憶にはないだろう。3月11日を境に震災前に生まれた子、震災後に生まれた子に分けて例えられることもある。この子たちより下の世代はもはや体験自体ない。だんだんとこうした世代が増えていく。伝えることの使命を痛感するばかりだ。
 小学校を卒業した子どもたちは、震災があった春に入学を迎えた。卒園式ができなかったり、場所や時期を変えて行われたケースは多々ある。式そのものも簡素化された。それから6年。今年の卒業式はどの学校もほぼ平時に戻り、門出を迎えることができた。もちろん、統廃合や校舎の移転新築など被災のあるなしでは状況が全く違う。でも一人一人に修了証書を手渡す時間や余裕が生まれていた。6年の歳月の流れだろう。
 子どもたちが震災を口にするのは少ない。忘れたのか。忘れたいのか。そうではない。むしろ心の中に閉じ込めている子どもの方が多い。もちろん被災の度合いによっても違う。大人は震災から5年を過ぎたあたりから当時の様子を話す人が増えた。残していきたい。風化させてはならないという気持ちの表れだ。でも子どもたちはどうか。無垢な思いだけに表現の仕方が難しく、結果的に自分の中に閉じ込めてしまっている。苦しさは何も変わっていない。開放してあげたいが、それは、いつしか自らの手で開くもの。
 小学校の卒業式でもはかま姿の卒業生が目立つようになった。映画の影響もあるという。時代は変るものだ。春からは学年が上がる人もいれば、学校が変わる人、働き始める人、次の挑戦に向けて努力する人などさまざまな転機を迎える。皆に「がんばれ」とエールを送りたい。
 

    

227. あなたを忘れない。忘れられない。            H29.3.11

 天は何を言いたかったのだろう。「忘れないで」と言わんばかりだった。3月11日。あの日がやってきた。6年前、津波とともにまちが流された。空からは横殴りの雪。さっきまで晴れていたのに震災後、まちとともに天気も一変した。あのときの雪は忘れられない。皆同じだ。
 6年経ったきょう。それは起きた。朝は青空が広がる晴天だったが、昼近くになるにつれ、雲が入り込み、午後1時過ぎには横殴りの雪が降った。悲鳴にも似た声が聞こえる。「またか」「きょうだけは降らないで」。非情だった。
 午後2時46分。それまで降っていた雪が今度は止んだ。防災行政無線からサイレンが吹鳴される。1分間の黙とう。その後、各自治体やNPO団体が追悼式や追悼行事を各地で催した。私は東松島市の追悼式にいた。遺族代表の言葉で「朝に両親から言われた『いってらっしゃい』が最後の言葉。何でもない日常がどれほど大切なことかが分かった。今は長女に孫が二人おり、まるで両親の生まれ変わりのようだ。亡くなった方の思いを胸に1日、1日を大切に過ごし、前に進んでいきたい」と話していた。

 献花台には白菊が手向けられた。時の流れは同じでも、震災から考えれば6年はあっという間に思えてならない。石巻市、東松島市、女川町の犠牲者は5495人。今も行方が分かっていない人は696人を数える。手を合わせればあの日の笑顔、あの人の姿がよみがえる。何年経っても変わらない姿だ。「遠くからいつまでも見守っていてね」。確かに時間が刻まれる中、変わらない思いを込めた。
 首都圏からこぞってマスコミが大挙した。まるでイベントごとのように思えてならない。3月11日の夜を迎えた。時が進んでいく。見上げれば6年前と同じ、星空があった。あすから被災地は7年目を歩み出す。

 

    

226. 副読本「大槻俊斎」完成披露式              H29.3.10

 志教育副読本「大槻俊斎」が完成し、お披露目を兼ねた式典を開いた。一言でいえば感無量。1年半前になるのだろうか。学校長から「地元に大槻俊斎という幕末の医師がいるわよね。でもあまり顕彰されていないみたい。子どもたちが地域愛を育むために冊子か何か作りたいのだけど」と相談された。正直、「冊子程度なら」と二つ返事し、PTAと地域住民を加えたプロジェクトを立ち上げ、実質は4月から月例会を開催してきた。
 大槻俊斎は東松島市赤井出身で江戸にわたり、西洋医学を学んだ。猛威を振るった天然痘と戦い、種痘によって沈静化を図った。種痘所は西洋医学所と名を変え、東京大学医学部の前身ともなった。俊斎はその医学所で頭取を務めるなど近代医学の発展の礎を築いた。赤井地区には記念碑があり、市内には銅像も建つが、あまり顕彰されていないのが現状だ。
 知恵が集まれば思いは増えるもの。俊斎の偉業を伝える伝記編、功績を広めた地域の人物編、赤井小学校の学習プログラム編と三部構成となり、プロジェクトも分科会活動を活発化させ、気づけばページ数はどんどん増えていった。問題は子どもたちを引き付ける仕組み。字だけの教科書では取っつきにくい。震災により私の住む地域に越してきた同級生がいた。彼とは中学生で知り合ったが、絵がとにかくうまい。ひらめきは行動を生み、いつしかプロジェクトに巻き込んでいた。役者はそろった。どうせやるなら完璧なものを作りたい。そう、行政ではできない。本当の子どもの視点に立った副読本を作りたい。その思いで活動し続けた。
 文章校正は計18回にも及んだ。そしてフルカラー56ページ、A4サイズの立派な教科書が完成した。披露式で工藤昌明教育長は「文化財と言える内容」と称賛。副読本は翌日から市内の各小中学校や教育機関に配られた。と言うか、配るまでがプロジェクト委員の仕事だった。
 妥協しない取り組み、目を皿のようにして字とにらみ合った日々、低学年にも伝えられるように紙芝居も作った。この1年は足早に過ぎたような気がする。でも充実感に満ちていた。式典では乾杯に先立って一言だけあいさつした。「作ったからゴールではない。この副読本を活用し、伝承していく。それを成し遂げていくのが学校であり、地域の務め。そう考えればきょうはスタートの日」と語った。
 式典の日付は3月8日。さぁ翌日からは、また記者としてデスクとして新聞づくりを進めていく。忘れられない。忘れない「3月11日」が3日後に迫っていた。
 

    

225. 『きぼうのきずな ひとつ。』が生んだ出会い         H29.3.6

 学習院大学の宮川努教授とは、『きぼうのきずな ひとつ。』の活動を通じて出会った。とても気さくな方で被災地の復旧、復興に思いを寄せており、ゼミ生を引率し、石巻市を訪れたこともある。今度は松島町で経済関係者のコンファレンスがあると伺い、講師として要請を受けた。
 コンファレンスの出席者は、内閣府や文科省、東洋大、立正大など名高いところばかり。でも裏返せば、被災地支援の継続性を訴えるためには生の声を届けたいところでもあった。講演は質疑を含めて1時間強。最初に津波襲来の映像を見せつつ、わずか1、2分で建物の1階部分がすっぽり覆われることを理解してもらった。
 震災後、インターネットの書き込みなどでは、「走って逃げられたはず」、「泳げなかったのか」などの声が横行したが、実際は濁流であり、水深10センチ程度でも流れが速ければ人の足はすくわれてしまう。まして車も簡単に浮き上がり、流される中でどうやって走って逃げる、または泳ぐことができるのか。不可能である。それを映像から知ってほしかった。
 講話では被災直後の石巻市、東松島市、女川町の写真を紹介した後、6年目を迎える中の課題を中心に話を進めた。震災後、2、3年は「あの日」として震災当日から数日間の動きに対して関心が高く、行政の初動体制も注目を集めたが、6年となれば違う。もちろん、風化させないために震災直後の様子も話すが、それは全体の5分の1程度。その後は人口減少や産業面での販路開拓、仮設住宅の集約化、復興事業の遅れによる弊害など現在直面している課題に軸を置いた。
 とくに今回は経済関係者が多いだけに被災地の地方経済に絞り、疲弊する水産業、海外に目を向けた販路、企業間連携による商品開発など現在、石巻地方の企業が何に直面し、どう切り抜けようとしているのかを紹介した。
 講演前後、コンファレンスの参加者と懇談する場があった。宮川教授や東北地方の関係者以外は、石巻地方を訪れていない人も多い。松島から車で40分、仙石線なら30分程度。機会があればぜひ足を運び、生の復興状況を確認してほしいことを伝えた。
 間もなくあの日から丸6年となる。全国各地からメディアが押し寄せ、ドラマチックな演出を狙うテレビもあると聞く。困惑する被災者。首都圏や関東以南では東日本大震災の話題は減っている。だから発災日だけは思い出してほしいとお祭りごとのように騒ぎ立てるが、そうではない。私たちは毎日を必死に生きている。亡くした人の思いを背負って一歩を踏み出している。命はそれだけ重い。1日、2日程度、被災地に足を踏み入れたからといって分かるものではない。節目だからじゃなく、日ごろから被災地の今を届け続けていかなければ真意は伝わらない。
 

    

224. 校歌が告げる3・11                   H29.2.22

 2月も残すところあと1週間。年が明けてからもう6分の1が過ぎようとしている。3月のカレンダーに目を向けると、どうしても11日に目が留まる。間もなく丸6年。毎年のことながら時の流れは早く感じるが、あのときの記憶は薄れることがない。むしろ、この時期になると色濃く思い出される。震災を体験した人ならば誰もが同じだろう。一方で6年も過ぎれば、当時のことがほとんど記憶にない、または生まれていない人たちも小学校や幼稚園、保育所に入学、入園するようになった。
 当たり前のことだが、これからはどんどん震災を知らない世代が増えていく。第二次世界大戦の生き証人が減っているのと同じ。いずれはこんな時代が来る。戦争と自然災害は違うが、失う絶望感はどちらも同じ。戦争は予兆があるが、自然災害は分からない。あれだけの災害がもう来ないとは言い切れない。でも伝えていくことを忘れては教訓は生きてこない。3・11が近づくと毎年、こんなことを考える。
 女川町出身で歌手、俳優の中村雅俊さんは、震災後に2つの小学校が合わさり、東松島市立鳴瀬桜華小学校となった学校の校歌を作曲した。「春には桜の坂道を駈(か)け上がれば見える空…(中略)どんなときも強い絆に結ばれて明日へ咲かせる花になろう」。どこか校歌らしくない歌詞だが、いい曲だ。BS放送で3月11日に放送する番組の収録で桜華小を訪れた中村さんは、校歌を歌う児童に歩み寄り、一緒に口ずさんだ。
 中村さんは「もし、復興が進んで2つの学校が元通りになったとき、僕が作ったここの校歌がなくなってもよいと思った」とつぶやいた。震災後の人口流出で2校の児童数は減っており、将来的な増加は見込めない。中村さんもそこは知っている。でも人が戻り、活気に満ちていたあの頃のようになってほしいとの願いを込めていた。
 低学年は中村さんを知らない。震災もうろ覚えやほとんど記憶にない児童もいる。卒業する最高学年は当時の1年生。時は止まることなく流れ続ける。時に流れが見えるとしたらどのくらいの速さで進んでいるのか。あの日のまま止まっている人もいる。同じではない。
    

223. 首都圏と被災地を結ぶ圏人会                 H29.2.9

 東京みやぎ石巻圏人会は昭和63年に石巻地方出身者と石巻にゆかりがある方々を中心に発足した。命題は「石巻の産業振興への貢献」。首都圏と地方との民間レベルでのパイプ役を担っており、地域経済の発展に大きく尽くしている団体だ。
 震災後は復興支援はもちろん、講師派遣などでまちづくりのヒントを地域に授けており、とても身近な存在。昨年、改選に伴って都内でインタビューしたとき、圏人会の阿部勝会長は震災から5年目となる被災地への支援策を導き、石巻専修大学と圏人会とのパイプも築いた。そして今年は次代を見据えて会員の若返りも進めており、会員増を狙った交流会も積極的に進めていく。
 新役員に名を連ねた土肥礼子さんは、震災直後から継続的に被災地支援を行う『きぼうのきずな ひとつ。』の代表だ。そして「石巻日記」の発行、ホームページへの掲載を行っていただいており、私も情報発信の場をいただいている。今年の圏人会では、土肥さんが東京からの情報提供として『きぼうのきずな ひとつ。』の活動を紹介した。
 私は別件の仕事が立て込み、今年の圏人会の取材には行けなかったが、あとから渡された資料には土肥さんの被災地への思いがたっぷり詰まっていた。「失敗した。何が何でもいくべきだった」と今になって後悔している。圏人会に出席した石巻市の関係者からも「石巻日記の話を聞いてきたぞ」「何で来なかったの」と言われ続けており、後悔だけが積み重なる。
 なので、今回の掲載写真は石巻商工会議所からの提供。土肥さんは被災した門脇小学校の児童らにインタビューしたドキュメンタリー映画「3月11日を生きて」の上映会、そして私を呼んでいただいた町田市での講演会、横浜市、町田市などで実施した復興支援イベント、数々の支援物資、石巻市への訪問、石巻日記の発行とこれまでの活動を紹介した。
 後日、土肥さんから送られてきたメールには「石巻圏人会のメンバーで、いろいろと話ができればいいなぁと考えています。誰しもが、石巻のために!と思っているのですから」と結ばれていた。何とも心強い言葉だ。
 石巻日記は、事務局的な立場で私の文書をホームページ上にアップしていただいている二宮さんの力も大きい。二人は石巻の出身者。なかなか会う機会もないが、とても近い距離にいるように感じる。震災で失ったものも多いが、得たものも多い。よく聞く言葉だが、私の場合は二人に出会えたことが大切な宝となっている。
 
 
  

222. 認知症の妻を支える                     H29.2.2

 将来、どうなるかは分からないが、なるべくならかかりたくない病気といえば、私の場合はがんと認知症。でも認知症になっても周囲の支えがあれば楽しい余生を送ることができると痛感した出来事があった。東松島市に住む蛯名勝蔵さん、照(てる)さん夫妻との出会いだ。
 「妻は5年前に認知症を発症しましてね。そのときはショックだったけど、とにかく前向きに生きようと考えました」と勝蔵さん。毎日二人で散歩し、買い物も一緒、地域行事にも積極的に参加する。照さんが認知症であることは隠さない。むしろ、知ってもらうことで徘徊などで行方が分からなくなったときも見つかる可能性もある。症状を知ってもらうことで、予防するにはどうしたらよいのかを考えるきっかけづくりにもなる。勝蔵さんはそう考えていた。
 勝蔵さんが照さんを叱ることはない。「カチンときても6秒間がまんすれば、気持ちが落ち着く。冷静に考えれば、怒るほどのものではない」。実に寛容であり、その表れか、照さんの表情はいつも穏やか。医師の診察は定期的に受けているが、認知症の進行は限りなくゆっくり。まさに理想のケアを夫婦で成し遂げていた。
 そんな夫妻は先日、人生の終わり方を考える終活セミナーに参加した。「家内を置いてはいけないけど、それは分からない。だからエンディングノートにしっかり書き残し、旅立ったあとのことも考えたい」と話していた。エンディングノートは遺言状とは違う。もちろん、葬儀やお墓など死後の在り方も記載する欄はあるが、幼少期からの生い立ちを書く中でこれからの人生にどんな夢と目標を持って生きるのかを書き込む項目も多い。死後と夢、目標。このノートには二つの顔があった。
 蛯名さんは死後を考えると同時に、照さんと明日をどう生き、何をして楽しむかも一緒に考えていた。照さんは物忘れが進んでおり、セミナーの一番前で話を聞いているが、理解はできていないという。それでもよかった。「家内の笑顔は私の生きがい」。蛯名さんもストレスを溜めないためにストレッチなどに取り組んでいる。照さんは、いつもニコニコ笑顔。理想の老夫婦がこんなに身近にいることを知った。
 
 
  

221. 仮設住宅の壁は生きた証                   H29.1.23

 3月11日の特集と企画の取材で石巻地方、いや東北では最大規模の仮設住宅団地を訪れた。団地が完成してから5年以上が経つ。当初はどこも見分けがつかず、酒を飲んで帰ってくれば自宅がどこか分からなくなるほど。それからボランティアが見分けできるようにと壁などに絵や記号を書いた。仮設住宅は迷路のようであり、以前はかくれんぼをする子どもたちと出会いがしらに衝突しそうになったこともあった。それだけ、人が住んでいたのだ。
 今回は集会所わきに車を止め、1分ほど歩いたけれども誰ともすれ違うことはなく、声すらも聞こえてこなかった。窓越しに生活感のある部屋、隣は空き部屋、その隣、またまた隣も空き部屋、そして生活感のある部屋という具合だ。長屋1棟に6世帯ぐらいあるが、入居は1棟に多くて2世帯、なかには誰も住んでいなさそうな長屋もある。行政は仮設住宅の集約を進めており、集約先はこの団地。いずれはどこからとなくまた移転する人が増えてくるのだろう。
 取材したのは雄勝町で被災し、家を失った今野さん夫婦。高齢世帯であり、年金暮らし。旦那さんは足腰が弱くなったため、自宅内で過ごすのが多いが、妻はアクティブ。集会所であるイベントなどにも積極的に顔を出して人との交流を進める。「ここは狭くて大変だけども住めば都。仙台市に住む娘から一緒に住まない?と言われたけれどもマンション暮らしはどうもね。私たちは河北地区に整備される復興公営住宅に申し込んでいるの。でも入居できるのは2年先。生きていられるかしらね」と苦笑いを浮かべていたのが印象に残った。
 資材高騰やマンパワー不足、軟弱用地の改良が重なり、一部においては復興住宅の整備が遅れている。今野さん夫婦が入居できるのは早くて平成30年12月。まだ先だ。それまでは仮設住宅暮らしだが、引き戸の調子が悪くなっており、旦那さんは「やはり、何だかんだいっても仮設なんだね」とため息を漏らす。
 壁には妻が制作した飾りやボランティアからもらったメッセージ付きの詩などがいたるところに掲げられている。「復興住宅では壁に穴をあけることができないからね。今だけだけれど、これに囲まれていると落ち着くの。生きた証よね。さっきは生きられるかって言ったけれども、亡くなった人たちのため、応援してくれている人たちのためにも生き続けなければね」と今野さん。今度は笑顔に変わっていた。間もなく被災地は、あの日から丸6年を迎えようとしている。
 
 
  

220. 呼び戻せ若い力                       H29.1.13

 石巻日日新聞社の年明けの主催事業といえば少年少女のサッカー大会だ。今年は松も取れない1月7日から始まり、8日までの2日間、女川町内のグラウンドで子どもたちが頂点を目指した。スポーツ少年団にとっては初蹴りなのかなぁと思ったが、保護者に聞けば「初蹴りは1月2日でしたよ」とけろり。子どもたち、指導者、保護者の熱心ぶりには脱帽する。
 このサッカー大会を支えるのは本社だけでなく、震災後は明治大学付属明治高校・中学校が共催している。毎年、明治高のサッカー部員は大会審判を担い、公募生徒や生徒会役員は仮設住宅で入居者との交流事業を行っている。今年も大型バスで訪れ、大会運営を支えて9日には被災した大川小学校に献花し、生徒たちは被災地の今を見つめた。
 女川町は駅前周辺のまちづくり事業が進み、テレビや新聞などでスポットが当たっている。明治高の生徒は「駅前だけが映されるとすでに復興が終わったように思えるが、ちょっと駅から離れれば盛り土造成の途中。高台では仮設住宅で暮らす人たちがいる」と語り、現状を直視しながら描いていたギャップを感じていた。
 仮設住宅の集会所では入居者と高校生が茶話会で交流を深めた。震災直後は物資の支援など形が必要とされていたが、今は心。震災から5年10カ月となるとあの日の思いを語る人がだいぶ多い。死と直面した話など生々しさもあるが、入居者は高校生に伝えた。震災を風化させないためにだ。
 この様子を取材した後、女川町内で行われた成人式の会場に向かった。晴れ着姿で着飾った女性や羽織袴の男性が旧友と話し込んでいた。国内では荒れる成人式の報道もあるが、震災を経験し、命の重さ、仲間の大切さを知った被災地では皆が「大人」だ。新成人の誓いでは「支えられる人から支える人になりたい」と語り、支援への感謝に対する恩返しを込めていた。
 数人の新成人から話を聞いたが、残念だったのは女川町在住者が少なかったこと。ほとんどが仙台市内や県外に身を置く。雇用の場がなく、仕方なく地域を離れた若者。復興後の課題は明確化している。こうした若者が再び戻りたいと思えるまちを作り、雇用を生み出すこと。これこそ地域に課せられた復興後の命題だ。
 
  

219. 陽光に願う多幸                       H29.1.4

 2017年(平成29年)の幕が開けた。29年前、改元されて当時の小渕恵三内閣官房長官が新元号を「平成」と発表したときは、言いなれない、見慣れない言葉に違和感を覚えたが、今や「平成」は生活に浸透し、その意味すら考えなくなった。平成28年が去り、新たな新年を迎えたとき、テレビには平成29年、2017年のテロップが表示され、歓喜に沸いた。
 年が新しくなった瞬間、すべての人の表情も自然と緩む。国内でも花火が打ち上げられ、除夜の鐘が響き、夜中にも関わらず車や人が行き交う。「あけましておめでとうございます」。そんな念頭のあいさつがどこからとなく聞かれ、なおさら年明けを実感する。昨年の嫌なことも忘れてしまうほど、新年にはいろいろな魅力が詰まっている。だから私は正月が大好きだ。何もない平日に3日間というのはちょっと長い気がするが、正月の三が日だけはどうしても早く感じる。
 今年は元旦、2日とカメラを片手に市内を駆け回り、正月気分は薄まると思っていたが、それでも正月は正月。仕事をしていてもどこかウキウキしている。そして仕事始めの4日。気を引き締め、表情も引き締めた自分がいる。社長の年頭訓示を聞き、全国的に低迷する新聞事業をどのように展開させ、関心を高めていくか。購読につなげるためにはどう行動すべきなのかを自問する。すぐに答えはでないが、常に頭の中にはある。仕事とはそんなものだ。
 元旦は東松島市の野蒜海岸で初日の出を拝んだ。主催者発表で500人というが、実際は1000人以上はいたのではないか。それだけの人気スポット。午前6時53分ごろ、水平線から陽光が差し込み、太平洋がキラキラと輝いた。昨年は日の出直前に吹雪に見舞われたが、今年は雪も降らず、風もなく、穏やかな日の出となり、逆光の中に浮かんだ人影は皆、手を合わせた。
 東日本大震災で多くの人命を奪った海は穏やかだった。だれも恨むことなく海を見つめる姿がそこにあった。視線を右に移すと城壁のような海岸堤防の建設が進む。今年も早期復興と願わずにはいられない。
 
  

218. 鳥の目 虫の目 魚の目                   H28.12.31

 平成28年も間もなく終わる。申(さる)年だけに「災いは去る(サル)」と願いを込めていたが、ふたをあけてみれば震度7の地震を2回観測し、地域に甚大な被害をもたらした熊本地震、8月には観測史上初めて東北から台風が上陸し、岩手県や北海道に大きな被害をもたらした。そして12月には新潟県糸魚川市で約150棟を焼く大規模火災が発生。日本全体でみれば災害は多い年だったのではないか。
 11月22日には福島県沖で地震があり、石巻地方にも4年ぶりに津波警報が出された。まちに鳴り響くサイレンの音。訓練は徒歩、実際は車と言われるように高台に続く道は大渋滞。新たに整備された津波避難タワーに逃げ込む人々。震災の教訓が生かされた人とそうでない人の差がはっきりと見られ、多くの課題を残した。
 12月28日夜に茨城県で起きた震度6弱の地震は東日本大震災の余震。5年を過ぎてもまだ余震はあり、あの災害の規模の大きさに今も驚かされる。この1年を振り返れば、生活再建は大きく進んだ。とくに石巻市の中心市街地では再開発事業が進む住宅と商業施設が一体的となった複合施設が建った。これまで、どちらかと言えば平面的だった石巻市のまちなかに高層型のビルが建つようになり、そこに人々が暮らし始めた。
 震災で家を失い、防災集団移転促進事業として内陸部に整備された新市街地でも戸建て住宅の建設が相次ぎ、これに付随するように道路網も整った。地元に住んでいながらも変化に追いつかないほど。あと、3〜4年すればまちはどうなっているのだろうと思う。
 ハードが整ってもそれを使うのは人。震災後は人口流出が顕著であり、行政や経済界は「人口流出に歯止め」と何度も強調し、耳障りの良い言葉に聞こえるが、具体策は見えてこない。そうこうしている間にまた一人、そして一人とこの地を離れていく。言葉だけではなく、本腰を入れた政策が急務だ。
 仮設住宅で6回目の年越しを迎えるのは石巻市で約6000人、女川町で1600人、東松島市で約800人。いまだ仮設校舎で授業を受ける児童生徒もおり、本当の日常は取り戻せていない。来年は酉年。飛躍を願わずにはいられず、私たち報道機関も鳥の目、虫の目、魚の目で地域を見つめ、全国、全世界に今を届けていく。それが使命だ。
 
  

217. 名店の味 継承へ                     H28.12.19

 オープンは喜ばしいが、閉店は寂しいものだ。とくに毎日のように目にするところから店が消えると、その思いは強くなる。石巻市で45年間、洋菓子店を展開してきた「ガトーアムール」が11月末で閉店した。「石巻名物ボストンパイ」ののぼり、分かりにくい駐車場、こぢんまりとした店、どれもこれも古き良き石巻の時代を象徴するようなものだった。
 あって当然と思われる店だけに閉店を知った市民からは落胆の声が聞かれた。店主の高齢化と持病、道路改良で店の一部がかかるのが要因。店主の阿部忠雄さんは持病で何度か倒れたこともあったが、気力で回復し、菓子を作り続けてきた。このまま幕引きかと思われたとき、石巻市内で福祉事業を展開する社会福祉法人石巻祥心会が味の継承を名乗り出た。
 法人内で調理経験のある人を選び、さらにその中から過去の職歴で製菓業や調理に精通した2人を選出。閉店間際の11月下旬から店で研修を重ね、12月半ばにはマスターした。名店の味を受け継いだのは30代と40代の女性2人。阿部さんは「後継者ができたのが何よりもうれしい」と話す。法人では今後、シェフを増やしながら生産体制を高め、販売先も考えながら復活を目指していく。
 ガトーアムールと言えばリンゴを使ったボストンパイとアップルパイが有名。ボストンパイは広島のボストンという洋菓子店がアメリカのケーキを模して作ったのが広まり、それが石巻独自の進化を遂げたという話がある。クッキーベースの下地の上にリンゴとパイ生地を乗せて焼き、熱を冷ましてからバタークリームを塗る。市民なら一度は口にしたことがあるのではないだろうか。
 後継者となる2人の女性は阿部さんの作業を細かく写真や文書で記録に残し、同時に手で技術を学んだ。阿部さんも「2人は筋が良い。任せられるよ」とにっこり。店を閉じるのは寂しいが、味が残る喜びを感じていた。
 食べ物ではないが、石巻市では400年前に大航海でローマにわたったサン・ファン・バウティスタ号の復元船があるが、浸食に堪えられず、2020年の東京五輪後に解体する案が急浮上している。観光拠点がまた一つ失われつつある。ガトーアムールと同じように救世主が現れてほしい。年をまたぐ石巻の課題が出てきた。
 
  

216. 津波警報で響くサイレン                  H28.11.30

 1年のうちで比較的11月は地域ニュースも少なく、まったりとしたまま月日が流れる印象があった。でも今年は違った。早朝に響く緊急地震速報。スマートフォンからは「地震です。地震です」のアナウンスが流れる。自然と体がこわばる。身構えたそのとき、ゆらゆらとした長い地震がきた。東日本大震災を体験した人なら、次に想像するのは「ドカン」とした強い揺れ。でも今回はそこまではならなかった。懸念されるのは津波。テレビをつけて少し待つとアナウンサーの声が変わった。「福島県に津波警報、宮城県などに津波注意報が出ました」。間もなく市内にサイレンが鳴り響く。3・11を思い出すのは当然のことだった。
 各記者に連絡を入れるが、万が一もあり得る。頭の中で記者の住んでいる地域を浮かび上がらせ、通行ルートを模索。海側を通らずに高台がある日和山公園に行ける記者にまず連絡。次は市役所に近い記者に電話をかけ、現地に赴かせた。私も準備を済ませて市役所に急行。日和山にいた記者から「大きな潮位変化はまだ見られません」との報告を受けた。これで終わるのかなと思った矢先、注意報は警報に変わった。再びサイレンが市内にこだまする。日和山に続く細い道は下から車がどんどん登り、気づけば道路の両側に縦列駐車。真ん中を車が縫うように通り、通れない車はクラクションを鳴らす。
 「訓練は徒歩。実際は車」。2年前、ある市職員が言っていた言葉を思い出した。あれだけの被害を受け、たくさんの悲しみを背負ってもまた同じことを続けていることに情けなさを感じた。ここだけは何ら教訓が生かされていないと言わざるを得ないだろう。救いは悪い例だけではなかったことだ。震災後に整備された津波避難タワーには住民が避難し、整備中の高盛土道路に登って避難する人もいた。手法は別としても命を守る行動はとれたと思う。
 津波高は80センチと言われたが、その後の調べで東松島市の宮戸地区では3メートル近い津波が来ていたことが分かった。漁船は転覆し、川を遡上する津波も確認された。被害は少なかったとはいえ、震災から5年8カ月を経て再び津波被害が出た。防潮堤や堤防はまだまだ整備途中であり、機能は発揮されてはいない。「あれだけの震災はもう来ないだろう」という甘い考えだけは持ってはならない。改めて痛感した。
 

  

215. 石巻でポケモンGO                    H28.11.15

 発表当時は全世界で影響を及ぼしたスマートフォン向けゲーム「ポケモンGO」。現実と仮想の中でモンスターを捕まえるというゲームであり、スマホを持って歩けば、モンスターが現れ、それに画面上の中でボールを投げて捕まえる仕組みだ。地域性もあり、首都圏ではいたるところに出没するが、地方は少ない。とくに農村部になるとポケモンは一匹も出ず、代わりに本物(虫や野良猫、野良犬、イノシシ、ときに熊)が現れるという始末。ある意味、都市部と地方との格差を露呈したゲームとも言えた。
 宮城県はこのゲームに観光戦略を見出し、補正予算に3000万円を計上、今回はその一環としてゲームの運営会社と連携し、石巻市でイベントを開いた。ポケモンGOはポケストップと呼ばれる場所でアイテムを受け取ることができる。このポケストップは地域の名所や史跡などが登録され、写真で確認することができる。ちょっとした勉強にもなる。とくに石巻の場合は、震災前の名所が残り、何もない更地でもポケストップが反応すれば、そこにあった史跡や文化施設が画面に映し出される。
 今回のイベントではこのポケストップを増やす企画もあり、石巻ではすでになくなった三角茶屋の昔の建物など古き良き時代や震災前の姿を残そうと写真を手にした人たちが中瀬公園に集まり、登録していた。すべてが認可されるわけではないが、そこから審査されてポケストップに登録される。ちなみに石巻日日新聞社も登録申請した。
 11月23日まではレアポケモンと呼ばれる手に入らないポケモンが石巻など被災沿岸部に集中して出没しており、それを目当てに全国から石巻に訪れた。インフラがなくても人が呼べることが証明できたが、皆、画面に見入っており、顔は下。いかに顔を上げて石巻のまちなかを見てもらい、出没期間が終わっても石巻に来てもらえるようにするか、知恵の出しどころだ。
 ただ、歩きスマホや信号無視、路上駐車などいただけない行為も多々見られている。ルールを守って被災地での時間を楽しんでほしい。事故につながり、尊い命が奪われることだけはあってはならない。
 

  

214. 大川小訴訟は控訴へ                    H28.11.1

 「子どもを返して」「人殺し」。悲鳴にもとれる声が石巻市議会の議場に響いた。地域を襲った大津波により、児童74人が犠牲となった石巻市立大川小学校。遺族が起こした訴訟は10月26日に判決が言い渡され、石巻市と県に対して約14億円の支払いを命じた。石巻市は賠償を命じた仙台地裁の判決を不服とし、控訴に向けて予算措置を講じるため、石巻市議会を招集して議案を提案した。
 金額が問題ではなく、一審では津波の予見性と学校の裏山でなく、近隣の交差点に向けて避難した結果回避義務に過失があったと認定されたことにある。石巻市の亀山紘市長は「判決を容認した場合、学校防災への影響が大きい」と指摘。「すべての責任を亡くなった先生に負わせるのは酷だ」とした。
 もともと遺族は裁判を望んでおらず、行政や教育委員会の対応のまずさから不信感を招き、訴訟へと発展した。だから一審判決が出た段階で遺族は控訴など頭に描いてはなかった。市議会臨時会では議案に賛成が16人、反対10人の賛成多数で可決された。すなわち市は控訴できる条件が整ったことになる。これを受けて県も控訴に同調した。
 判断した議会も苦渋の決断だった。遺族感情を考えれば控訴など否という声が多いが、裁判の性質上、不服があるなら控訴するのが当たり前。いつもは会派で考えをまとめるが、今回ばかりは議員一人一人の自主判断に任せた会派が多い。それだけ難問であり、どちらが正しいとは言えない問題だった。
 終わってみても私自身、すっきり感はどこにもない。記者として事実を淡々と伝えたに過ぎない。主観が入ればどちらかに加担することになる。読者を迷わせてはいけない。「あなたの考えはどっちだ」と聞かれても、答えることはできない。墓場まで回答を持ちづ付けていく覚悟だ。
  

213. 市内一斉で「備え」確認                  H28.10.24

 東日本大震災で甚大な被害を受けた石巻市は、これまでの訓練を見直し、震災後は実践に即した形式に変えている。場面設定したいわゆる劇場型訓練を取りやめ、サイレンが鳴り、避難命令が出たらとにかく徒歩か自転車で高台や避難場所に逃げる。とにかく逃げる。その一言に尽きる訓練に切り替えた。
 想定は「午前9時過ぎに三陸沖を震源に最大震度6強の大地震が起き、太平洋沿岸部に大津波警報が発表された」とした。訓練の開始時刻は午前9時以降とだけ市民に伝えられていたが、サイレンが鳴ったのは午前9時2分。日曜日だけに無意味に拘束するわけにもいかず、この時間になったようだ。
 震災から5年7カ月が過ぎてもサイレンの音を聞くと3月11日を思い出す。私だけではなくあの日を体験した全員がそうだ。インタビューした小学生も「サイレンは怖い。あの時僕は保育所に通っていたけれど、家族と逃げた後、雪が降ってきたのははっきりと覚えている」と話していた。正直、思い出すのも辛いのだろう。表情を見て察した。
 訓練への参加率は速報値で9.1%。人数にして13390人。雨に見舞われた昨年よりも2.8ポイント増えた。この数を多いとみるか、少ないとみるか。ちなみに震災前の劇場型訓練は仕組まれた内容であり、参加者も決まっていた。だから参加率だけの話なら50%近くはいくだろう。現在の訓練は自主避難であり、個々人の問題。石巻市は「子どもやスポ少の参加者が増えたので今年は昨年を上回った」と要因を挙げるが、大人はどうしたのか?あれだけの災害を受けたのにもかかわらず、無関心はあってならない。
 こうした防災訓練は年に一度だが、日ごろの備えが大事。正しい知識で防災力を高め、有事が起きた時にどう行動するか。記憶を震災時に戻し、あの日、あの時の行動を振り返ってほしい。

  

212. 生まれるもの。消えていくもの                H28.10.6

 石巻市の中心市街地はかつて商業の核となっていたが、郊外型大型店の進出、そして震災による被災で人口のドーナツ化が進んでいた。それまで中心部の商業者は横のつながりが弱く、「あの商店街はこうだ」「あの店はあーだ」と悪く言えば自己中心的な考えがまん延していたが、震災後は息を合わせて再開発事業に取り組み、まちの将来を考えるようになった。
 まちなかには再開発事業に伴う階層型のビルが次々と建つ。首都圏や大都市と違って高層型ではなく、5〜6階建てでが主。中心部は津波による浸水被害があったため、どのビルも1階はテナントや駐車場、住居は2階以上に配置しているのが特徴。さらに1つのビルの中に安価な料金で入居でき、市が管理する復興公営住宅、上質な空間の中で生活が営める民間管理の分譲マンションが棟を割るように整備され、いずれも1階にはテナントが入店している。そんなスタイルが石巻のスタンダードになった。
 分譲マンションのモデルルームを取材したが、まるで別世界。室内にいる限りは都心の一等地で生活している雰囲気だ。とくに石巻市の中心市街地の中でも駅前に近い立町には旧家の庭園を取り囲むようにマンションが建ち、春には樹齢100年の桜を独り占めできるというメリットが付く。分譲価格は2000万円代から。個人的には手が出せる代物ではないが、中心部に多くの人が住むことは喜ばしい。
 一方で震災後にまちなかの生活を支えてきた仮設店舗型の商店街「立町ふれあい商店街」が10月末で閉鎖する。これまで2度の延長でここまできた。閉鎖と同時に廃業する店舗、すでに付近に店を構えて来月にはオープンする店舗などさまざま。観光型の仮設商店街とは異なり、市民の生活を支えてきただけに寂しさもあるが、復興する上ではいつしかなくなる運命にある商店街だった。
 石巻の中心部にはこれから生まれるもの、役目を果たして姿を消すものが存在する。今のカタチは今しか見れない。写真で残し、目に焼き付け、記憶に植え付けておこう。

 
 

211. 被災地で得る答え                      H28.9.24

 「地域の中で被災地の話はよくしますが、やはり、言葉だけでは伝わりにくいです。現地を見るのが一番ですね」。百聞は一見に如かず。東京都町田市つくし野二丁目の防災部長・近藤泰三さんとの付き合いはかれこれ4年。町田市で私が講演して以来、被災地に思いを寄せ続けてくれている一人だ。2年ぶりに石巻市を訪れた近藤さんだが、沿岸部の復興の遅さを痛感したのではないか。2年前は雑草が生えて荒れ果てた地が今は土盛りされ、重機がうなりを上げている。それでも復興の形はまだ見えてこない。
 近藤さんを車の助手席に乗せ、東松島市から石巻市を経由し、女川町に向かった。産業用地として整備が進む東松島市の大曲地区。建造中の防潮堤と高盛土道路の間を挟む港湾道路を抜け、元は中学校と高校が並んでいたが、被災後は更地となり、フェンスだけが張り巡らされた国道を通過して女川町に入った。
 女川町の復興のまちづくりは駅前に象徴され、オシャレな駅舎にオシャレな町並みが目に付く。ここだけ見る分には被災は感じられない。軽快な音楽が流れ、しぼりたての生ジュースを片手に歩く観光客、段ボールで作った実物大スーパーカー「ダンボルギーニ」が置かれた店舗はいつもにぎわっている。ここで女川の活気を感じ取った後、復興公営住宅と仮設住宅が隣接する運動公園を訪れた。球場の中にある仮設住宅、隣には階層式の復興住宅が建つ。
 次は高台にある医療センターを訪問。津波で犠牲となった銀行員の慰霊碑に手を合わせ、造成中のまちなかに目をやった。「5年半過ぎてもまだこの段階ですよね…」。近藤さんは現実を直視し、言葉を失った。最近は中央メディアも東日本大震災に触れる機会は少ない。報道が減ることは復興を意味していると思うが、実際はそこまで到達できていない。道半ばの風景が石巻地方にあふれている。
 「私の孫たちは震災時はまだ小さかったが、今なら被災地を見れば理解できるかもしれない。いつか連れてきたいですね」と近藤さん。修学旅行などで被災地を訪れる中学校、高校は数多い。万が一のとき、人はどんな行動を取ることで生き延びることができるか。被災地に来ればその答えがきっとある。強く思った一日だ。

 
 

210. 被災ピアノでコンサート                   H28.9.20

 東日本大震災で被災、解体され、約5年半を経て石巻駅前に移転新築した石巻市立病院。9月から診療を開始し、現在の病床稼働率は約50%。懸念されていた駅前周辺の渋滞は見られていない。駅前は震災の津波で浸水しており、その教訓を生かして病院建物の1階には医療行為に影響を及ぼすようなものは置かず、ロビーは2階、病床などはそれ以上となっている。
 ロビーの中央にはグランドピアノが1台置かれている。震災で波や泥をかぶって被災したが、石巻市内の楽器店「サルコヤ」の井上晃雄社長が長い時間をかけて修復させた。それを米国の人気歌手シンディ・ローパーさんが買い取り、石巻市立病院に寄贈した。

 開院前の式典では石巻市出身で東京都町田市在住のピアノ教師・小林美恵子さんがこのピアノを奏で流れるような旋律が病院とピアノの復活を象徴づけた。ピアノは今後、院内コンサートでの使用を見込んでおり、通常は入院患者向けとなるが、9月16日にあったコンサートは別。日本を代表するピアニストの小山実稚恵さんが出演するとあり、病院側も一般に開放し、多くの聴衆を受け入れた。
 小山さんはチャイコフスキー国際コンクール、ショパン国際ピアノコンクールでの入賞経験を持つほか、震災後は学校や公共施設などで30回を超す支援活動を行ってきた。この日はショパン、シューベルトの名曲を演奏し、訪れた人たちは目を閉じてじっくりと聴き入っていた。
 コンサートは石巻市立病院の開院を祝う市民の会が主催し、小林さんら東日本大震災遺児支援「かんがるーの会」が協賛した。小山さんの演奏を楽しんだ人たちからは「心が癒やされた」との声が聞かれ、車いすに乗った入院患者も笑顔を見せていた。音楽の力がここにあった。
 
 

209. 副読本製作へ募金活動                    H28.9.5

 地域力に感心させられた。子どもたちの熱意に感動した。そんな1日だった。東松島市赤井地区の最大の祭り、第25回オール赤井まつりが9月4日に開かれた。「地区の祭りならある程度の規模でしょ」と思うかもしれないが、約5000人が来場するイベントであり、言うなれば東松島市夏祭り(8月27日開催)の旨みをぎゅっと凝縮した内容。市内外から人が訪れるほど定着している。
 東松島立赤井小学校では、学校と地域、PTAの連携で地域の偉人である大槻俊斎の副読本の製作を進めている。石巻日記でも何度か触れたことがあるが、市内では前例のない取り組みであり、副読本は年度内の完成を目指し、市内全小学校に配布を予定している。本来は行政や教育委員会の仕事だが、この3者は「俊斎プロジェクト」を立ち上げ、地域で取り組む地域生まれの副読本を作り上げる。完成が待ち遠しい。
 本を作るにはどうしても予算が必要。プロジェクトは市内団体に協賛を募っているが、子どもたちも主体的に関わり、皆で副読本(教科書)を作ろうとオール赤井まつりで資金集めに奔走した。一つは募金。代表児童が代わる代わる募金箱を持って「副読本を作ります。どうか募金をよろしくお願いします」と声を張り上げた。まつりの開会式では学校長もあいさつで支援を呼び掛け、募金者には児童手作りのしおりやメッセージ入りのティッシュを配った。
 驚いたのは子どもの寄付の多さ。大人はもちろんだが、子どもも財布から小銭を取り出し、募金箱に入れた。しかも赤井小の児童だけではない。となりの赤井南小の児童もだ。もちろん、他校の児童もいた。子どもの輪の広がりを感じた。
 もう一つは地場産品野菜の販売。農家から仕入れた野菜を袋詰めし、カレーセットはジャガイモと人参、玉ねぎのセットで200円、夏野菜は1袋100円と安価で売り出した。売り子となった子どもたちは「いらっしゃいませ」と大きな声を出して呼び込んでいた。こうした募金や売上金は全額、副読本の製作費に充てる。
 プロジェクトから委託を受け、副読本の製作を進める石巻日日新聞社は採算度外視で地域貢献に、全力を挙げて取り組む。2月には製本までたどり着く予定。いや、予定ではなく、たどり着く。さぁあと5カ月。いいものを作ろう!
  
 

208. 新たな学校給食センター                  H28.8.24

 東日本大震災の津波で被災した石巻市湊、石巻市渡波の両学校給食センターの代替施設として新築した「石巻市東学校給食センター」が開所した。石巻市内では55小中学校2公立幼稚園に約12600食を提供しており、震災前は同じ敷地内にあった湊、渡波両センターでは計22校に6900食を配送していた。海に近かったこの2センターは津波で甚大な被害を受け、石巻市は隣町の東松島市で廃止予定となっていた給食センター施設の無償譲渡を受け、再建するまでの間はここから給食を届けてきた。
 震災から間もなく5年半。ようやく完成した新たな給食センターの開所式を取材した。建物はもとのセンターがあった場所に整備され、総工費は約26億円。復興交付金や災害復旧費などの国費を充てた。調理能力は1日当たり7000食、市内初となるアレルギー対応食は1日当たり100食を賄う。
 施設内は汚染、非汚染区域を明確に分けており、調理場の床を乾燥した状態に保つ「ドライシステム」を採用するなど衛生管理を徹底。2階にある見学通路からはガラス越しに15台の回転釜を使って給食を作る様子を見ることができる。小学生は育ち盛りの時期だが、どうしても給食の残食量は多い。私たちが小さいころは早く食べておかわりを競ったものだが、今では昔のことなのだろうか。どの学校もどうしたら完食できるかが課題となり、その背景には食べ物には不自由しない飽食時代が浮かぶ。
 震災直後はパンを分け与え、少しでも口に入ることに幸せを感じた。でも今の小学生は震災当時で1年生か幼児期のころ。あの日のことを克明に思い出すのは難しい世代だ。そうであれば親が率先して食の大切さとありがたさを伝えなければならず、震災伝承として語り継ぐ中で、食は欠かせない。今一度、私たち大人が当時に立ち返る必要があるのではないか。真新しい給食センターの見学路から回転釜を見下ろす中でそんなことを考えた。
 
 
 

207. もう一つの甲子園                      H28.8.12

 石巻日日新聞では、月初めの土曜日の紙面は石巻日日こども新聞に一部を提供している。そこに描かれるのは「心に残る風景」と題し、小中学生の子ども記者が人生の大先輩(主に年配者)に話しを聞き、昔の写真と一緒に載せている連載企画だ。
 今回の取材先は68年前に石巻高校が甲子園に出場したときの内野手。取材記者は子ども新聞の記者ではなく、夏休みということで東松島市内の小学5年生が初挑戦することから、私も同行(普段は同行しません)した。前日は質問項目を一緒に考え、翌日は取材先の自宅にお邪魔し、臨時子ども記者の取材に助言を送った。
 初めての記者体験で緊張するのは当然であり、メモがなかなか進まなかったが、それでもこの小学生も少年野球をやっており、はっきりとした口調で質問していた。
 「昔はね。学校から山を下って水押球場まで走ったんだよ。それも練習の一つ」「甲子園の出場が決まってから皆で映画のチケット売りをして予算を稼ぎ、その資金で遠征したのさ」。石巻高が甲子園に出場したのは昭和23年8月。当時、東北地方は3県で1校の出場枠であり、今のような1県1校のスタイルではなかった。よって全出場校は25校に満たない。選手宣誓は石巻高校の石川喜一郎主将が行い、紙に書いた宣誓を読み上げた。
 「後にも先にも選手宣誓を紙で読んだのは98回の甲子園の歴史の中でも初めて」。取材を受けた菅原敬さんは当時、石巻高校の二塁手で2番打者だった。試合は初戦で敗れたが、甲子園出場で地元は大いに盛り上がった。
 それから60年以上が過ぎ、東日本大震災を経て選抜大会の21世紀枠で石巻工業が出場した。今のところ、石巻勢で県大会の頂点を極め、甲子園の土を踏んだのは昭和23年の石巻高校のみ。今年も石巻勢は予選で敗れたが、どことなく私立2強と呼ばれる仙台育英、東北高校とも少しずつ渡り合えるようになってきたようにも思える。
 菅原さんは「当時のメンバーは皆亡くなった。残っているのは私だけ。私が生きている間にもう一度石巻の選手が甲子園で戦う姿が見たい」と語っていた。戦後70年が過ぎ、生の証言が減っているように、ここでもその火があと一つとなっている。記者として地元紙として記録を残す意義を改めて感じた。
 
 
 

206. きれいなまちは「住みたいまち」               H28.8.5

 第93回石巻川開き祭りが7月31日と8月1日に行われ、両日で217000人が訪れた。東日本大震災があった平成23年も中止せずに開催し、初日は犠牲者に対する弔い、2日目は復興に向かう姿を体現しており、「静」と「動」が感じられる祭りだ。
 石巻は郊外が発展し、震災後はまちなか人口が大幅に減ったが、ここ1〜2年はまちなかに復興公営住宅が整備され、定住人口も上向き。石巻に災害ボランティアに来た人がそのまま残り、結婚、定住というケースもあり、若者人口は幾分増えてきたといっても過言ではない。
 それでも平日は静かなまち。通りを歩く人も少ないが、川開きだけは別。どこからそんなに人が集まるのだろうと思うほどの人、人、人。ある意味、祭りのあとの静けさが怖いくらいだ。人が増えれば懸念されるのがごみ問題。祭りとは切っても切り離せない関係だろう。
 「ごみ箱を置くのも勇気、置かないのも勇気」。ある店主はこう語った。まちなかはほとんどが民有地であり、ひとたびゴミ箱を置けばそこだけでなく、周辺も山積みになる。その片付けは誰がするのか。そこまで考えれば躊躇するのも理解できる。捨てる側のモラルも問われる話だ。
 「ごみは一番目を背けがちだが、それでは前に進まない」。ある店主はこう語り、店の前に分別できるように4つのゴミ箱を置いた。1日で約60袋分が溜まり、店主はせっせと交換。「分別はしっかりできていた。小まめに袋を取り換えればゴミ箱はあふれず、周りに置く人もいない」と話していた。
 どの祭りもゴミの持ち帰りを求めているが、あえて捨てる場所をしっかり確保できていれば祭り客に対するまちのイメージは良くなる。「優しいまち」づくりの一歩になると感じた。祭り客も優しいまちに優しく接すれば祭りの思い出は充実感を増す。「きれいなまち」は、やがて「住みたいまち」の姿を作り出すだろう。
 
 
 
 

205. 川開きへスタンバイ                    H28.7.25

 石巻地方最大の夏の祭典「第93回石巻川開き祭り」が7月31日、8月1日の2日間、石巻市の中心市街地で行われる。今年は伊達政宗の命を受け、川村孫兵衛重吉が北上川の改修事業に着手して400年の節目。さらに1916(大正5)年に川開きが始まってから100年となる。
 東日本大震災があった平成23年は賛否があったが開催し、祭りを通じて鎮魂の祈りを捧げた。その流れは5年を過ぎた今も変わりない。31日は「静」のイメージで5000個の灯ろうを流す。一つ一つに思いが込められ、あの日のことを思い出す。故人に向き合う時間がここには流れている。その後は白を基調とした供養花火が打ち上げられる。地から見上げる人、天から見下ろす魂が花火でつながる。
 8月1日は「動」のイメージ。小学生の鼓笛隊パレードや旧北上川を舞台とした孫兵衛船競漕では、オールを手にした男女が船に乗り、400メートルで互いの意地をぶつけ合う。港町ならではのイベントだ。また、パレードには今年の24時間テレビでランナーを務める落語家の林家たい平さんが登場。「石巻応えん隊」として目抜き通りを歩き、愛きょうを振りまく。夜には6000発の花火が打ち上げられ、祭りのフィナーレを飾る。
 祭りに向けた準備も進み、通りには万国旗とミニ七夕が提げられた。当日早朝にはさらに大きな七夕がつり下げられ、ムードは一気に盛り上がる。また震災の津波で被災した川村孫兵衛の墓所の上屋も完成した。27日には落慶式が執り行われ、今年は震災前と同じ雰囲気の中で31日に墓前供養が行われる。
 川開きの歴史は石巻の歴史でもあり、たくさんの人の思いがまちを育み、祭りを作り上げてきた。「慰霊・躍動・感動」。市民の心が一つになる特別な2日間が間もなく幕を開ける。
 

 
 
 

204. 暑気払い&10周年サプライズ               H28.7.15

 7月、8月は暑さにかこつけた暑気払いシーズンだ。社内の左党は毎晩のようにジョッキを傾けており、ここまで連日暑気払いが続くと何を払っているのか分からなくなる。まぁ酒豪にとっては理由など後付けだろう。
 新聞社にも年末年始など繁忙期もあるが、部署ごとで忙しいときは異なる。よって全社員が集まる機会というのは年間を通じてもそう多くない。先日は本社が開設する飲食施設「レジリエンスバー」を会場に石巻日日新聞社、コバルトーレ女川(社会人サッカーチーム)、女川みらい創造(まちづくり会社)のグループ3社合同で初の暑気払いを実施した。ちなみに司会は私。社長あいさつから始まり、会社ごとにスピーチがあった。
 ここまでは普通の暑気払い。そこで私からアナウンスを入れ、全員(約60人)を1階に連れ出すと、そこで繰り広げられたのはブレイクダンス。記者の中でこのダンスを趣味としているものがおり、いろいろな場面で出演するなどおもしろい側面を持つ。
 演じた後、背中のTシャツに描かれていたのは「WE LOVE 弘一」。本社の近江弘一社長が石巻日日新聞社に来てから丸10年の節目を迎えた。同時に社長の似顔絵や3社のロゴマークが書かれた巨大ケーキが登場し、仮装をさせられた社長夫妻がケーキ入刀。直後にクラッカーがさく裂し、2階に戻った後はビデオメッセージが流れるというサプライズ企画を仕込んでいた。
 3時間に及ぶ暑気払い&着任10周年パーティーも終わり、最後は一人一人が持ち寄ったプレゼントをくじ引きにしてお土産として配布。わずか3時間でも結束力はぐっと高まったのではないだろうか。
 あの震災を乗り越え、今がある。石巻日日新聞社の平均年齢は10年前が55歳だったが、今は何と35歳。若返りもここまでくれば驚きだ。しかし経験は別。まだまだ若者には学んでもらうことが多々ある。梅雨明けはまだだけど、気を引き締めてこの夏を乗り切ろう!

 
 
 

203. 大詰めの参院選                      H28.7.7

 第24回参院選も終盤を迎えた。宮城選挙区には自民党と民進党が事実上の一騎打ちを繰り広げている。マスメディアは世論調査や出口調査などを踏まえて選挙最終週の中頃によく状況を報じる。○○氏がリード、○○氏苦戦などがそれだ。この調査はよく当たる。でも陣営に言わせればリードと書かれると楽観視してしまうので、むしろ苦戦のほうが馬力が上がるそうだ。モチベーションを上げるにはいいが、実際のところ「苦戦」と言われるとやはり厳しい。
 今回の宮城選挙区は前半で民進党がややリードと思われたが、自民党は中盤ごろから首相をはじめ、党幹部を次々と投入。猛追して今や横一直線に並んだ。前回までの選挙は2議席あり、それぞれ自民党と民主党(当時)が分け合っていたが、今回の改選で議席は1となった。まさに生き残りをかけた戦い。しかも宮城は東日本大震災の最大被災県であり、自民にすれば与党政権の中で落とせない県、民進にすれば震災時の与党であり、これまた落とせない県と互いに激しく競り合う。
 参院選の大票田は仙台市。石巻の票で決まることはないため、どうも関心は薄い。今回は選挙権が18歳以上に引き下げられる「18歳選挙権」が施行された後の初の国選。でも若者の出足はどうも鈍い。石巻市選挙管理委員会は、今回初めて大型商業施設のイオンモール石巻に期日前投票所を3日間設け、立会人にも大学生を選んだ。震災後は軒並みどの選挙も低投票率となっており、現状打破と若者の関心を向けようとここを選んだ。3日間の投票者数は約2000人。買い物ついでに投票した人も多く、まずまずの効果だった。
 選挙に若者の関心は低いが、声が届かなくては国の政策は年配者向けに偏る。今こそ行動を起こして政治の流れを見つめ直してほしいというのが本音。参院選は間もなく投票日を迎える。宮城にはどんな風が吹くのだろう。
 
 
 

202. 野蒜に灯ったあかり                   H28.6.28

 東松島市野蒜地区は沿岸部に面しており、東日本大震災では甚大な被害に遭った。ほとんどの住家は流され、多くの人が亡くなった。忘れられない言葉がある。あれは震災から一週間ほど経ったころだろうか。「野蒜海岸に200人近い遺体が漂着している」という知らせだった。現場に向かうにも道がなく、たどり着くことはできなかったが、海流によって野蒜海岸は漂着しやすい場所。何となく想像はついた。あの知らせだけは今も忘れない。
 それから5年以上が過ぎたが、避難した住民がなくなり、多くの犠牲者を出した野蒜小学校付近は今も住家は少ない。自治会長によると現在生活しているのは54世帯という。来年には住宅再建した人たちが暮らし始めるため、にぎわいは必ず取り戻せるだろう。
 この地区には今も街路灯がない。夜になれば真っ暗だ。野蒜地区で震災の語り部を行う高校生ガイドが東京からボランティアできた新生銀行(本社東京都中央区)の社員に地域の今を語った。これに共鳴を受けた新生銀行は社内募金を募った結果、約83万円が集まり、そのお金で街路灯を購入。野蒜地区にお披露目を兼ねて設置し、地域の人や女子高校生ガイドらが喜んだ。
 高校生は「今もこの道を部活帰りの中学生や高校生が通る。やはり真っ暗は怖い。この街路灯が地域に明るさを届けてくれるのを願いたい」と話した。地域の中に1つ灯った街路灯。首都圏の眠らない灯りとは全く比べものにはならないが、1灯であってもどこか温かい。
 震災から5年。震災報道も減り、どこか風化が進んでいるように懸念されるが、今もまだこのような状況だ。失われたものは元に戻らず、復興はそれほど駆け足には進まない。
 
 
 

201. 第58回石日旗が開幕                   H28.6.20

 第58回石日旗争奪少年野球大会が17日から始まった。この1か月近くは準備に追われ、普段の仕事を進めつつ、営業、企画など別部門の仕事もこなす。大会4日前にテレビをつけると梅雨入りが報じられていた。「やはりこの時期か」と思わず苦笑い。石日旗はその昔、アジサイ大会と言われていた意味がよく分かる。
 そして迎えた17日。朝まで降り続いていた雨も上がり、急に気温も上昇。晴れ間が広がって初夏を感じさせた。ここ数年は当日の天気が思わしくなく、ぎりぎりまで天気予報とのにらめっこが続いていたが、今年はそんな心配も不要。グラウンドに溜まった雨水も午前中にはほぼ蒸発するぐらい、気温が上がった。ただし、石巻市は雨上がりは風が強くなる傾向にある。午後5時過ぎには横風が幾分強まってきたが、それ以上の強風は見られず、無事に午後6時半の開会式を迎えた。
 私の役目は総合演出。司会者のそばで行進の流れや式典の運営を指揮する係。時計の針を横目に進めていく。一番の見せ場は入場行進。保護者にとっても我が子が元気に行進する姿は目に焼き付けたいもの。私は各チームの距離間を計算しつつ、1チームずつグラウンドに送り出し、計28チームが元気にダイヤモンドを一周した。

 選手宣誓に次いで打ち上げ花火の演出があり、アトラクションでは小学生女子チアリーディングがパフォーマンスを繰り広げた。その後の抽選会では花火や野球盤が景品として並び、電光掲示板に数字が表記されるたびに子どもたちの歓喜の声がこだました。
 18日からは試合となり、子どもたちの表情はきりっと引き締まった。一投一打に涙あり、笑顔ありの試合が続出。緊張の糸が切れると大きな失点を招く。捕手の声がけが周囲を鼓舞し、大逆転につながるところもあった。少年野球は数点差がついていてもすぐにひっくり返る。要は最後まで諦めない気持ちを持ち続けているのかどうかだ。決勝戦は今月26日。まだまだ球児の熱戦は続く。
 
 
 

200. 産業再生に喜び湧く                   H28.6.8

 石油、ガスを中心とした総合商社のカメイ株式会社と言えば、宮城県民なら「分かる、分かる」となるだろう。直営ガソリンスタンドは78カ所あり、石巻市から30分ほど離れた塩釜市には石油タンクがドーンとそびえる。カメイは全国に25支店、42営業所があり、石巻市の宮城支店石巻営業所が誕生したのは昭和6年。今から85年前だ。
 営業所は石巻市伊原津にあり、付近から海は見えないが、津波被害を受け、2階建ての建物は1階部分が水没した。このビルにはカメイとカメイ物流サービスが入っていたが、カメイは内陸部の賃貸ビルに間借り、物流サービスはこの被災した土地に仮事務所を設けて営業を続投してきた。
 それから5年の月日が流れ、ようやく元の土地に建物が再建され、開所式を迎えることができた。カメイの亀井文行社長は「地域に支えられて元の場所に再建することができた。まだまだ復興道半ばだが、地域に恩返しができるように貢献していきたい」と話していた。建物は1階が会議室と倉庫、2階に事務所機能を置いた。建設中の市立病院、地域の拠点施設もそうだが、津波の教訓を生かし、1階には重要な機能を置かず、2階以上に配置する傾向が強い。これから石巻市内に整備される公共施設もこうした流れを汲むのだろう。
 カメイ石巻営業所の敷地内には家庭用LPガスのボンベを保管するシリンダー置き場も整備された。ボンベ約500本が収納できるという。開所式に次いでボンベを積んだ車両の出発式もあった。震災後は操業停止、市外移転が相次ぎ、「このまちはいったいどうなるのか」と懸念されたが、こうして時間をかけても元の土地に再建する企業もある。
 失われた企業がすべて戻ることはなく、復興を進める中で再建支援や企業誘致を行っていかなければならない。働くことができる環境は雇用確保を生み、人口流出の歯止めにも直結する。生活再建と同じスピードで取り組まなければならない課題の一つがここにもある。
 
 
 

199. チャレンジデーで健康づくり               H28.5.28

 自治体同士で15分以上、スポーツや運動に取り組んだ人の数を競う全国規模のイベント「チャレンジデー」。今年は5月25日に行われ、6回目の参加となった東松島市(2月1日現在、人口40290人)は参加率50%を目標に置き、大分県杵築(きつき)市(人口30645人)と対戦した。
 チャレンジデーは午前0時にスタートし、その日の午後9時で終了。敗れた場合、対戦相手の自治体旗を1週間、庁舎のメインポールに掲げなければならないが、最近は互いの健闘をたたえて勝っても負けても相手の自治体旗を掲げるのが当たり前のようになっている。勝負といっても目的は健康増進。いかに健康づくりへの意識を高めるかのほうが大きい。
 東松島市では地域単位でゴミ拾いをしながらのウォーキング、卓球、ヨガ、ダンスなどに取り組んだ。ウォーキングを取材する中、普段は車で通る道も歩くことで道路の凹凸を知り、震災の影響がまだまだあることを実感。草むらの中にはさび付いた鉄製の遺物もあり、津波で流された何かの破片のようだった。周辺では道路の改良工事も進んでおり、参加者は工事の支障にならないように道を選んで歩き続けた。
 次いで訪れたのは、震災で住宅を失った人たちが住む新市街地に整備された公園。健康遊具と呼ばれる見た目もユニークながら腕や足、腰などを鍛える器具が19基あり、1カ所の公園にこれだけ集中しているのは東北では唯一ここだけという。「健康快道」と名付けられた足つぼゾーンもあり、参加者は苦痛の顔をしながら歩いていた。
 夜には三輪車レースがあり、大人も子どもも三輪車に乗ってカートコースで競った。やはり体型的に子どもが圧倒的に有利。大人だと足がからまりそうになる。悪戦苦闘するそばを子どもの三輪車が元気に突き抜けていく。見ているだけでも楽しい競技だ。その後はNHKのキャラクターと一緒に体操を踊ってフィナーレ。運動を通して市民が一体となった1日だった。
 さてさて結果は東松島市が47.7%(参加19199人)、杵築市42.1%(12895人)で東松島市の勝ちだが、熊本地震の影響もある中で参加してくれた杵築市の市民力にも敬意を表したい。
 
 

198. 市役所に爆破予告                    H28.5.16

 「市役所の市長室に爆弾を仕掛けた。5分後に爆発する」。そう言い残して電話が切れた。テレビドラマのような話だが、これは現実。石巻市役所に男の声でこのような電話があり、電話交換手の女性は市長室のある秘書課に通告。市は同時に警察に通報したほか、対象となっている市長室のある4階フロアからの退避を呼びかけた。
 爆破の影響も考慮し、すぐに5階にも退避指示し、最後は全館アナウンスで屋外一斉退避を求めた。ぞろぞろと避難する市職員や市民。その数は1200人以上になった。すぐに警察が駆けつけ、爆発物の捜索を始めたが、そのようなものはなく、爆破予告を過ぎても変化はなかった。
 警察は安全性を確認したうえで退避を解除。約1時間ほど業務が停滞し、市は威力業務妨害で警察に告発した。警察は犯行予告に寄せられた1件の電話番号を特定し、犯行から約10時間後の深夜に石巻市内に住む53歳の男を逮捕した。男は電話をかけたことは認めたが、内容については否定しており、取り調べが進められている。
 犯人逮捕に市民や市職員は安堵したが、同時に「人騒がせにもほどがある」と怒りがこみ上げる。こうした爆破予告は全国で見られ、最近は頻発しているようにも思える。いたずらや愉快犯の犯行が多いが、万が一のときもある。なので適当にあしらうわけにもいかない。海外では爆破テロが相次いでおり、そうした恐怖心すら呼び起こす。決して許されることではない。
 退避が解除され、市役所に手続きにきていた男性から話を聞いた。「よくテレビのニュースなどでは見聞きするが、まさかここで起きるとは」と不安な表情を浮かべていた。
 言い尽くされたことわざに「対岸の火事」がある。東日本大震災のときもそうだった。高速道路が横倒しになる阪神・淡路大震災の映像が脳裏によみがえりながら「まさかここに」という思いが何度も頭を巡った。
 震災で使われた「想定外」と同じように日常では様々なことが起きる。何もない日常のありがたさを感じつつ、不測の事態が生じた時、人はどう行動すべきか。もう一度考えてみたいし、考えてほしい。
 
 
 

197. 大槻俊斎の痕跡を追って                    H28.5.9

 東松島市出身の偉人に大槻俊斎(おおつき・しゅんさい)と呼ばれる医者がいる。江戸時代末期の蘭方医であり、江戸に出て手塚良仙から学んだ。ちなみに良仙は鉄腕アトムでおなじみ、漫画家の手塚治虫先生の祖先。のちに俊斎は良仙の娘を嫁にもらったので手塚家とのつながりは深い。手塚治虫の漫画「陽だまりの樹」には、大槻俊斎も登場している。
 では、俊斎は何をした人か。江戸では天然痘と呼ばれる病気が流行り、多くの人が命を落としていた。そのころの日本は中国から伝わった漢方医を進めており、オランダ生まれの蘭学は良く思われていなかった。江戸から長崎にわたり、遊学した俊斎は天然痘の治療法を知っており、江戸中の蘭学者に声をかけ、ついに幕府の許可を得てお玉が池(現在の東京都千代田区)に種痘所を開設し、その初代頭取となった。天然痘は沈静化したが、種痘所は半年足らずで近隣の火災に巻き込まれ消失。場所を幾分移して再建した後、西洋医学所と名を代え、俊斎はここでも頭取を務めた。西洋医学所は現在の東京大学医学部の前身だ。
 これだけの功績を残したが、ふるさとでは銅像や記念碑があり、名前は知っているが、何をした人か知らないというのが大半。そこで俊斎の故郷に建つ赤井小学校とPTA、地域住民で「俊斎プロジェクト」を立ち上げ、小学校で使う社会科・国語科副読本「大槻俊斎」(仮称)の制作に乗り出した。いかに読みやすく、分かりやすい内容にするか。ターゲットは小学3年生以上だ。意外に難しいが、本年度内の完成を目指している。
 5月7日には俊斎の痕跡を求めて東京大学医学部の鉄門(昔の人は種痘所を鉄門と呼んでいた)や種痘所跡地、巣鴨にある俊斎の墓所などを巡った。俊斎の墓は桃をかたどったような特殊な形をしており、隣には良仙、そして手塚治虫先生の墓が並ぶ。俊斎の墓に線香を手向け、ふるさとの思いを伝えた。奇しくも墓前を訪れた日は俊斎の命日。偶然か、必然か。いずれにしてもしっかりとした副読本を作り、子どもたちに偉人を伝えていかなければならない。それが私たち住民の使命と考えている。
  
 
 

196. 大空泳ぐ青いこいのぼり                    H28.5.6

 5月5日は「子どもの日」。端午の節句の飾りと言えば、住宅事情から兜(かぶと)や鎧武者など家庭内に置くものが増えているが、石巻地方はまだまだこいのぼりの数が多い。4月下旬ごろからまちなかや農村部の民家ではこいのぼりのポールがみられ、色鮮やかさが目に付く。その家の子どもの成長を願わずにはいられない。
 東松島市の大曲浜地区は震災による津波で地域が壊滅的被害を受け、多くの人が亡くなった。中には小さい子どももいる。当時、5歳だった伊藤律君もその一人。母、祖父母とともに命を失った。当時、高校2年生だった兄の健人さん(現在23歳)はがれきの中から律君が好きだった青いこいのぼりを見つけた。そして震災からわずか2か月後。このこいのぼりを揚げ、追悼した。
 「青いこいのぼりプロジェクト」の代表となった伊藤さんは、全国から青いこいのぼりを募り、その数は年々増えていった。今年は800匹以上となり、一斉に空を泳ぐ姿は圧巻。昨年までは大曲浜の自宅跡で揚げていたが、ここは産業用地に変わり、人は住めなくなる。それに向けた土地のかさ上げ事業が始まっており、今までより700メートルほど離れた寺院の隣地で催した。
 伊藤さんは高校、大学を卒業し、この春から東松島市役所の任期付き職員として働き始めた。5年のときを感じた。「プロジェクトを続けられるのも皆の理解と協力によるもの。僕は人に恵まれました。もちろん、律は僕の中にいます。地元の復興に携わりたいので、今年は試験を受けて正職員を目指します」と語る伊藤さんに頼もしさを感じた。
 悠々と泳ぐ青いこいのぼり。和太鼓の演奏が言霊となって空に響いていた。なぜだろう。こいのぼりが元気に遊ぶ子どもたちに見えてくる。私だけでなく、周りにいた人たちも同じことを考えていたという。不思議なものだ。でも「子どもの日」。何があっても不思議じゃない。
 
 
 

195. 三角茶屋跡地に花壇                     H28.4.28

 5年前に起きた東日本大震災は一瞬にして街を奪い去った。今は更地か復興事業に伴って重機が土を盛っている。石巻でよくある会話に「ここ前(震災前)に何があったっけ?」というのがある。思い出せる人、思い出せない人さまざまだが、時の流れが進めば記憶も薄れる。古い写真と見比べて「あ〜そうか。これだ、これだ」と思い出すほど。
 でも建物がなくなっても石巻の人や出身者であれば、必ずと言っていいほど分かる場所がある。それが「三角茶屋の交差点」だ。たぶん、地域外の人が聞いても何のことか分からないだろう。
 三角茶屋は震災後に取り壊された石巻市田道町1丁目にあった老舗そば店。創業は明治8年、当時の店名は「高砂屋」。昔は石巻にたどり着いた人がこの茶屋でのどを潤し、馬も水を飲んで休憩する場所だったという。三叉路に建つ三角建物の茶屋から「三角茶屋」として親しまれるようになり、そば店になっても店名は受け継がれてきた。
 震災後の平成25年に老朽化などもあって建物は解体し、土地は公共用地として県が管理しているが、建物がなくなった今も「三角茶屋の交差点」と言えば、多くの市民に伝わるなじみの場所なのだ。でもこのまま何もしなくては人々の記憶から薄れる。そこで地域の人たちが立ち上がり、県の許可を得てこの跡地の利活用を考えた。
 決まったのが花壇。季節の花のほか、お茶の苗木を植えることにした。茶屋の由来を継承しており、主催した住民団体は「車通りの多い場所なので、どうかなって思うけど、いつか、ここで育ったお茶の葉を使ってお茶会を開きながら、三角茶屋の話をしたいですね」と話していた。何とも夢のある話だが、決して不可能なことではない。
 新たなまちづくりが進んでも変わらないもの、忘れてはならないものが必ずある。三角茶屋もその一つだろう。数年先になるのだろうか、いずれ、三角茶屋跡地も道路になる計画があるという。そうなれば茶の木も撤去しなければならない。でもどこかに看板が残り、石巻市民の心がここにあることを願いたい。それが継承だ。
  
 
 

194. 悲しみの連鎖                        H28.4.18

 テレビに流れた地震速報に目を疑った。「震度7」。熊本県で14日午後9時26分ごろ、熊本地方を震源とする地震があり、多数の死傷者が出た。その後も地震は続き、16日午前1時25分ごろには本震とされる地震が起きてさらに被害を広げた。
 テレビに映る映像がフラッシュバックする。つぶれた家屋や公共施設、毛布にくるまって夜を明かす人々、給水を待って空のペットボトルを持ったまま立ち尽くす子ども、いつ入荷するか分からないスーパーの前で列を成す人、そして家族を亡くした人たち。5年前の東日本大震災と阪神・淡路大震災を思い出した。
 これまで被災地と言えば東北のイメージだったが、この一瞬で被災地は2つになった。「これが震災。一瞬で何もかも奪い去るのか」。テレビのインタビューに応えていた男性の言葉が頭から離れない。今回の熊本地震では最初の大きな揺れで助かった人たちが、その後の地震で建物が崩れて亡くなったケースが多い。なぜ、また家に戻ったのか。東日本大震災の教訓が生かされていない現状が一番悔しかった。
 石巻市から熊本までの距離は約1600キロ。東日本大震災のときは熊本県八代市などから多くの支援を受けた。その八代市役所も現在は倒壊の危機にあり、もう立ち入ることはできない。地盤のずれでライフラインはズタズタであり、復旧復興には大きな時間を要す。石巻地方からも物資を含め支援の輪が広がっており、募金活動も随所で行われている。
 マスコミ報道が過熱化し、現地では取材攻勢や駐車問題などで支障があるという。ネット上では激しい批判が続いている。もちろんメディア側は人命救助を最優先にした報道姿勢が大切だが、報じることで教訓を重ねることができる。東日本大震災で亡くなった人たちの遺族は「教訓になれば」といろいろ話してくれた。メディアはそれを報じてきたが、今回の震災から浸透を考えると疑問が浮かぶ。大事なのはいつまた起きるかしれない災害に一人一人がどう向き合うかだ。対岸の火事ではない。命を守る行動、悲しみの連鎖を生まないためにはどうしたらいいのかを真剣に考えてほしい。メディア批判はそれからでも遅くない。
 同じ被災地のメディアとして今は石巻からの支援状況を伝えることしかできないが、もう少し落ち着いてきたら伝えたいことはたくさんある。なぜなら復旧復興は同じような道をたどる。どこに課題があるかは何となく見えてくる。今は一人でも多くの命が助かることを願うばかりだ。

 
 
 

193. 聖火台と運動施設と仮設住宅                  H28.4.9

 東京では新国立競技場の建設をめぐり、紆余曲折している。正直、石巻市にとってはあまり大きな問題ではない。市民感覚からすれば「被災地はどうなるの?復興五輪というけど、私たちは蚊帳の外なの?」という感じだ。新国立に聖火台の置き場がないという報道が走ったが、渦中の聖火台は今、石巻市にある。
 聖火は1964年の東京五輪で戦後復興のシンボルになった希望の火。石巻市は2020年東京五輪・パラリンピックの聖火リレー出発地誘致を目指しており、陸上男子ハンマー投げの2004年アテネ五輪金メダリストの室伏広治さんも活動を応援している一人。定期的に石巻市を訪れ、子ども達と一緒に聖火台を磨いており、さび防止に良いとされるごま油をつけたぞうきんで磨き上げている。だからいつみてもピカピカだ。
 今月7日は経団連オリンピック・パラリンピック等推進委員会委員長でトヨタ自動車社長の豊田章男さんと一緒に石巻市を訪れた。でもこの日は大雨。聖火台磨きは中止し、室内練習場で地域の子ども達と交流を深めた。
 一方、石巻地方ではスポーツ施設が少ないという課題がある。震災直後、住まいを失った人たちの仮設住宅を建設する場所がなく、やむを得ず野球場のグラウンドなどに建てた。だから野球スタンドの前に仮設住宅がある。こうした非現実的な風景が今は現実。あれから5年が経ち、東松島市は来年度に集約化の方針を打ち出した。いずれなくなる風景もある。だから記憶をしっかり記録しなければならない。それが報道機関の役目だ。
 
 
 

192. 観光と言う名の光                      H28.4.4

 石巻市の海の玄関口と言えば石巻港。震災では周辺企業が甚大な被害を受けたが、ほぼ復旧し、港も復興を果たした。ここがいつまでも復旧しなくては国内外の船が入ることができない。国としても急いだ事業だった。
 石巻港は貿易や輸出入だけでなく、観光的な機能も備えており、震災後は大型客船の入港が数多い。中でも日本クルーズ客船所有の「ぱしふぃっくびいなす」は震災前は1回、震災後は毎年石巻港を訪れている。今回は「三陸復興国立公園クルーズ」と題し、首都圏から乗客約330人を乗せて入港した。
 岸壁では、歓迎の大漁旗がなびき、桜坂高校の吹奏楽部が演奏を繰り広げた。式典で客船の松井克哉船長が「観光は光という字を使う。この地域が光り輝くようになってほしい。私たちも財布のひもを緩めて支援したい」と話していた。記念品交換で石巻市からは東京駅の屋根にも使われている雄勝石のスレートを使ったレリーフ、ぱしふぃっくびいなすからは金箔のプレートがそれぞれ贈られた。
 カキ汁の無料配布や石巻港大型客船誘致協議会を構成する石巻市、東松島市、女川町、松島町の物産展も開かれ、乗客たちは「ここでしか手に入らない品」に関心を寄せながら買い込む姿があった。また、構成市町の観光PRキャラも登場し、愛きょうを振りまいていた。船内見学会は事前に申し込みのあった中から抽選で選ばれた80人が乗船。私も便乗させていただき、船内を巡った。
 建物換算で12階建てという船内は船と思えない広さ。ホールやプール、シアターなどが完備され、優雅な時間が流れていた。見学した85歳の男性は「機会があればゆっくり船旅もしてみたい。きょうは見学できただけでも幸せ」と話していた。今回の見学倍率は2、9倍。根強い人気を誇っており、市民の期待も大きい。こうして毎年寄港し、乗客が生の被災地に触れることが風化を防ぐ第一歩につながる。このように風化させない手法はたくさんあるのだ。 
 

191. 震災遺構に2つの校舎                    H28.3.29

 東日本大震災で被災した門脇小学校と大川小学校の校舎がどちらも保存されることが決まった。石巻市の亀山紘市長は臨時記者会見で「震災伝承や防災教育において重要」と判断し、保存費用の課題から門脇小は部分、または一部の保存とし、大川小は校舎に手を加えずに全部を残して周辺を公園化する考えを示した。
 亀山市長は「2つとも重要な震災遺構。解体、保存の意見が拮抗する中で、つらい思いをした遺族に配慮した保存を検討したい」と述べた。校舎の解体を望む声もあるため、保存の在り方は住民と協議しながら慎重に進めていく。国は震災遺構に対し、1自治体につき1カ所の初期経費を財政支援することにしており、石巻市はこの財源を門脇小に充て、大川小は別の公園整備事業で整えていく。すなわち市の財源ではどうにもならないため、国に別の補助を求めていく方向が強いだろう。
 解体か。保存か。揺れ動いた校舎を巡っては、どちらも保存という結論に至った。難しい判断だった。石巻市から離れれば、多分、いや圧倒的に残すべきとの声が多いだろう。でも門脇小の周辺に住む人たちからすれば「毎日、被災校舎を目にするのは辛い」として解体を望む声が多いのも事実。大川小は、付近は人が住めない非可住地。遺族も解体、保存で意見が分かれた。最終決断は市長に委ねられ、会見で亀山市長は「どちらかと言えば残すべきとの考えを持っている人が多かった」と話した。
 震災遺構は何のためにあるのか。そこをしっかり考えてほしい。津波の威力、犠牲者追悼、そして震災伝承などいろいろな言葉は浮かぶが、一番は事実を曲げずに語り継ぎ、防災意識を高めて万が一のときは命を守る行動を誰もが取ることができるようにすることだと思う。遺構はあくまでツール。一番大切にしなければならないのは命であり、悲劇を繰り返しては今回の災害で亡くなった人たちに申し訳ない限りだ。
 市長の判断は出たが、どちらにしてもこれからは住民の動きや考えが出てくるだろう。とことん議論することが大切。建物は壊してしまえばもう後戻りはできない。慎重に、慎重に私たちは考えていかなければならない。結論は出たが、保存範囲に向けてはまだまだ議論が必要だ。
 
 

190. 仮設住宅で四股踏み                    H28.3.21

 東日本大震災から丸5年が過ぎ、6年目に入った。と言ってもすぐに違いがでるわけでもない。1日1日を大切に過ごす。何にもない日のありがたさを感じる。少しでも1日が楽しかったなと思える日にする。思いはそれぞれ。皆、一生懸命に生きている。
 震災直後から続く支援の形も少しずつ変化しているようだ。むしろ、5年一区切りと考えたほうがよいのだろう。確かに5年を「節目」として今までの支援を終える団体が増えた。完全に手を引く形や仮設住宅から復興公営住宅にシフトし、コミュニティー支援に切り替えるなどさまざま。いずれにしても無料提供や配布という支援は数えるほどになった。
 2年前になるだろうか。ある仮設自治会の代表者がこんなことを口にした。「私たちはもらいなれてしまっている。震災前の生活に戻るには社会インフラだけでなく、私たちの自立が何よりも大事」。隣では県外から来た支援団体が野菜や生活雑貨を無料で配っていた。当時で震災から3年目。少しずつだが、生活再建が見え始めてきたころであり、こうした支援が必要かどうか。判断するには微妙な時期でもあった。
 それから2年が経ち、丸5年が過ぎたある日、富山県高岡市伏木地区を中心とする有志団体が石巻市の北上地区にある仮設住宅団地を訪問した。こことは震災直後からのつながりという。北上地区は石巻市の市街地から離れており、復興はまだまだ途上。仮設住宅は最大約180戸だったが、今も140戸と多くの人が入居する。それでも年内には敷地内に復興住宅が建設され、自力再建を果たした人が仮設住宅を退去することになれば年末には今よりも80戸以上は空き家となる。
 有志団体の中村さんは「今回で支援を一区切りしようと思っています。来年になればぐっと少なくなるでしょう。でも形を変え、復興住宅のコミュニティー支援などでまた来たいです。なにせ、ここでつながった心は大きいです」と話していた。伏木の有志団体は最後に大相撲の四股を披露した。邪気を払うという四股踏みだが、石巻地方に元気とエールを送っているようにも見えた。
 
 
 

189. 再び巡ってきた3・11                   H28.3.11

 再び巡ってきた3月11日。朝のうちは晴れ渡っていたが、午後になると雲が広がった。気温が下がらないでほしい。雪が降らないでほしい。あの日に近い環境にはならないでほしい。皆の思いが交錯した。
 枯草が背丈を超す高さまでになった南浜地区。もともとは住宅地だったが、津波で地域一帯が壊滅した。その中で何かを探すように歩く女性を見つけた。「ここは私の家でした。ちょうどこの辺りが玄関。一番人が集まるのはやっぱり居間。この辺りだったかな。もう復興事業で家の跡地はないと思っていたけど、残っていたのがうれしい。たまに夢を見るんですよ。家や地域が震災前の状態。でも目を覚ますと現実がここにある。悲しいですね」
 女性は、今は東京都内に住んでいるが、石巻には事あるごとに戻るという。家はなくても心のより所がここにはある。「20年近く住んでいましたからね。たまに思うのですよ。戻ってきたらまちも家も元通りになっていたってね。そんなことあるわけないけど、でも、心のどこかで願う自分がいます」。時計の針が戻せるなら5年前に戻したい。かなわない夢だが、聞いていて理解できた。
 午後2時46分。石巻市は何らかのトラブルであれだけ周知していた防災無線からのサイレンはならなかった。これでは有事であっても鳴らない。市は襟を正し、原因を突き止め、謝罪しなければならない。これでは人の命は守れないと痛感した。
 振り返れば発災時刻にはまだ誰も亡くなってはいない。津波が地域を襲ったのは午後3時半ごろだ。どちらかと言えばその時間帯のほうが心に残る。あれから5年。復興はまだ道半ばだ。
 私たちはここに生まれてここにいる。そしてここで生き続ける。天から見ていてほしい。見守っていてほしい。希望の灯りが消えることなく、さらに照らしていけるように導いてほしい。
 震災から6年目が動き出した。
 
 
 

188. 余震があった5年前の震災前日               H28.3.10

 2016年3月10日(木曜日)。風も穏やかで気温もまずまず。どちらかと言えば春を感じさせる陽気だ。時折吹く風、杉の枝が揺れる。市内にはマスクを着用した人が多い。風邪?インフルエンザ予防?と言うよりは花粉症予防だろう。何にもない1日。本来であればこれが一番幸せかもしれない。あの日を迎えるまでは。
 5年前のきょうの石巻日日新聞の1面トップは「三陸沖地震 余震34回」の見出しだった。9日午前に発生した地震の影響で余震が続き、10日早朝には震度4を観測した。仙台管区気象台では、今後1週間は余震が続くとし、突然の揺れに注意するように呼び掛けているという内容だった。
 当時、30年以内に99%の高い確率で発生が予想されていた宮城県沖地震があった。記事の最後には「地震のメカニズムは昭和53年の宮城県沖地震と同じだが、震源場所は異なっている」と記され、宮城県沖地震の脅威がまだあることを伝えている。後日談だが、この宮城県沖地震は東日本大震災によって消滅した可能性が高いという。私たちはまだ、災害の本当の恐ろしさを知らないときだった。
 その日のコラム「暖流寒流」でも「気象庁は(想定が予想される宮城県沖地震とは)直接関係はないだろう」と見解しており、今後、いつ起こるかしれない地震におびえながら過ごさなくてはならないのかと結んでいる。震災後、3・11は予想されていたなどという本やうわさ、華々しいときは「私は予想していた」と堂々と名乗る人がいる。あれには怒り心頭。むしろ相手にするつもりもないが、明らかなウソだけはやめてほしい。
 この余震こそ、東日本大震災の前触れだったのだろう。もし、記憶は今のままで5年前に戻ることができたなら伝えたいことは山のようにある。「あす、午後2時46分に大きな地震が来る。怖いのはその後、大津波が来てまちがのまれる。だからとにかく高いところに逃げろ」
 どれだけの人が信じるか分からない。もし、私も同じように言われたら「何を言っているのだこの人は?」となるだろう。でも実際、その時間に地震がくれば少しは信じてもらえる。その時「高いところに逃げろ」と言っていたというのを思い出してもらえれば1人でも多く助かるはずだ。映画のような話だが、これが本当にできたらいいなと思うときがある。今もそんな気分だ。
 現在は3月10日午後5時を過ぎたところだ。あと24時間後には地域から明かりが消え、不気味なサイレンが鳴り響く。何にもない日の幸せを感じてほしい。そしてどうしたら災害から生き延びることができるかを考えてほしい。起きてからでは遅い。いつかまた、同じような災害が日本のどこかで発生する可能性は否定できない。それに向けて「備え」を起こしてほしい。
 
 
 

187. これからの仮設住宅                   H28.3.3

 東日本大震災後に建設された応急仮設住宅。一過性のものとは分かっていても5年もあれば街の風景に溶け込む。むしろ、建設される前の土地がなんだったのかも忘れてしまうほど。これではよくないと思うが、入居している人たちのことを思うと心が痛む。「早く本当の家へ」という言葉はよく聞くが、経済面やコミュニティー、入居者の年齢などを考えると「次の一歩」が踏み出せない理由も理解できる。被災地は難しい局面を迎えようとしている。
 東松島市内にある矢本運動公園仮設住宅。ピーク時は約480世帯が暮らしていたが、今は180世帯という。仮設住宅にもゴミ出しのルールや回覧板など地域と同じように自治会があり、この団地は大所帯なので東西に自治会を設けている。
 東自治会をまとめる小野竹一さんは、もともと東松島市内の沿岸部に家があったが、大津波で全壊した。築5年でまだ新しかったこともあり、あの巨大津波でも建物の外観は残っていた。ただし、津波は2階の天井近くまで達しており、家の中にいては助からなかった。
 小野さんは6人家族。震災時は互いに安否が分からず、不安な日々を過ごしたが、3日後には全員が再会を果たした。仮設住宅に暮らし、自治会長を務める傍ら、防災集団移転地として内陸側に造成された土地に家を建てている最中。今年5月には完成し、入居できるという。
 新居にはすぐにでも移りたい気持ちだが、気になるのは仮設住宅。「団地をまとめる役員も転居などでこぞって抜ける。今は20人の役員がいるが、5月には2人になる。このままではまずい」と小野さん。「俺、家を建てたからさようならでは済まない。まだ、残っている人たちのためにもせめて1年は続けなければならない」。強い使命感があった。
 仮設住宅は抜けるコミュニティーと言われる。確かに入居者も徐々に減り、今年、来年で大幅に減るだろう。問題はその後。残った人たちでコミュニティーを維持していくのは難しい。空き家は1棟の長屋に1世帯など虫食い状態になる。まとめるのは大変だ。こうした問題にこれから直面する。「被災地は復興した」という声も聞くが、この現状をみてはたまた復興したと言えるのだろうか、私からすれば嵐の前の静けさ。真剣に対策を講じなければ大きな波紋を広げる。正念場はこれからだ。
 
 

186. 女川町の震災遺構                    H28.2.27

 震災直後はがれきに埋もれていたが、復旧、復興が進めば当時を語るものは少なくなる。あと5年もすれば震災遺構以外に自力で探すのは困難だろうと思う。先日、会社に1本の電話が入った。主は震災遺構として保存される旧女川交番に当時勤めていた元警察官。女川町にお金を寄付したいという内容だった。
 注目したのはお金の金額ではなく、当時を深く語れる生き証人であること。聞けばもう町内にはおらず、ほぼ3年ぶりに足を運んだという。「辛くてね。でも遺構として交番が残る方針であることを報道で知り、微々たる金額だけど、遺構の維持費に充ててほしいと思って」と話していた。
 元警察官だった松田博さんは定年退職後、石巻地方から離れ、故郷の学校で生徒指導に力を入れている。女川町に寄付したのは5万円。須田善明町長は行為に感謝し、遺構のメッセージをどう伝えていくか、これから知恵を出して考えていくと語っていた。その後、松田さんと一緒に工事現場の許可を取って遺構に近づいた。
 周辺は復興事業が進み、地盤を高くするかさ上げ工事が進んでいる。横倒しになった交番は埋まっているように見えるが、これは埋まったのではなく、周りの地盤が高くなった証拠だ。でも交番内は当時のまま。「あっ、あの机ですよ。あのねずみ色の机が私のです」と松田さんは建物の奥を指差した。
 震災直後、松田さんは倒れた建物に入り、手に持っていた鍵で机の中から書類を取り出し、被災者の支援や地域の治安を守った。鍵は今も手元にあり、お守りとして大切に保管している。交番勤務で親しくなった人たちの中にも津波で犠牲になった人がいた。遺体捜索と収容の毎日であり、当時を思い出した松田さんは目を赤くした。
 「あの日のことは一生忘れることがない。私が亡くなるまでずっと」。松田さんの言葉に共感した。「これからは女川に足を運びます。ちょくちょくとは言えないけど、亡くなった人たちに花や線香、お酒を手向けたい」。海から100メートルにも満たないところに今も横倒しになった女川交番がある。
  
 

185. 日和山のおじさん                    H28.2.19

 ネタに詰まったり、コラムの話を考えたくなると石巻市内を一望できる日和山に足を運ぶ。記者になってからの習慣だ。ここで知り合った人も多い。2月とは思えないぽかぽか陽気に誘われ、日和山公園に行くと「よっ」と声をかけられた。いつものおじさんだ。名前は知らないが、多いときで3人。最低でも1人はいる。いつもベンチに腰掛けて話をしている姿がある。きょうは1人だった。
 この男性は市街地に住んでいたが、震災で妻を亡くした。「津波の中で泳ぐことはできなかったよ。海難事故もそうだけど、死ぬときってあんな思いなのかなぁと感じた。女房はなくなってしまったけどね。助けることもできなかった。3月11日は霊園にあるお墓に行くよ。復興事業で住んでいたときの形も変わったし」と話す。
 男性は仮設住宅に住まず、娘の家で暮らす。「俺1人だからさぁ。仮設に入ったら何だか出られない気がして。体が鈍るというか。引きこもりになるというか。だから娘の家に行くことにしたんだ。受け入れてもらえたのがうれしかったけどね」という。
 ベンチに腰掛けながら日和山にきた人たちに震災の様子を話す。非公認ガイドだが、こうした生の話は重要。学生も社会人も老夫婦も真剣に耳を立てていく。先日、地元の小学生がきたときこんなことを聞かれたという。「おじさん。これから(石巻)はどうなるの?」
 男性は悩んだあげく、こう答えた。「おじさんには分からないよ。でもね、おじさん達がやってきたことと違うことをしないと人も増えないし、人も守ることができない。それができるのは君たちじゃないかなぁ」。小学生に男性の思いが通じたか、どうかは分からない。でも何かが変わらないとまちも動かないことは子どもたちに伝わったはず。
 男性は天気がよければ毎日、日和山に通う。今度は新聞用に話を聞いてみようかな。残しておきたい、記録しておきたい「おじさんの言葉」がたくさんある。私は特別じゃなく、いつもの石巻の風景に溶け込む普通の人が好きだ。だからおじさんとも仲良しでいられる。
 
 
 

184. 高校生の震災ガイド                   H28.2.13

 東日本大震災の語り部。あの日のことを分かりやすく説明し、震災の教訓を後世に伝える役目を担う。職業ではなく、ほとんどは無償のボランティア。語り部は比較的年配者が多く、将来的に懸念されるのは語り部の減少。震災を知る語り部が震災を知らない語り部に引き継いだらいったいどうなるのか。いつかはこんな日がくるだろう。そのとき、事実は正確に伝わるのか。頭の中に疑問符が浮かぶ。
 「震災の様子をはっきり覚えているのはぎりぎり当時の小学6年生。それ以下では幾分記憶があいまいになる」。東松島市出身のフリーカメラマン鈴木貴之さん(札幌市在住)は、震災当時、市内の避難所で所長を担った。避難所も解消され、地域が復旧から復興に進む中、どうやってあの日のことを語り継ぐかを考えていた時、浮かんだのが「最後の世代」。その世代はすでに高校1年生になっていた。
 鈴木さんは震災時、野蒜小学校の児童だった女子に声をかけ、最初は4人、現在は6人が自主的に震災ガイドとして被災した時の様子を話すようになった。6人とも同じ学校で被災したが、話す内容は全員違う。それだけどこにいたか、何かしていたか、どう行動したかで岐路が分かれた。中には過酷な状況を目にした児童もいた。ガイドとして話す途中も思い出し、涙を拭う。当然だろう。聞いているほうも思い出す。体験したなら、なおさらだ。
 体験を語るのは1人20分前後。最後には自分たちの夢も加える。「保育士になりたい」「教師になりたい」。どちらかと言えば伝える側、教える側を希望する。「もし、次に震災がきたら絶対子どもたちを守りたい」「震災から身を守ることができる子どもたちを育てたい」。ガイドたちはそんな思いを口にした。
 間もなく震災から丸5年を迎える。忘れないこと。忘れてはならないこと。そして伝えなければならないこと。世間では5年の節目というが、震災の節目は人につけてもらうのではない。私にとっては5年が過ぎただけだ。
 
 
 

183. 東京みやぎ石巻圏人会                  H28.2.8

 「ふるさとは遠きにありて想うもの」。離れていれば、この言葉がなおさら実感でき、同郷が集えばふるさと談議は絶えない。昭和63年に誕生した「東京みやぎ石巻圏人会」は、関東圏に住む石巻出身者やゆかりのある人たちで組織する団体だ。
 経済界を中心に構成され、現在の会員は63人。平成27年に第6代会長に就任した阿部勝会長は合併で石巻市となった旧河北町の出身。現在は埼玉県春日部市で経営コンサルタントとして敏腕を振るう。「一年に一度会う七夕では膨らみがない」とし、総会以外にも皆が集える場として交流会を設定した。顔を合わせる回数が増えれば人脈も太くなり、活動の幅も広まるという持論を持つ。
 石巻市からも行政、経済関係者が出席した定期総会が5日にあった。会場は千代田区のKKRホテル。約70人が出席し、ふるさと納税の啓もうや石巻地方の物産紹介、復興支援としては東日本大震災遺児支援「かんがるーの会」(小林美恵子代表)を通じた支援などを掲げた。終盤は石巻市の笹野健副市長が平成28年に石巻市で想定される復興事業をカレンダー形式で分かりやすく解説。医療の復旧、宅地整備などが進むことを明言する一方、心の復興などまだまだ支援は必要であることを強調し、復興は道半ばであることを訴えた。
 続く懇親会では女川に元気を送る会の佐々木美紀さんや新谷泰子さん、圏人会名誉会長で今年の「第9回いしのまき大賞」を受賞した松川文隆さん(セントラルフィルター工業社長)らと交流を深めた。石巻市の今を伝えたが、さすが同郷。細かい地域名を出しただけで話が分かり、復興がどの程度まで進んでいるのかも理解できている。よく関東以南だと「復興は佳境」「もう終わっている」などと解釈されがちだが、圏人会は違う。会話をしていると地元にいるようだ。
 圏人会の悩みは会員増強。阿部会長は100人を当面の目標に置き、アジアで活躍する石巻地方出身者にも目を向ける考えだ。圏人会をはじめ、『きぼうのきずな ひとつ。』のように石巻市を離れてもふるさとに思いを寄せ続けている人たちがいる。だから前に進める。大きな原動力があることを改めて感じた。
 
 
 

182. 災害対応型マンション                  H28.1.26

 東日本大震災で被災した石巻市の中心市街地では、復興手法の一つに再開発を選択した。全国では普通に行われているが、石巻市では初めて。地権者の足並みがそろわず、紆余曲折もあるが、今月には民間再開発で第1号となる商業施設併設型分譲マンション「石巻テラス」が完成した。
 震災の教訓を生かして計77戸(2LDK〜4LDK)の住居は3階以上に配置し、低層は商業施設と駐車場にした。建物は6階建てで北棟、南棟に分かれる。2つを結ぶ通路もある。入居者は若年層から高齢者まで幅広く、単身、ファミリー、シニアに至る。偏りがないほうが何かと便利だろう。最大の特長は3階部分に設けた人工地盤。地上6メートルの位置にあり、ここには中庭や災害時は避難所となる集会所もそろう。すなわち、住居はこの3階部分より上という意味だ。もちろん集会所には防災倉庫も完備した。
 石巻テラスに一歩足を踏み入れれば、別世界が広がる。今までの中心市街地は平坦な建物が多く、都心的なマンションは少ない。今後はどんどんこのような高層型の建物が増えていくことが想像でき、正直、10年先の石巻の絵面が今の段階ではつかみにくい。それだけ、変化が目まぐるしいといったところだろうか。

 震災後、中心市街地は人口流出が顕著であり、今や商業圏は郊外に流れる。でも中心部が再開発などで生まれ変わればそこに定住人口が見込まれ、再びにぎわいを取り戻すことができる。石巻市は昔から「まちなか」が拠点となってきた。その「まちなか」が元気にならなければ、本当の復興はあり得ない。石巻テラスはこの一歩になってくれることを願いたい。間もなく入居が始まる。人の声、子どもたちの笑い声が響く石巻になってほしい。
 今回のように災害対応型のマンションは、この地域では常識化されていくだろう。もし、ないにこしたことがないが、この先、例えば10年後に東日本大震災と同じような災害が起きても今の復興計画が順調に進んでいれば石巻は人を守ることができるはず。もしかしたら死者もゼロにすることができるかもしれない。次の災害がいつ来るかの保証はない。同じ悲しみを繰り返さないためにも万全を期してほしい。
 
 

181. 子どもたちの人権                    H28.1.21

 地元の小学校で父母教師会長をしており、任期は今年の4月までだ。本部役員になってから4年であり、そう考えれば長かったような、短かったような。子どもたちと間近に接することで普段は見えない一面も垣間見ることができた。震災から間もなく5年。復興事業が進んでいる一方で子どもたちの心のケアは取り残されているのではないか。直に触れることでそう考えるときもある。複雑だ。
 東松島市内各学校の父母教師会で組織する東松島市PTA連合会のセミナーが1月17日に開かれた。昨年の初夏ごろから各会長で話し合い、コツコツと準備を進めてきた。6月のバレーボール大会と同じぐらい手間がかかるが、これも震災の中断を経て昨年から復活した。今年のテーマは人権。いじめは人の幸福を奪う重大な人権侵害であることを念頭に入れ、人権が守られる対応がいじめ問題の収束に直結することを学んだ。
 講師は大学教授とNPO団体代表の2人。このうち全国組織のチャイルドラインは、子どもから直接電話相談を受ける機関であり、宮城県だけで1日平均32件の着信がある。友人関係のトラブルに伴う相談が多いという。最近は親の虐待が全国的な問題となっており、核家族化や貧困率も高く、子どもが置かれる環境は複雑。誰にも相談できず、チャイルドラインの電話番号を押す子どもたちは増えている。
 講演ではこんな話もあった。「震災後は子どもたちの美談がよく報じられているが、内心は震災に対する怒りといらだちが見える。不安感も強く、近年は自殺に対する子どもの相談も多い」。衝撃的な内容だ。大人やメディアが作り上げた環境が子どもを苦しめている。講師は「子どもは小さな大人ではない。権利をしっかり尊重しながら接してほしい」と強調した。
 間もなく3・11。しかも5年目とあれば全国の注目を集め、被災地の今を伝える取材攻勢が激しくなる。もちろん子どもにカメラを向ける取材もあるだろう。私たちメディアは人権をしっかり意識し、その人の思いを尊重して対応しなければならない。襟を正せ!
 

180. 明治高校の支援                     H28.1.12

 石巻日日新聞社と明治大学付属明治高校が主催する少年少女サッカー大会が1月9日、10日に女川町総合運動公園で開かれた。石巻地方のサッカースポーツ少年団から12チームが出場して予選リーグと順位決定トーナメント戦に臨んだ。季節柄、例年、吹雪や寒波に悩まされてきたが、今年は暖冬。幾分、風はあったが、日差しが入って1月にしては絶好の「スポーツ日和」となった。
 石巻日日新聞社と明治高校は互いに創立100周年を記念して4年前から大会を運営している。明治高校は5年間の支援を打ち出しており、今年は4年目。内心は5年と言わず、これからもずっと共催してもらえればうれしい限りだ。
 大会で明治高校は運営に携わっており、今年は審判を努めるサッカー部員、公募で集まった生徒、引率教諭、PTAを含めて24人が訪れた。サッカーだけでなく、市内の復興状況を視察しながら理解を深めた。サッカーに関わらない公募生徒は大会会場に隣接する仮設住宅集会所で被災した女川町の人たちと茶話会などを通じて交流を深めた。

 野球場仮設住宅は、文字通り、野球場の中に仮設住宅が建つ。180世帯、約500人が暮らす。窓をあければ野球のスタンド席が見える。何とも不思議な光景だ。明治高校で野球部に所属する生徒にとっては、こうした光景は衝撃的だった。「震災前の原風景が分からないので復興が進んでいるのか、どうなのかは分かりませんが、スポーツができる環境はまだまだであり、そう考えると復興途上と思えます」。その通りの答えが帰ってきた。
 仮設住宅自治会で副会長を務める女性は生徒に対して「まちの中心部は2日間いかないと変わっている。それだけ、まちづくりが進んでいる。でも少し高台にいけば、まだまだ仮設住宅に多くの人が住んでいる。そのギャップに馴染めなくてね」と漏らした。
 テレビや報道だけでは伝えきれない、伝わらない被災地の今がある。しっかりと理解するには足を運び続けるしかない。生徒のためにも5年一区切りでなく、継続を望みたい。
 

179. 水平線を昇る朝日                    H28.1.5

 カレンダーを振り返れば12月28日が月曜日、そして1月3日が日曜日。むむっ!この1週間で年末年始がすべて詰まっている。うれしいどころか、がっかり感に包まれた。1月4日は月曜日。あ〜あ、例年なら仕事始めを迎えれば2、3日後には週末が来ていたのに今回はフルで6日間勤務。こんなことを考えているうちに年末が過ぎ、そして予定通りの年明け。早い早い1週間も終盤に差し掛かっていた。
 しかも今年は輪番制で元旦出勤。日の出前に家を出て、東松島市の野蒜海岸に向かった。震災前は、新春多幸揚げとして朝日に向かって凧を揚げるイベントだったが、震災後は休止。住民有志が昨年の正月から手作りの鳥居を海岸に立て、今年は凧揚げも復活させた。東の空が徐々に明るくなっていく。日の出時刻は午前6時50分。鳥居越しに海にカメラを向け、その時を待った。
 だが、そこに予期せぬ事態が起きた。突然の吹雪だ。急に雲が流れ込み、横殴りの雪が吹き付けた。水平線にも雲がかかり始め、「もはやここまでか」と思っていた矢先、雲の切れ間から朝日が顔を出した。太陽がぐんぐん昇ると雪はぴたりとやみ、今度は青空が広がった。ちなみに昨年は大みそかが当番でこの時は大雪に悩まされた。2年連続で年始は雪の中での取材。自称、晴れ男だが、これには首をかしげるばかり。来年は・・・いやいやできれば休みがほしい。
 海岸では手を合わせて朝日を拝む人たちの姿があった。年が明ければ3月11日が近づく。あの日から5年目を迎えようとする被災地。沿岸部では高く土を盛った上で重機が稼働する様子が見られる。一昨年も昨年もそして今年も同じ光景だ。政府の集中復興期間も本年度末で終わり、被災地は事実上の自立を迎える。ここに住んでいる限り、まだ早いのではないだろうかと思わずにはいられない。

 市民の願いで一番多かったのは「平穏な年」。何も特別なことがなくてもいい。穏やかに1年が過ぎることだけを願っている。2016年はそうであってほしい。
 

178. 2015年は「動」                    H27.12.30

 間もなく平成27年も幕を閉じる。いったいどんな年だっただろうか。石巻地方の1年を漢字一文字で表せば「動」と表現したい。まずは3月に一部区間が不通となっていたJR石巻線が終着駅の女川町まで入り、女川駅もリニューアルした。5月には石巻市と仙台市を結ぶ仙石線が全面復旧。4年の月日を経てようやく鉄路が復旧した。
 石巻市と言えば港まち。その中核をなす石巻魚市場も新しく生まれ変わった。しかも国際水産都市を目指し、高度衛生管理型の施設となった。2階には見学スペースもあり、競りの様子が分かる。水産界は担い手不足に嘆いており、市場見学を通じて子どもたちが一次産業に関心を持ってもらうことを期待したい。
 石巻市は11月に新市街地のまちびらきを行った。震災前は広大な水田が広がっていた蛇田地区が埋め立てられ、集合型の復興(災害)公営住宅や自立再建した住宅が建った。すでに住み始めた人もおり、いずれは6000人が移住する見込みだ。東松島市でもJR東矢本駅の隣地に集団移転事業用地のあおい地区が完成し、人々が暮らし始めた。女川町は12月にまちびらきを行い、女川駅から広がる商業エリアの完成を祝った。
 昨年は「復興の踊り場」と言われ、復興計画の策定でハード面の動きが少なく、市民からは復興が見えないと指摘されたが、今年はそこから一歩抜け出た感じだ。でも被害が甚大だった南浜地区や沿岸部ではまだまだ震災の爪痕が残り、全体的に進んだとは言えない。
 震災から5回目の年越しは複雑だ。新市街地や新居で過ごす人たちがいる一方、石巻地方(石巻市、東松島市、女川町)では計9700世帯、約2万2000人が仮設住宅や民間賃貸のみなし仮設で新年を迎える。石巻市の調べでは、このうち1000世帯以上が仮設住宅を出た後の生活の見通しがまだ立っていないという。
 そろそろ生活の格差が見え始めてくる。だれも震災なぞ望んでいたことではない。でも起きてしまった以上は戻れない。来年の3月11日は震災から5年。全国のメディアは被災地に入り今を報じるが、時が過ぎれば何もなかったようになる。でも私たちはここで生きており、これからも生き続ける。5年は節目ではない。来年は今年より市民の笑顔が多く見られることを願って筆を置く。
 

177. 激変する女川町                    H27.12.22

 「やばいぞ、やばいぞ」。平成23年2月、石巻市に隣接する女川町の人口が10012人になった。「1万人を割り込めばすぐに記事にするぞ。毎月の統計を調べておけ。もしかしたら3月ごろが怪しいぞ」。震災が起きる1カ月前の報道部での会話だ。
 しかし、事態は思わぬ方向に動く。海に面した女川町は海岸沿いに町の機能が集積しており、大津波によって中心部は壊滅状態。ビルも倒されるほどものすごい破壊力で町の今を奪い去った。現在の人口は6800人。震災で1000人以上が亡くなり、若者を中心に町を去る人たちが後を絶たない。もちろん、震災から5年経った今もその流れは続いている。
 でも女川町は負けてはいない。官民が一体となったまちづくりを進め、早々と将来のイメージ図を発表した。昔の町の感じがせず、リゾートを思わせるような造り。「これができたら女川は変わるな」と直感した。それから月日がたち、今年3月には不通となっていた石巻線が女川駅に入り、ウミネコが翼を広げたイメージを形にした新しい女川駅も運営を始めた。
 それからは駅前のまちづくりがどんどん進行。12月23日には3月に続く第2団の「まちびらき」が行われることになった。テナント型施設「シーパルピア女川」や「まちなか交流館」など駅前のプロムナードに隣接する建物が続々と立ち上がった。
 私がここを訪れたのは12月21日。2日後にまちびらきを控えていた。工事も追い込み。中には外壁の工事を進めているところもあり、「あと2日で間に合うのか」という疑問もあったが、声をかけた電気施工業者は「やりますよ。絶対」と自信を見せた。
 今年の女川町は激変の年でもあった。1年でこれほど変わった町もないだろう。でも人口減少は目に見えるように進んでいる。まちができても人がいなければ本末転倒。未来を描き、今を歩みながらまちを語り、人を引き付ける魅力を出し続けることが大事。今の女川にはその力があると確信する。
 

176. 変わりゆく中心市街地                 H27.12.18

 都心と地方を歩くときの違いがある。歩幅でもなければ、腕の振り方でもない。目の高さだ。ちなみにこれは私個人の見解です。石巻では目の高さはまっすぐだが、都内では目線が上となってしまう。これはビルの高さによるものだろう。目標物が高い位置にあるだけにどうしても目が上をいく。あまり首を持ち上げると田舎から出てきたとすぐにばれるので、そのあたりはわきまえているつもりだ。
 最近の石巻市の中心部はどうか。震災前は5階建て以上の建物は数えるほどだったが、震災で住居を失った人たちが入る復興(災害)公営住宅は、ほとんどがマンションタイプの集合型。5階建て以上の建物もあり、まちなかに次々と姿を見せている。公営住宅といっても大手メーカーが作る建物。現代的でとてもおしゃれ。1階部分にはテナントも入り、今までの石巻にはなかった生活様式が展開される。
 地方はまちなかよりも郊外に大型店が進出し、巨大なマーケットを築いている。石巻もそうであり、蛇田地区と呼ばれるところは開発がどんどん進み、大型店がひしめく。商業圏は完全に移り変わったようだ。単純にここと勝負しろといってもかなうものではない。ならば、地元店はどうやってこれから生き残っていくのか。一番は信頼。真心こめた接客と個人店舗だからこそ柔軟な対応が求められる。たとえ店の品数が少なくても親身になって対応してもらえれば好印象を持ち、「また行ってみようかな」となる。その繰り返しが固定客につながっていく。
 石巻では再開発と合わせて社会インフラの整備も進み、旧北上川をまたぐ新内海橋の建設も進んでいる。アクセス性が良くなればまちなかに人を再び呼ぶこともできる。期待は大きい。駅前に向かうと石巻市役所の隣地で建設中の石巻市立病院が見える。まだシートがかけられているが、いつの間にか6階建ての市役所の高さを抜くぐらいになった。開院は来年秋。周辺道路の渋滞が懸念されており、さてどうなるか。地元報道機関としてはこうした動きにも注視していかなければならない。
 クリスマスが終われば新年を迎える準備。10日もしないうちに和と洋が入れ替わる。私もそうだが、変わり身の早い日本人の対応にはいつも感心する。今年もあと半月。どうか平穏な一年で2015年の幕が閉じますように。
 

175. 大雨の月命日                      H27.12.11

 降り始めは未明だったのだろう。朝起きたころには、路面は濡れて一部には小さな水たまりもできていた。前日のニュースでは記録的な大雨が降ると言われ、警戒心は持っていた。カレンダーを見れば2015年12月11日。震災から4年9カ月の月命日だ。
 何年たっても月命日と思うとあの日に記憶が戻る。たぶん、これからもずっとそうだろう。決して忘れようとしているわけではない。ただ、考えていなくても頭に入ってくる。いや違う。入ってくるのではなく、頭の中に常にあるのだ。私だけではなく、被災地に住むすべての人々が同じ思い。だからこの先、5年、10年、15年、20年と月日は流れても心に受けた傷がふさがることはない。まして家族を失った人たちにとってはこれ以上の辛さはない。
 そんなことを考えて車を運転し、会社に着いた。午前10時ごろだろうか。雨脚が急に強まり、強い風が吹くと会社の屋根に打ち付ける雨音が風に乗って左から右に流れるようにはっきりと聞こえる。思わず、自席の後ろの窓をみると、普段、夕方になると中学生のにぎやかな声が聞こえているテニスコートがみるみるうちに水の中に埋まっていくように大きな水たまりができていた。
 雨量は正午までで30.5ミリ。平年12月の月間降水量(33.6ミリ)に迫る記録となった。雨脚は正午過ぎからさらに強まり、見た目で月間降水量を楽に越したことは分かった。ようやく夕方になって音がやむほど。ニュースをみれば三重で最高気温が25度を超す夏日を記録したり、東京では落ち葉が排水溝に詰まって雨水が流れなくなるなどした。異常気象の言葉がぴったりいく日だった。
 こうした中、石巻市では月命日に合わせて大規模な行方不明者の捜索が行われた。大川小学校周辺では同校に通う児童4人を含め、住民36人が今も行方不明のまま。雨に打たれながらも警察や消防関係者は土を掘り起こして手掛かりを探していた。
 「いつまで捜索をしてもらえるのでしょうか」。以前、取材先で遺族からこのような言葉を聞いた。即答はできなかった。「先のことは分かりませんが、見つかってほしい。私が言えるのはそこまでです」と言葉を返した。今も言葉に迷うことはたくさんある。

 

174. 旧北上川のボート係留                  H27.12.7

 宮城県、岩手県を流れる一級河川の北上川から分脈されて石巻湾に注ぐ旧北上川。石巻市にとって母なる川と言われ、古くは江戸に米を運ぶ千石船もこの地から出港するなど石巻は港を軸に支えてきた。旧北上川沿いは無堤防であり、常に水面が見えていた。まさに水の都。でも東日本大震災ではこの無堤防によって市街地に大量の水が流れ込み、災害の規模を広げた。
 この水に乗ってプレジャーボートも市街地に入り込み、ビルに突き刺さるなど被害を拡散。水が引いた市街地には車と交じって多くのボートが横たわっていた。震災前、旧北上川の両岸には大量のボートが接岸され、その数は300隻を超えていた。冬になればボートをつなぐようにイルミネーションもあり、その光景を取材していた。でもここは係留ができない場所であり、一言で言えば無秩序。
 石巻にはマリーナがなく、このため旧北上川に無断で止めていて、その数が時間とともにどんどん増えていったというわけだ。そこに震災がきて、係留問題が大きくクローズアップされるようになった。それから4年。ボートは少しずつ戻り、現在は80隻ほど。もちろん、何度も言うがここは止められない場所だ。
 市は船を陸揚げする防災マリーナの整備を進めており、国と県、市で周知を図りながらパトロールを展開し、ボートと岸を繋ぐロープに移動を促すチラシを張り、所有者がいれば直接呼びかける対応をとった。同行取材をしていたら、たまたま漁船の手入れをしていた男性漁業者がいた。県職員が説明した後、私たちメディアも声を聞いた。
「お父さん、ここに係留できないのは知っていましたか?」。ちょっと濁された後、「よけろと言われれば避けるけど止める場所がないんだ」。「この船はいつからここに止めているのですか?」。「震災後だよ。確かに止めてダメなのは分かるけど周りも同じだよ」。幾分、開き直った感じだ。大概の所有者は認識している。船は簡単に買えるが、止める場所がない。車なら車庫証明が必要だが、船にはない。根本的に制度そのものから見直さないと変わらないのだろう。
 石巻市民の多くはこの旧北上川河口部は係留ができないことを知らない。なぜか。それは長年にわたってボートと共存する川を見てきたからだ。正直、私も昔は分からず、ボートのイルミネーションを取材していた。メディアにも問題はある。この無秩序な係留問題は私たちも考えさせられる課題だ。
 

173. 行方不明者の一斉捜索                  H27.11.29

 尊い人命を奪った東日本大震災から間もなく4年9カ月。仮設住宅を出た先のゴールともいえる復興公営住宅(災害公営住宅)の整備が進み、まちなみはどんどん変化している。それでも独り暮らしの高齢者を中心に行き先がまだ決まらず、年を越す人も多いだろう。生活再建の足並みはそろうことはない。想定されていたが、ここからが正念場。支援の輪も少なくなる中、本当の意味で市民力が試される。
 震災前は4700人が住んでいた南浜町地区。石巻市では最も被害が大きかった地区であり、今は広大な敷地に雑草が生い茂る。南浜・門脇地区では計356人が亡くなり、今も142人の行方が分かっていない。石巻市は11月29日、今年5月の捜索で手が回らなかった残り15ヘクタールを対象に消防団や消防署、警察の力を借りて一斉捜索を実施した。
 総勢200人が参加。犠牲者に黙とうを捧げた後、横一直線になって人海戦術で不明者の手掛かりを探した。この地は2011年に自衛隊が一斉捜索を行って以来。防災集団移転事業で人が住めない地域に指定され、この広大な地は復興祈念公園に生まれ変わる。土地の買収もほぼ完了したことから捜索の手が入った。でもあれから4年9カ月。手掛かりになるものは乏しく、野球道具や入賞者の盾、表札程度が見つかっただけ。5月の捜索では人骨らしきものがみつかったが、鑑識の調べで動物の骨だったことが分かった。
 不明者の家族にとっては祈るような思い。せめてほんの一片でも何か見つかってほしい。消防団員も祈るような思い。しかし、時の流れは無情。私も取材の合間に目を皿のようにして辺りをみたが、それらしいものは発見できず。朽ち果てた家屋の土台を見るたびに「どこにいったのか」と考えるばかり。市内ではまだ400人近くの行方が分かっていない。この数がゼロになる日はくるのか、こないのかは分からない。でも家族はいつまでも待っている。玄関を出るとき「いってきます」と言って出て「ただいま」が今もないのはあまりに辛い。
   

172. マル賢と言えば○○○                  H27.11.20

 石巻でインタビューしたとする。「マル賢と言えば?」と聞けば、老若男女を問わず「みかん」と答えるだろう。たぶん正解率は90%以上。石巻の冬を代表する果実がマル賢みかんだ。でも石巻産ではない。和歌山県有田川町の賢(かしこ)地区で作られており、なんと出荷は石巻青果市場と栃木県宇都宮市の市場の2カ所のみだという。ちなみに年間生産量は1200トン。半分ずつ石巻、宇都宮に卸されるため、石巻の入荷量は約600トン。出荷は概ね年内であり、ほとんどは年末までに胃袋に収まる。
 それだけシェアが広く、石巻地方(石巻市、東松島市、女川町)の人々は「マル賢みかん」は全国区と思っている人が多いが、実は仙台ではまったく知られてない。まさにここだけに入荷しているブランドなのだ。甘さと酸味のバランスがよく、薄皮の柔らかさが特徴。果肉を包む小袋はとろけるほどで袋のごわごわ感はない。最上級の「賢宝」を筆頭に等級があり、1箱の価格は7000円から3000円。多くは贈答用として買う人が多いが、自宅用も合わせて購入するのがほとんど。これからの時期、5−6軒ほど家を歩けば、どこかの家にはマル賢みかんの箱があるだろう。それだけ人気ブランドなのだ。

 石巻青果花き地方卸売市場には20日に約1300箱(1箱7.5キロ)が今季初入荷した。有田川町のJAありだ丸賢共選組合の三木利行組合長は「今年は生産量が幾分少ないが、甘さと酸味のバランスは最高。とろける小袋に仕上がった」と自信をのぞかせた。早速、1個試食してその自信に納得できた。ちなみにみかんは星形になっているへたの部分が緑色だとまだ完熟していないという。すなわち少し酸味が強い。薄茶色になるほど完熟に近く、味が乗るという。
 マル賢みかんを手にすると冬を感じさせる。テレビでは週間天気予報が映し出されていた。宮城県は来週半ばに気温がぐっと下がり、場所によっては雪が降るという。みかんと天気予報で冬将軍の足音が近づいていることを実感した。
 

 
 
  

171. イシノマキマン登場                   H27.11.14

 東日本大震災からの復興を進める石巻市に新たなヒーローが誕生した。その名も「イシノマキマン」。そのまんまの名前と突っ込まれそうだ。考案したのは石巻市内にある広告代理店。そこの社長が長年温めていたキャラだという。最初は社員も「?」となる表情だったが、見慣れてくれば愛着も沸く。いまや関連グッズが続々発売中だ。
 愛らしい白い犬「イーヌ」が感動をエネルギーにしてイシノマキマンに変身。1段目は青いヘルメットとグローブ、ブーツをまとう。それでも強い相手が現れたときは「イシノマキマンスーパー」にグレードアップ。装備品が赤くなり、新たに空をも飛べるマントとかっこいいサングラスが付く。

 夏の石巻川開き祭りで試験的に導入し、ジュースのストローにイシノマキマンの顔をかたどったステッカーを張ったところ、若い女性を中心に飛ぶように売れた。今やタンブラーやクリアファイル、ノート、ステッカー、カレンダー、年賀状と幅を広げる。石巻日日新聞社が発行する地域密着情報誌「んだっちゃ!」では公式キャラ「だっちゃん」と女川町の観光PRキャラ「シーパル」と一緒に「イシノマキマン」がコラボしたぬり絵も制作中だ。
 この広告代理店も沿岸部にあり、震災の津波では大きく被災した。石巻では少しずつ復興が進み、企業も再建されているが、大きな壁にぶつかっている。販路だ。工場は復旧、人材も確保できる状況だが、震災で絶たれた首都圏や関西方面へのパイプは回復しないまま。しかも原発の風評被害も加わり、ダブルパンチだ。だから被災地の企業はものづくりが再開しただけでは食べていくことができない。新たな手法、新たなもので売り込んでいかなければならないのだ。
 知恵を出し合った新商品こそまさにカギ。イシノマキマンもその一つだ。今は石巻市内での定着を急ぐが、今後は仙台市にも広げていきたい考え。もちろんインターネットを使った通信販売にも手を伸ばし、活路を見出している。

 ご当地キャラクターを使ったまちおこし。今の時代、何がヒットするか分からない。でも手をこまねいてはいられない。ただでさえ、石巻市は人口流出に歯止めが効かない状況。あの手この手を尽くし、人が留まるまちにしていなかければならない。私たち地元メディアは、こうした商業者の手法を紹介し、次のアイデアを生むプレゼンター的な役割も担っているのだ。
 

 
 
  

170. 中学生の職場体験                     H27.11.5

 毎年、この時期になると中学生の職場体験が多い。1年生は高校訪問、2年生は職場訪問、3年生は進路説明会と職業観を学び、進路方針を考える時期でもあるようだ。学校から電話がかかってきて引き受けると必ず感謝される。なぜか。震災後は自分の会社を維持するのが精いっぱいのところが多く、とても職場体験まで手が回らないというのが本音。とくに製造業は会社や工場は復旧しても首都圏などへの販路が絶たれたまま。販路に広がりがなければ従業員も雇えず増やせない。こうしたジレンマが続いている。
 11月4−5日の2日間、石巻日日新聞社で職業体験を行ったのは東松島市立矢本第二中学校の生徒3人だった。「将来は新聞記者になりたいの?」「いえ僕は警察官」「私も警察官」「僕は音楽関係の仕事」。「では、なぜ新聞社を選んだの?」「記者の仕事がどのようなものかを知りたいので」という会話だった。確かに記者とかかわるのは少ない。将来、どんな職種に就くのかは分からないが、働くことの意義や職業観を伝えられればいいかなと感じた。
 私が受け持ったのは2日目。まずは東松島市役所に出向き、教育委員会を訪問。そこで社会科副読本の全面改訂が進められているのを取材した。取材者は私。ここでの生徒は見て学ぶ立場にした。次に向かったのは市立保育所。この保育所でも同じ学校の生徒3人が職場体験をしていたのだ。ここでは生徒が実際に取材。「保育所に職場体験にきた生徒を石巻日日新聞社に職場体験にきた生徒が取材する」という内容。ちなみに私は「保育所に職場体験にきた生徒を石巻日日新聞社に職場体験にきた生徒が取材し、その様子を石巻日日新聞社の記者が取材する」という早口言葉のようなことをした。
 取材する側、受ける側。生徒たちは戸惑いながらも楽しみ、子どもたちや保育所所長にも積極的にインタビューしていた。新聞社に戻ってからは執筆作業。生徒たちはわずか10数分で書き上げていた。「仕入れた情報が多ければ多いほど記事は書きやすい。作文も一緒。情報の幅を広げることで書くことへの苦手意識は減る」と私から語り掛けた。
 職場体験では小学校や病院、福祉施設、自衛隊、市役所、飲食店、自動車販売など計38カ所に及んだ。震災後は地元を離れる若者が多く、被災地の少子高齢化には歯止めがかからない状況だ。今回の体験を通じ、地元に残りたいと思う生徒が増えてくれるのを一番に願いたい。
 
 
  

169. 地域に根付く運動会                   H27.10.28

 強風警報が出されていた。それほど強い風が吹く。よりによってこんな日は屋外取材に当たるときが多い。朝は中学生の硬式野球大会があり、砂が目に入りながらも果敢にカメラのシャッターを切り続けた。その後は地域の運動会。ここは周囲に障害物がなく、風が吹けば真っ向に当たるところだ。
 石巻市は都心部と違って高層ビルが少ない。だから強風が吹けば防ぐ壁もない。でも地域にとっては年に一度の運動会。今年も老若男女約200人が参加した。ここは沿岸部に比較的近い地域であり、震災では多くの家屋が流出。以前は1つの町内会に1000世帯が暮らしていたが、震災直後は300世帯まで激減。あれから4年が経ち、今は500世帯と半分まで回復した。
 石巻市は沿岸部に津波を防ぐ高盛土道路の整備を進めており、高さ約4メートルの盛り土を築いてそこに東西を結ぶ道路を作る。この高盛土道路の内陸側は住家が建てられるが、海側は非可住地域となり、家は建てられず、産業用地となる。
 運動会があった町内会はまさにこの狭間にあり、町内会を縦断するように高盛土道路が整備されるのだ。すなわち、古巣に戻りたくても道路を挟んで海側となる世帯は戻ることができず、別の土地で生活を余儀なくされる。何とも複雑な心境だ。だから現状のままでは1000世帯に回復することはまずない。
 運動会が開かれた公園は人工芝が茂り、市内でも屈指のサッカー場。週末ともなれば多くの人でにぎわうが、ここは震災直後、亡くなった人たちの仮埋葬地となったところだ。あの時は芝生をすべてはがし、土を掘り下げてご遺体を埋葬した。数カ月後に掘り起し、火葬で故人を弔ったが、仮埋葬の光景は今も脳裏から離れない。悔しさと悲しさだけがあった。
 石巻市民は今の公園が震災直後はどうだったかを知っている。たぶん、他地域の人なら近寄りがたい場所かもしれない。でも市民にとっては同じ悲しみを共有した場所。そして前に進もうと誓った場所でもある。しんみりするよりは、にぎわいがあった方が絶対いい。
 この日は強風に負けじと親子行事や年代別の徒競走、足並みをそろえるムカデ競走などが行われた。見ているだけでも楽しい。近年は地域の運動会が失われているだけに貴重だ。この町内会も多くの人を失った。でもこの日はきっと天国から応援してくれているだろう。そう確信した。
 

 
  

168. 新市場で復活「大漁まつり」               H27.10.19

 石巻市の基幹産業は水産業。市そのものも港を起点に発展してきた。全国で販売されている魚関係の缶詰は石巻で作られているものも多く、ぜひラベルを見てほしい。思わぬところで製造元が石巻市となっている商品も数多い。
 その中核を担う石巻魚市場はもちろん海に面しており、東日本大震災では建物が壊滅被害を受けた。4年半を経てようやく全面供用開始された市場で「石巻大漁まつり」が開かれたのは18日だった。大漁まつりは石巻を代表する秋のイベントだが、震災後は市場が復旧するまで場所を変えて開催してきた。でも市場から離れていることもあり、人出はあまり多くなく、早くに市場での開催が求められていた。
 この日は天候にも恵まれ、約4万2千人が足を運んだ。新市場がどのようなところなのか、見学を含めてまつりに足を運んだ人も多いだろう。構内では売り子が「新鮮ですよ」「今日は特別価格」「味見してみて」と威勢の良い声を響かす。まるで「年の瀬市」のようだ。両手に買い物袋を抱えた人。発泡スチロールに入った魚介類を数段重ねてキャリーカーに乗せ、それを引く人。どこをみても人、人、人であふれていた。
 奇しくも16日に告示された宮城県議会議員選挙の候補者にとっては、選挙期間中唯一の「選挙サンデー」でもあり、魚市場に狙いを定めて選挙カーから名前を連呼する候補もいた。確かにここを抑えない手はない。市場の中も外も活気に満ちた1日だった。復興とはこうした1日1日の積み重ねによるもの。このまちに住んでいるからこそ、復興の速度がよく分かる。
 震災直後、市内はしばらく停電が続いたため、市場周辺の水産加工会社では冷凍庫に保管していた約5万トンの魚介類を海に廃棄処分した。こうした苦労を乗り越え、今がある。復興を語るにはそれまでのプロセスをしっかり理解することも必要だ。
 

 
  

167. 若者と選挙ワークショップ                H27.10.8

 バブル期の昭和61年は70%。震災後の平成24年は46%。若い世代(20−24歳)は昭和61年が58.85%、24年は26.58%。さて何の数字だろう。実はこれ、衆院選の投票率。前半は全体の平均。後半は若者に絞った値だ。
 石巻市は昔から選挙や政治への関心が高く、投票率は70%代を維持してきた。しかし、震災後は軒並み低迷。石巻市長選、石巻市議会議員選挙など身近な選挙であっても半数程度の投票率だ。「復旧、復興で選挙どころではない」というのが世の声だが、その理由だけに終始してはいないか。「選挙どころではない」と言っても震災から4年半が過ぎた今、それほど手が離せないという人はどれだけいるか。むしろ、政治に無関心な人が多くなったといった方が早い。
 インフラ整備の復旧、復興は国や県の予算が頼みの綱。予算がついても事業が追いつかなく、市民にとってはそれが復興の遅れに直結している。そうなると「政治はあてにならない」とされ、政治離れに拍車がかかる。復興のときこそ政治家の出番だが、どうも有権者には届いていない。

 とくに若者の政治離れはどんどん進んでおり、今や関心を持つのは一握り。これではまずい。石巻日日新聞社では今回の県議選(10月16日告示・25日投開票)に合わせ、「若者と選挙」をテーマとしたワークショップを開いた。学校もバラバラに8人の高校生に集まってもらった。来年の参院選から対象となる18歳選挙権の意味を説いた後、なぜ若者の投票率が低いのか、関心を高めるにはどうしたらよいのかを語ってもらった。ある高校生は「関心がない、と一言で言えば終わりだが、ようは自分たちが新聞を読まないので政治を理解しようともしない。だから関心がないという言葉で逃げているだけ」と本音を漏らす。
 では、若者の声が政治に届かなくなったらどんなまちになるかと生徒に聞いた。「高齢者だけの政策が多くなりそう」。じゃあそこに住む若者はどうだ。「生活しづらい。高齢者に有利なまち」。そこに暮らし続けたいか。「それはいやっ」。そんな問答を繰り広げた。高校生も危機感を持ったようだ。実際に記者2人が立候補者として生徒の前で演説し、投票をしてもらうという模擬選挙も実施した。高校生は「最初はつまらないかもって内心思っていたが、政治が分かると楽しくなった。来年は投票します」と話してくれた。効果あり!新聞社は新聞をつくるだけが仕事ではない。膝と膝を交えて諸問題に取り組むことも大事。改めて痛感した。

  
  

166. 黄金色の稲穂                       H27.10.1

 実りの秋、収穫の秋を迎えた。田んぼでは黄金色の稲穂が頭(こうべ)を垂れる。梅雨明け後の夏場の高温、そして秋の長雨と生育が心配されたが、思いのほか豊作。収穫はピークに差し掛かっており、品質のよいコメが市場に並ぶのも間もなくだ。
 東松島市立赤井小学校では「田んぼの学校」と銘打って田植えから収穫、脱穀、もちつきと一連の流れを体験し、農業への関心を高めている。農業体験や基幹産業を学ぶだけでなく、根底にあるのは後継者の育成。東北は農業、漁業など一次産業が盛んだが、少子高齢化などで従事者は年々減少。そこに東日本大震災が追い打ちをかけ、人口流出を加速させた。もともと人がいないところが、さらに欠けるとなれば致命的。沿岸被災県(宮城、福島、岩手)ではこうした地域が増えている。
 家族間で後継者がいなければ、外部に手を広げなければならない。そのためには農業を体験して楽しみを感じてもらうのが一番。「田んぼの学校」では、苗の手植えから始まり、秋には手鎌で刈り取る。学校の遊具(ジャングルジム)に稲を房掛けし、2―3週間ほど乾燥させた後、足踏み式の脱穀機で稲からコメ(もち米)を取る。10月末には昔ながらの杵と臼を使ってもちをついて食べるという流れだ。
 1年かけて昔ながらの農業を体験することで稲作の楽しさと難しさを学ぶ。この日の収穫では手鎌を持った児童が稲を刈り、束ねて結び、トラックに積み込んだ。男子児童は「稲刈りが楽しかった。農家の人の苦労も分かった。きょうからはコメを大切に食べたい」と話していた。
 東日本大震災では農地被害も甚大だった。東松島市は沿岸部の農地が全滅し、内陸部も河川を遡上した津波が堤防を決壊させ、広範囲に浸水被害をもたらした。一度塩水に浸った農地は何度も水を入れ替える塩抜きをしなくては使えない。震災から4年半を過ぎてもまだ復旧していない農地もあり、場所によっては時が止まったままのところも。田植えをし、稲が実ることに感謝を感じずにはいられない。
 さぁ今月は、いよいよもちつき。PTA活動もピークを迎える。赤井小学校が行う収穫祭は年間行事の中での最大規模。学校、PTA、地域が一体となって作り上げる。同時に石巻地方では震災で先送りされた県議会議員選挙が10月に行われる。ん〜っ。公私ともに今年の秋は駆け足で過ぎていきそうな予感だ。
 
 
  

165. 変わりゆく街並み                     H27.9.24

 上手に休みを取れば最大9日間というシルバーウイーク。ハッピーマンデー制度により、休みが増えた結果だ。19日から23日までの連休は2009年以来。次に同じような5連休となるのは2037年であり、22年後。そう考えれば貴重な週間だったのだ。皆さんは上手に休みを使うことができましたか。
 東日本大震災で被災した石巻市はシルバーウイークでもいたるところで復興事業が動いており、大型重機がうなりを上げて土をかき上げる。広大な土地に盛り土が形成され、そこに重機が通る新たな取り付け道路などが整備されているが、どんどん変わる地形に「はて、震災前はどんな姿だったかな」と首をかしげるときもる。あの日からわずか4年半しか過ぎていないが、見慣れていた風景が変わると元の姿が思い出しにくくなる。写真をみて懐かしむこともあるが、どこかむなしい。
 このシルバーウイークを使ってまちの中心部が津波被害ですっぽりなくなった石巻市鮎川に出向いた。半島の先端で日本地図でもちょっと飛び出ており、分かりやすい。「日本でアメリカに一番近いまち」とも言われたこともあった。そんな鮎川は震災で人口減が著しく、高齢化率も高い。もともと捕鯨の町として栄え、文化を伝える観光施設「おしかホエールランド」もあったが、被災で建物も取り壊された。
 現在は商業施設や観光施設を一体化させたまちづくり構想を掲げ、復興事業に取り組んでおり、住家があった地域は企業誘致を図る考えだ。確かに構想はいいが、行政で取り組む商業、観光の複合施設はできたとしても企業誘致はどうだろう。もともと津波で被災したエリア。しかも石巻市の中心部からは車で50分程度と離れている。自然豊かな地域だが、どれだけの企業が関心を抱くかは未知数。セールスポイントを明確にし、魅力を高めなければ進出は難しいだろう。
 一方、石巻市の中心市街地では再開発事業が進んでいる。足並みがそろわず、再開発を断念して解散した準備組合もあるが、少しずつまちの顔が変わっているように思える。中でも今月27日にオープンする「COMICHI石巻」は路地に整備された住居と店舗の複合施設。写真でみても分かる通り、ちょっとおしゃれだ。
 石巻市は郊外に大型商業施設があり、商圏は街なかから郊外に移った。人の流れも変化しており、駅前の顔である中心市街地を取り戻すにはここも魅力あるまちづくりを進めなければならない。あと5年。あと5年経てば石巻の街並みもだいぶ変わるだろう。
 5年かぁ。やっぱり長い。安保法案で衆参両議員は熱いバトルを展開した。あれだけの熱意を復興にも向けてくれればもっと早く進むことは間違いない。
 

 
 
  

164. 盲導犬がやってきた                    H27.9.10

 石巻日日新聞社には毎日、多くの人が訪れる。新聞や新聞に載った写真を買いに来る人、読者プレゼントで当たった景品を受け取りにくる人、情報提供、取材依頼、広告依頼などさまざま。朝は大型トラックが本社に隣接する工場に横づけされ、新聞に使うロール紙(巨大なトイレットペーパーと言ったほうが分かりやすいかも)を荷台から降ろす。
 社員向けにパン屋も定期的に来ており、その中にはヤクルト販売もある。そのヤクルトレディ―が連れてきたのが盲導犬だ。PRを兼ねた事業。人は多く出入りしていても動物は珍しい。社員も集まり、恐る恐る犬(ラブラドール)に手を差し伸ばす。大人しい盲導犬。社員が買うヤクルトの数も自然と多くなる。PR効果は絶大だ。
 でも新聞社に来たのはこれだけではない。盲導犬の育成費の90%は寄付によって支えられている。盲導犬の活動期間は約8年間。仮に40歳で視覚障害になると80歳までに計5頭の盲導犬が必要となる。現在日本では約3000人が盲導犬を必要としているが、数が不足しており、全員に行き届くことができていない。
 公共施設や飲食店、スーパーでは「盲導犬以外のペット同伴は不可」という注意書きをよく目にするが、実際に盲導犬を連れて入る人の姿はほとんど見たことはない。むしろ、白杖や伴侶の肩を借りて歩く姿はある。もっと盲導犬の数が増えれば、視覚障害者の活動範囲も広がる。その切っ掛けが一人一人の善意だ。
 東日本大震災では多くの障害者が不自由な生活を強いられた。もちろん今でも。建設が進む復興公営住宅ではバリアフリーが常識となっているが、すべて完成するのはまだ先。でも障害がある人は今すぐにでも住みよいまちになってほしいと心から思っている。人はいつ、どうなるのかも分からない。だからこそ普段からの助け合いが大切だ。
 
 
  

163. 大川地区にメガソーラー                  H27.9.5

 石巻市の大川地区は東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた地域の一つ。児童、教職員を含め84人が亡くなった大川小学校もある。震災前、大川地区を車で走っていると元気の良い子どもたちがピョンと道路に飛び出してくるのではとヒヤヒヤしながらスピードを緩め、地域を通過した。それほど活発な子どもが多く、笑顔が絶えなかった。今はその姿が見られないのが一番辛い。
 あの日から4年半。大川小にほど近く、すでに解体された大川中学校跡地に太陽光発電施設が整備された。名称は「大川発電所」。石巻市から学校跡地を借り受け、東松島市の企業が3億3千万円を投じて整備した。設置した太陽光パネルは4760枚。出力は1213キロワット。一般家庭に換算すれば年間約400世帯分の電力を賄うメガソーラー発電施設だ。ためた電力は20年契約で東北電力に売電する。発電所の整備で地元雇用の増加も期待されている。
 完成式で建設した東部環境の工藤豊和社長は「隣接地には野菜の水耕栽培施設も整備しており、これからは野菜と電力で地域を元気にしたい。将来的にはトレーラーハウスでの休憩所やアンテナショップを置き、大川地区に人を呼んで震災の風化を防ぎたい」と語った。震災後、石巻市は人口減少が顕著。企業誘致といっても簡単なものではなく、地元の企業が奮起して雇用を生み出す方が今は早い。今回はそのケースであり、大川地区の復興のシンボルとしても期待される。
 施設の責任者である佐藤和隆さんは、大川小6年生だった三男を津波で亡くした。「これからここには雇用が生まれるよ。完成して一安心できた。でもさぁ、震災がなければ息子はここに通学していたんだよなぁ。今は俺がここに通勤している。複雑な思いだよ」。元気に振る舞う和隆さんだったが、震災の話になると表情は硬い。人の命は時間の長さでは図ることができない。石巻で取材しているとつくづくそう思う。これからもそうだ。
 
 
  

162. 雨の中の体育祭                      H27.9.1

 猛暑だった8月はどこにいったのだろう。このままではあの暑さも記憶から薄れてしまう。石巻市は連日、低温続き。最高気温は20度をちょっと上回る程度。半袖で過ごすには寒い。残暑という言葉は今のところ当てはまらない。そこに追い打ちをかけるのは連日の雨。曇天はもう1週間も続いている。久しく太陽を見ていない。
 秋と言えば食欲の秋、スポーツの秋。中学校では体育祭がピークを迎えている。東松島市立矢本第二中学校では当初、8月29日に予定されていたが、雨で先延ばしし、翌日の30日に実施した。でもこの日も雨。他の学校行事や日程を踏まえてもこれ以上の先送りはできず、強行する形で行った。グラウンドには大きな水たまりがあちらこちらにでき、雨脚は弱まるどころか激しさをます。
 リレーや団体競技などはどこがコースか分からないほど。でも生徒たちは日ごろの練習の成果を発揮し、応援合戦では息をぴたりと合わせた。ぬかるみに足を取られて転ぶ人も続出だが、泥がクッション代わりになるのだろう。大きなけがにはつながらない。一度転び、真っ白なシャツが真っ黒に変わると何かがはじけ飛ぶのだろう。男子生徒はすべての競技が終わるとグラウンドを駆けて水たまりにダイブ。よくプロ野球が中止となったとき、選手が飛び込むのと同じだ。
 その姿に誘われて次々と生徒たちが泥水の中に頭から突っ込む。そして女子生徒も手を繋いで豪快にダイブ。笑顔があった。飛び込んだのは3年生の生徒。学校側もこれほどの雨での実施は例を見ないという。生徒にとっては「レア」な体育祭となった。まして3年生ならこれが最後であり、親は洗濯を考えれば冷や冷やだが、生徒にしてはそんなことはお構いなし。最高の思い出づくりになっただろう。
 いつくかの競技は中止となり、体育祭は午前中で終了。30日の開催も見送れば中止だっただけに背水の陣で挑んだ。月曜日は振替休日であり、仮に風邪を引いた生徒がいればこの日をしっかり休み、翌日からはまた元気に登校してほしい。
 さぁ9月はスポーツや文化、芸術の秋。新聞紙面も華やかな写真が増え、小学校のPTAでは収穫祭が控えているなど忙しくなりそうだ。おっとそれともう一つ。2か月後には震災で先送りされていた宮城県議会議員選挙が行われる。そちらもしっかり取材しなくては。忙しいからといって食べ過ぎては、夜な夜な走っている意味がない。本末転倒にならないように気を付けたい。 
 
  

161. 公衆電話はすごいヤツ                   H27.8.25

 災害時の連絡体制は家族の中で決めているだろうか。私が務める石巻日日新聞社の報道部でも震災前は「何かあったら携帯に連絡。すぐ出られるようにしておくこと」と取り決めていた。この考えの甘さを知ったのが平成23年3月11日に東北沿岸部を襲った東日本大震災だ。
 停電で電気はつかない。もちろん携帯電話に充電もできない。最近はスマートフォンの割合が高くなっており、インターネットも見られるとあって便利だが、電池の消耗は激しい。震災後は早い人でその日の夜、2日もすればほとんどの端末機器は使えなくなり、真っ黒の画面だけを眺めるだけだった。
 そこで活躍したのが災害用伝言ダイヤル。災害時は発信が規制され、警察や消防などの通話が優先される。すなわち一般の電話はつながりにくい状況に陥る。災害用伝言ダイヤルはそんなときに機能を発揮する。「171」(忘れて『イナイ』と覚えると便利)をダイヤルし、限られた時間内でメッセージを吹き込む。聞く側も同じように「171」にダイヤルして伝言内容を確認できるという仕組み。県内では発災から約4カ月で35万コールがあったという。こうしたサービスと知っているか、知っていないかで大きな差がある。
 それともう一つが公衆電話の利用だ。今は携帯やスマホの普及で利用する人は少ないが、公衆電話はまちなかが500メートル四方に1台、郊外は1キロ四方に1台と決まっており、宮城県内では今年7月末現在で35448台、石巻市内では226台が稼働している。首都圏などはさらに多い数。実はこの公衆電話、すべてに自家発電機能があり、仮に停電となっても2−3日は何事もなく稼働しているそうだ。しかも携帯やスマホよりもつながりやすいのが特徴。ないに越したことはないが、万が一のときは公衆電話の活用も頭の中に描いてほしい。
 これらの利用が掲載された「災害時連絡方法のてびき」が25日に日本公衆電話会宮城支部から石巻市消防団に寄贈された。昨年に次いで2回目で今年は400部を受け取った。電話会は9月にも大型ショッピングセンターで街頭キャンペーンを開くという。
 便利な世の中だが、電波は災害に弱い。アナログは何かと片隅に追いやられ、消えゆく運命となっているが、すべてそうなっては「命が守られない」時もありえる。共存社会を望みたい。

 
  

160. 夏の夜のきもだめし                   H27.8.14

 今年もやってきました!東松島市図書館と石巻日日新聞社のコラボ企画。夏恒例「ナイトおはなし会&きもだめし会」。以前、東松島市を担当していたとき、職員から「きもだめしを昨年から始めたけど、よかったらのぞいてみて」と言われたのが事の発端。取材兼演出で初出場した2007年はカメラのフラッシュなどで驚かせたが、子どもたちの反応が実におもしろかった。
 次年度からは取材は別の記者にお任せし、本格的なプロデュースのほうに力を注いだ。広い図書館の灯りを消し、提灯に灯されたほのかなライトを頼りにウオークラリー形式でチェックポイントに置かれたボールを集めてくる。1周約10分。子どもにとっては「怖楽しい」時間だ。公共施設を使ったきもだめしは全国的にも珍しく、リピーターとなる小学生も出始めた。同時に新たな課題にも突き当たった。
 「お化けが同じではつまらない」。インターネットを使って国内外から妖怪やお化けのコスプレグッズを毎年買い集め、コツコツと数を増やした。あめとムチではないが、たくさんの駄菓子を袋に詰め、最後に子どもたちに手渡すことにもした。予算はそこそこにかかるが、子どもたちに喜んでもらえればそれで十分。ボランティアとはそのような気持ちから生まれるのかもしれない。気づけば今年で9年目を迎えていた。
 今年は「千と千尋の神隠し」で登場した「かおなし」に挑戦。首都圏からきた大学生ボランティアと石巻日日新聞社の記者も協力し、役者がそろった。低学年と新規参加が多く、笑いよりも悲鳴が響くきもだめし会となった。定員は20人だが、今年は2日間で数に達する人気ぶり。その後も図書館には問合せが多かったという。来年は10周年。何か大きなことをしたい。
 頑張った子どもたちにご褒美を手渡した後、私から「昼夜を問わず、子どもだけで外できもだめしをやってはダメです。危ないと言われる場所にはそれなりの『理由』があるのだから近づかないように」としっかり念を押させてもらった。さぁ夏休みももう少し。けがなく、事故なく過ごしてほしい。もちろん、お化けにも会わないようにね。
 
  

159. 宮川ゼミ生が石巻市訪問                   H27.8.3

 石巻日記のサイトを運営する『きぼうのきずなひとつ。』の土肥さん、二宮さんと出会い、東日本大震災から3年を迎えた年に町田市で講演の機会を頂いた。そこで出会ったのが、学習院大学の宮川努教授(現・同大学経済学部長)。気さくな方で町田市では「帰りの駅が同じ方向だから」と見送りまでしてくれた。話しやすく、被災地に思いを寄せていることがはっきりと分かった。
 それから2年が過ぎ、宮川先生から1通のメールが届いた。8月にゼミ生を連れて石巻市を訪れたいという内容だ。学生11人と一緒に石巻駅に降り立った宮川先生は「どうもどうもご無沙汰です」とにっこりと笑顔を見せてくれた。距離感を思わせない対応が実に素晴らしい。バスに乗り、石巻日日新聞社の前で震災の状況を説明した後、石巻市の中心市街地にある復興まちづくり情報館と石巻ニューゼを見学。学生たちは石巻日日新聞社が震災時に発行した壁新聞を読み、情報館では震災直後の写真から惨状を学んだ。
 そこから40分ほどバスに揺られ、たどり着いたのは児童、教職員84人が死亡、行方不明となった大川小学校の被災校舎。むき出しになった教室、コンクリートの橋げたが根元から折れた2階の渡り廊下、ステージの跡だけが残る体育館。止まった時間がここにある。被災校舎を見るたび、学校に通っていた子どもたちの姿が浮かぶ。
 毎年、正月の3日に大般若巡行があり、六百漢の経文を収めた6つの箱を町内の若手が担ぎ、地域を練り歩いていた。子どもたちも一緒について歩き、各戸を回ってお菓子をもらった。正月のほほえましい風景がそこにあり、毎年、楽しみな取材だった。でも今はその形もない。子どもの声が消えた校舎の前に立ち、学生たちもなぜ子どもたちが命を落とさなければならなかったのか。避難行動に移るまでの空白の50分間にそれぞれが向き合った。学生は一人一人慰霊碑に花を手向けて手を合わせ、冥福を祈った。
 日和山に立ち寄り、夕食会場では学生たちから感想を聞くことができた。「復興はまだまだ先」「被災地を訪れることで報じられない部分も見ることができた」「伝えることの大切さを知った」。生の風景を目にすることで地域が抱える課題を共有できた。
 被災地に住む人は次に同じような災害を経験したとき、このあと周囲に起こる状況が予測でき、経験と教訓を生かした対応に移せる。それこそ「災害を具体的にイメージできることが震災を経験した市民の財産」ということだ。ただこのイメージできる力は自分の中だけに押し込めているだけでは意味がない。まだ震災を経験していない人たちに伝えることが義務。
 私たちはこれからもしっかりと前を向いて「あの日」のことを伝えなければならない。そして今回訪れた学生が石巻の「今」をキャンパスから発信し、多くの学生が石巻市に関心を寄せて訪れることを願いたい。
 
 
  

158. 静と動の川開き祭り                     H27.8.1

 石巻市の夏の一大イベント「第92回石巻川開き祭り」が7月31日と8月1日に中心市街地で開催された。初日は鎮魂、翌日は復興がテーマ。震災後は静と動に分けて開いている。日没とともに東日本大震災供養祭が執り行われ、僧侶ら約50人が一斉に読経。会場には次々と市民が訪れ、焼香しながら手を合わせた。
 親類を亡くした女性の姿もあった。「震災から5年目の供養祭。早いものですね。きょうは気持ちを切り替えて前を向うとここに来ましたが、思いがこみ上げてきてやはり一歩を踏み出すことができない」と吐露していた。高齢男性の手には小さなおもちゃが握られていた。焼香のときも肌身離さず、祭壇に向かって何かを語り掛けているようだった。察しがつき、私も目を向けるのをやめた。
 震災犠牲者は石巻市だけで3000人を超す。僧侶たちは分担して犠牲者の名前を読み上げた。一人の僧侶で約60人近い名前を読む。一斉に響く僧侶たちの声。その多さに圧倒され、改めて震災の大きさを肌で感じた。気づくと参列する市民も目を閉じ、犠牲者に哀悼を捧げていた。
 同時に旧北上川には5000個の灯ろうが浮かぶ。それぞれに犠牲者の名前とメッセージが込められ、灯ろうはゆっくりと海に向かった。たくさんの人がいたがはしゃぐ声はない。「きれいだね」「見ていてくれているのかな」。後ろから親子の会話が聞こえ、心が痛む。失った命は二度と戻ってこない。だから辛い。そこにいる皆が同じ思いだった。
 2日目はムードが一変。今度は復興に向かう未来の石巻がそこにあった。若者がたくさん街に繰り出す。毎年思うのだが、普段、若者の姿が見えないだけに「いったいどこに隠れているんだ」とぼやく。この力が結集すれば街の未来はもう少し変わるはず。祭りは地域の絆を深め、人と人とを結びつける。ごみ問題や駐車場確保、仮設商店街のアピールなど祭りでは課題も浮き彫りとなった。でも「市民力」で取り組めば来年につながる新たな創造も生まれる。祭りのあとこそ、スタートのときだ。
 
  

157. 川開きまでカウントダウン                  H27.7.25

 きょうは7月25日だからあと1週間後だ。紙面特集も大詰め!あとは晴れてくれれば万々歳だろう。えっ何の話かって。それは「第92回石巻川開き祭り」。石巻市を代表する夏祭り。今年も7月31日と8月1日に開催される。石巻が最も熱くなる2日間だ。
 この祭りは石巻市の中心部を流れる旧北上川を開削し、治水で石巻を救った川村孫兵衛重吉翁に対する報恩感謝祭。震災前は前夜祭を含め、計3日間実施されていたが、震災後は2日間に凝縮された。大きく分けて陸上行事と水上行事があり、おすすめはやはり孫兵衛船競漕だ。震災で中断していたが、昨年、完全復活した。
 男性は12人、女性は8人乗りの船をオールで漕ぎ、400メートル先のゴールを目指す水上バトル。今年は男子45チーム(昨年35)、女子13チーム(同11)がエントリーしており、出場チーム数はほぼ震災前に戻った。パワーだけでもダメ、若さだけでも勝てない。勝利のカギは息のあったオールさばきだ。
 旧北上川では連日、早朝から練習が始まっており、川岸には選手たちの「キャッチ、キャッチ」というそろった掛け声が響く。初日よりも2日目、2日目よりも3日目と力をつけ、息も合う。「優勝できるのではないか」と思えてしまうが、それはどこも同じ。皆この1−2週間で急速にレベルアップする。当日の風向きや川の流れも大きく影響する。自然を熟知したものが優勝杯を手にできるのだ。
 陸上と言えば、個人的には「大漁踊り」。震災前は浴衣姿で2000人以上が同時に踊り、とても華やかだった。昔を知る石巻の人なら分かるはず。大漁踊りは祭りのフィナーレであり、幕引きの寂しさと来年につなぐ期待が入り混じったものだ。今はパレードの最後を務め、その後、日没とともに花火が打ち上がる。
 今年の花火大会は6000発。震災前と比べれば1万発近くも減った。もちろん、地鳴りのような音が響く尺玉も上げることはできなくなった。打ち上げ場所も変わったが、逆に観客との距離感が縮まったため、小さな花火でも大きく見えるようになった。
 最後を飾るのは新潟県長岡市が発祥のフェニックス。中越大地震の復興祈願で始まり、東日本大震災後は石巻でミニフェニックスを支援した。川開実行委員会では平成26年度から市内で協賛を募り、長岡から受け継ぐ形で「ミニフェニックス」を打ち上げており、今年も石巻の夜空に復興を願う不死鳥が舞う。
 このほか5年ぶりに市街地を彩る七夕飾りも復活する。きっと震災で犠牲となった市民も天国から祭りの様子を見てくれるだろう。
  

156. 3割増し商品券発売                    H27.7.17

 3割増し商品券。いい響きだ!1万円で1万3千円分使える。お得だ!でも買うのに並ぶのは、大変だ!!
 石巻市は国の交付金を活用して割増し商品券の販売を開始した。地域の消費を喚起し、地域経済の活性化を目的として発行される地域消費喚起・生活支援型商品券である。全国で発行が相次いでおり、これで景気が刺激されれば御の字だが、一時的なカンフル剤に終わらないかと不安だ。
 石巻市は1千円券が13枚つづりの商品券(額面計1万3千円)を1万円で計6万セット販売している。6万は市内の世帯数であり、概ね1世帯1セットが買えるようにしている。「1万円はすぐ。どうせなら1人5セットぐらいまで買えるようにしてほしい」。随分前から言われてきた市民の思いだ。
 この商品券どこでも使えるわけではない。まずは加盟することが大事。市内では約900店舗が登録した。首都圏は大型店や量販店が多いが、地方は地元店と呼ばれる小売店の数が圧倒的に多い。郊外に大型店が進出すると戦々恐々とみており、中には「大型店に客を取られて商売ができない」という声もよく聞く。ならばこちらも「商店街で結束してイベントを定期的にやるなど人を呼び込む工夫をこらせばいいじゃないか」と返す。店主は「そんなこと言われても」という顔をするが、実践には至らない。その姿をみて「これでいいのか」と疑問を抱く。
 石巻市の商品券は加盟店すべてで使える共通券が1万円、地元店のみが3千円のセット。ある店主は「じゃあうちは3千円しか使ってもらえない」と嘆くが、そうではない。地元店に1万3千円を落としてもらうようにサービスや企画を打たなければ客はこない。最初から諦めては何も始まらない。
 発売日当日はかんかん照り。市内では臨時販売所を設けたが、約1千人が並んだ。午前10時の販売開始だが、一番乗りは午前5時だった。すかさず、数人にインタビューしてみた。どこで使うかには「大型店」と回答した人が圧倒的に多い。地元店もいいが、一度店内に入ったら何か買わないと出られない雰囲気があるという。でもサービスがよければ使いたいという声も聞かれた。
 商品券の利用は今年いっぱい。黙って待っているのではなく、地元店、大型店とも知恵の出しあいに期待したい。商品券はあくまで経済を活性化させるためのツール。一過性にしては単なるバラマキで終わる。バラマキだったか、刺激だったかを判断するのは国ではない。地域が好機をどう活用したかで決まる。だから地域によって違うのだ。石巻は後者であることを願いたい。
  

155. 心のバリアフリー                     H27.7.13

 とっておきの音楽祭はご存じだろうか。障害がある人、ない人も音楽を通じて楽しみ、心のバリアフリーを目指すのが狙い。全国で音楽祭が行われており、東松島市では今年で11年目を数えた。何でもそうだが、定着するまでは時間がかかる。東松島市で始めた当初は単に音楽イベントと思われがち。どうやってバリアフリーの社会を訴えていくか、主催者にとっては一番の悩みどころだった。でも回を重ねるごとに趣旨が広がり、誰しもが楽しめる音楽祭に仕上がった。
 昨年までは公共施設や大型商業施設の駐車場で開催していたが、今年は商店街を丸々歩行者天国とし、ストリートライブ方式にした。実行委員長は「まちの中心部から福祉を唱えたい」と語っていた。よくよく考えれば、もっと早く街なか開催はできなかったのかとの疑問もある。まぁそれはさておき、歩行者天国によってちょっとした夏祭り感覚を味わえた。
 商店街の駐車場ではロックやブルース、フォーク、手話ソング、合唱、合奏など幅広い音楽ジャンルがそろい、出演者がパフォーマンスを繰り広げた。この日は最高気温が30度を超す真夏日。取材する側も大変だが、出演者はもっと暑いだろうと思う。汗を拭き拭き、ギターを鳴らす奏者もいた。
 商店街では多目的トイレの完成テープカットがあった。トイレ?と思うだろう。商店街には車いすでも入れるトイレが異常に少ない。この感覚は健常者主体だったからだ。この音楽祭を街なか開催することで、ふと気づき、支援を求めた。手を挙げたのは東京都大田区。震災後から東松島市と深いつながりがあり、ロータリークラブの関係者が支援してくれた。完成したトイレは以前のトイレを改修し、広々とした空間。これで街なかでも安心して車いすが利用できる。数的にはもっとあってもいいくらいだ。
 音楽祭のフィナーレは全員で手をつなぎ、歌を熱唱。笑顔がはじけ飛び、心のバリアフリーができあがった瞬間であった。祭りでは成果が見られたが、問題はこれから。互いに手を取り合って助け合いながら支え合う社会が常になければならない。実践するのは市民一人一人だ。
  

154. 出張!子ども新聞                       H27.7.7

 石巻日日子ども新聞は震災後に誕生した季刊発行の新聞だ。大人が書いた子ども向けの新聞はあるが、子どもが取材から撮影、執筆とすべて手掛けたのは全国的にも珍しい。しかも見出しやレイアウト、新聞の郵送先まで子どもたちが携わる。参加している子ども記者は石巻市内が中心。毎週末に集まり、石巻の今を取材している。
 出前講座は国語力の向上と地域を知ることを目的に不定期で行っており、今回は東松島市内の児童5人が名乗りを上げた。出張子ども新聞のような形でスタッフが学校に出向き、子どもたちと一緒に取材する項目と人物、質問内容を考える。ここまでが第1回目。2回目は実際に取材に行き、3回目で記事にまとめる。4回目は新聞が発行されたあと、振り返りを行う。
 現在は9月号掲載の予定で進んでおり、今は2回目が終わった段階。3回目はいよいよ執筆作業。子どもたちの「え〜っ」が聞こえてきそうだ。取材は楽しいが、記事を書くのは苦手という子は多い。どうやったら子どもたちが楽しく記事を書けるか。ヒントは質問にある。
 子ども新聞では1枚の紙に一つの質問を書き、それを聞く順番に並べ替え、答えを質問の隣に書く。記事にまとめるときは質問の最初から答えだけを拾っていく。どうだろう。何となく記事になりませんか。ようは話の順番をしっかり決めれば記事もまとめやすい。文章にするにはなるべく多くの情報が必要。相手が話すことをメモに残さなければいけない。最初は取材が楽しいと思っていた子どもたちだが、途中で役目を思い出し、せっせとペンを走らせていた。
 今回の題材は太鼓と稲作。学校に伝わる創作太鼓、基幹産業である稲作を調べ、記事にしていく。小学生は算数よりも国語が苦手な子が多い。なぜか。それは答えが一つではないからだ。算数に複数の回答はない。だから答えが合っているか、間違っているかはすぐに判別できる。でも国語は別。国語は必ずしも答えが一つとは限らない。よくあるのが「これでいいかな」「やっぱり違うかな」と迷ったあげく、書かないこと。書かなければ必ず失点。書けばもしかしたら当たるかも知れないのが国語。訓練には質問の内容をしっかり理解して説く読解力が必要だ。
 子ども新聞にはそんな要素もある。さぁ出来上がる記事が楽しみ。子どもたちにとっても忘れられない思い出になるはず。今回は私がゲスト講師。しっかり教えてきます。
 

153. 児童がプレゼンテーション                  H27.6.30

 怒涛の6月も今日で終わり。思えばこの1か月間はいろいろなことがあった。とくに学校PTA行事が忙しく、その主たるものが東松島市PTA連合会主催のバレーボール大会だった。市内全小中学校からの参加であり、私の仕事は運営業務。けがなく、楽しんでもらえることが最大のミッションであり、他校と数回、協議を重ねてきた。28日にあった大会も成功裡に終わり、打上が終わって帰る深夜は安堵感に包まれた。
 仕事では第57回石日旗争奪少年野球大会が12日に開幕した。今年は梅雨入りが遅かったおかげで試合は比較的順調に進んだが、チームの日程などが合わず、月内に決勝戦を行うことはできなかった。その決勝は7月1日。何とか晴れてほしいものだ。公私ともに充実?した1か月はあっという間に過ぎ去った。その締めは30日にあった母校である東松島市立赤井小学校での新聞の授業だった。
 小学5年生は約1か月間、国語の授業で新聞記事を読みながら見出しを考えることをしていた。毎日のように見出しを付ける宿題が出ており、児童からは「新聞記者になるわけでもないのにどうして必要なの?」と、そんな疑問が沸いてもおかしくない毎日だった。新聞の授業では、児童がこれまで学んできたことを生かし、グループ単位で記事を読み解き、見出しをつけ、その理由を説明する。新聞記者に対するプレゼンテーションということで、私がその役目を受けることになった。
 驚いたのは着眼点の良さ。震災遺産、災害公営住宅の2つの記事だったが、「3・11」「高台」「未来」「家」など新聞社が普通に考える見出しのキーワードが小学生の口から飛び出す。しっかり勉強していることがうかがえた。記事の写真にも目を向け、どんな意図でこの写真が写されたのかもひも解くなど洞察力の鋭さがうかがえた。
 私からの講評では、国語は算数と違って答えがたくさんあることを伝えた。見出しも同じである。しっかりとした見出しを立てられたことは「読解力」の表れであり、これからの勉強にも十分生かせることを話した。見出しは記事の内容を一言で表せばという意味であり、児童は重ねてきた授業の中でいつしか読解力を養っていた。あとはこれを伸ばすだけ。この日は短い時間だったけど、とても充実していた。子どもたちの聞く姿勢も立派だった。
 

152. 被災地の梅雨入り                      H27.6.26

 どんよりとした雲が覆う。でも雨は降りそうもない。なぜなら、ここしばらく、朝は曇っていても日中は強い日差しが差し込む。あれっ?梅雨って明けたのかなと思うほどだ。おかげさまで石巻日日新聞社が主催する第57回石日旗(せきじつき)争奪少年野球大会は準決勝まで終わり、決勝1試合を残すのみとなった。開会式は後半が雨にたたられたが、翌日からの試合は順調に進み、ここまできた。梅雨時の大会だけに「アジサイ大会」の異名を持つが、今年はひまわり大会だったかもしれない。
 でも今日はずっと曇ったまま。じめじめする蒸し暑さを感じていたらニュースで「東北地方南部が梅雨入りした模様です」と発表があった。「えっー」と報道部内でも声が上がる。時計は間もなく正午。締め切りも近づいており、記者が原稿を書き、カメラマンが梅雨を連想させる写真を狙って会社を飛び出した。
 今年は太平洋高気圧の勢力が弱く、梅雨前線が北上しにくい状況となったことから昭和26年に仙台管区気象台が統計を開始して以来、昭和42年と並ぶ最も遅い梅雨入りとなった。昨年に比べて21日、平年より14日も遅い。予報では夜から雨が降り続け、今後1週間は曇りや雨の日が多いという。
 1か月予報では曇りや雨となり、前線の停滞により、梅雨が長引く可能性もあるという。石巻は過去、何度か梅雨明けがないまま夏が過ぎたことがある。蒸し暑さは残るが、青空はのぞかず、気づけば鈴虫の音が聞こえてくる。東北の夏は短いというが、梅雨明けがないと本当に短い。さらに震災後は海水浴場も閉鎖されたまま。むしろ、津波を体験すれば海水浴という感覚にはなれない。釣り客も伸び悩んでおり、夏のレジャーはあまり受け入れられていないようだ。
 梅雨時で懸念されるのは仮設住宅のカビ。密閉されたプレハブ仮設は熱が逃げにくく、換気が悪いとカビが繁殖する。仮設住宅に入居している人でぜん息やその疑いがある人が増えているという医療機関の調査結果もあり、健康悪化が心配される。
 「換気をよくすればいいのではないか」と言われるが、仮設住宅は玄関を開ければ中が丸見え。住宅は密接しており、プライバシーをさらけ出すようなもの。理想と現実とは違うのだ。 

 

151. 第57回石日旗が開幕                     H27.6.16

 石巻日日新聞社が主催する第57回石日旗(せきじつき)争奪少年野球大会が開幕した。今年は昨年と同じく石巻地方(石巻市、東松島市、女川町)から26チームが出場。開会式は12日夜に石巻市民球場で行われた。九州で被害をもたらした雨雲は幾分逸れても影響がゼロではない。実行すべきか、中止すべきか。実行委員会が組織された本社内では、断続的に会議を開いて天気の推移を予測。気象台のレーダーなどを頼りに分析を進め、実行の判断を下した。
 そして午後6時45分からの開会式。空は曇っているが、雨は降っていない。予想では7時過ぎからポツポツ来そうだが、それも確実ではない。もはや運を天に任すしかなかった。開会式は二部構成。一部は全選手による入場行進、二部は各種景品がもらえるクイズ大会だ。せめて入場行進だけでも。実行委の思いはここに寄せられていた。
 選手入場!司会のアナウンサーの掛け声に次いで、東松島市の観光PTキャラクター「イート」を先頭に国旗と社旗、大会旗を掲げた選手が入場。そのあとに前年度優勝、準優勝チームが続き、この後ろをトーナメントの組み合わせ順にチームが登場してグラウンドを一周した。よしよし。何とか順調。全選手の入場行進が終わった直後、ポツポツと雨が降り出し、一時的に強まった。
 やはりきた。でもここまでくればあと10分少々。来賓の皆さんも祝辞を早め、司会者も部分的に言葉を省略して時間を巻き、メーンの選手宣誓では請け負った選手が立派に大役を成し遂げた。選手宣誓のくじを引き当て、ずっと練習してきたはず。「中止で残念でした」にはさせたくなかった。二部のアトラクションは中止とし、開会式はバタバタしくも幕を閉じた。
 翌日からは1回戦が始まり、グラウンドでは選手たちの気迫が飛び交った。1回戦で印象に残ったチームが二つあった。一つは捕手のリード。1点が勝敗を左右する試合となり、重圧を感じた投手が肩で息を吸う。まだ4、5年生ぐらいだろうか。緊張するのも当然。その時、捕手の6年生は「大丈夫、大丈夫。笑顔、笑顔」と声をかけた。両手を広げて「どこにでも投げてこい」とアピール。投手の表情が緩んだ。びたっとストライクが決まり、2回戦に進出。捕手が「女房役」と言われるのが良く分かった試合だ。
 もう一つは監督。「いいか。感謝しろ。皆に。観客や審判、スタッフの皆に。こんないいグラウンドで野球ができるんだぞ。だから感謝して野球を楽しめ」。選手に向けられた言葉だが、主催する側もうれしかった。スポ少は技術を教えるだけではない。もちろん勝ち負けにこだわるだけでもない。心技体を学ぶところ。そこには感謝の気持ちもある。的確な指導と感じた。決勝戦は順調に進めば今月25日ごろ。雨天で順延が続けば7月に入る。まだまだドラマが生まれそうだ。 

 

150. 節目の中で支援に感謝                     H27.6.4

 おっおっ!ついに石巻日記も150回ですね。『きぼうのきずなひとつ。』の土肥代表との話から始まり、月3−4回の割合で寄稿を続けてきました。「日記であるなら毎日だろ!」というツッコミもあるとは思いますが、人間、生きている中でそんなに毎日、毎日が起伏に富んだ日ではありません。むしろ何もない日の方が多いのだと思います。
 「何でもないようなことが〜幸せだったと思〜う」というTHE虎舞竜のロードの曲が頭に浮かびます。確かに、この歌詞が震災後はとくにうなずけます。何でもない日常って本当に大切なんだなぁと。皆さんも何でもない1日が過ぎ去ることの幸せを感じ取って下さい。
 話は変わりますが、150回という節目にうれしいニュースがありました。義援金を活用した備品がついに届きました!経緯をお伝えしますね。
 今年の3月11日に東京都町田市のつくし野センターで「みんなでうたう復興支援ソング」があり、東日本大震災を忘れないために歌を通じて防災意識を高め、犠牲となった方々に黙とうで哀悼を捧げました。歌声を届けてくれたアースハーモニーさんが会場等で集めた義援金を『きぼうのきずなひとつ。』を通じて私が受け取り、母校の児童の活動支援に活用させていただくことにしました。PTAの役員会で話し合い、安全安心パトロールに使うたすきと秋に行う一大行事の収穫祭で用いる釜類を購入することを決めました。
 たすきは通学路の防犯灯が少ない中、不審者による児童トラブルを防ぐため、地域の方がたすきをまいて登下校時に散歩を行うボランティア活動で使います。釜と木製セイロ、木ぶたはもち米をふかすための道具。もち米は地域産業を学ぶため、5年生が中心となって田植えから行います。震災後、浸水した家財を廃棄するなどで昔の道具もなくなりつつあり、PTAでは収穫祭に向けて各家庭に声をかけて集めてきましたが、年々集まりは厳しい状況です。
 伝統行事を維持するためにはやはり備品もそろえる必要があり、経費に頭を悩める中での支援には本当に感謝しきりです。前回は『きぼうのきずなひとつ』」の皆さんからのご厚意もあり、2年続けて釜類をそろえることができました。今年も真新しい釜が秋に登場します。それまでは学校の備品庫で一休み。消耗品ではありませんので、末永く活用していきます。
 夏が終われば収穫祭の準備です。あっその前に今月末は東松島市PTAバレーボール大会です。母校は男子が昨年優勝、女子は3位の記録。さて今年は?
 
 

149. おかえり仙石線                       H27.6.1

 グレーの車体にブルーのライン。仙石線だ。懐かしさと同時にこみあげてくるものがある。沿線で電車に向けて手を振るたくさんの人の姿があった。
 仙石線は石巻市と政令指定都市の仙台市を結ぶJR東日本の鉄道。所要時間は約1時間。両市は通勤圏内であり、毎日たくさんの人が利用する。私は震災前、無人駅の東名(とうな)―手樽(てたる)駅間が好きだった。線路が海に面しており、車窓から外をみると海の上を電車が走っている感覚になる。松島の風光明媚な景色が広がり、始発列車に乗っているとここから朝日が望めることもある。
 しかし、状況は一変。平成23年3月11日に起きた東日本大震災で沿岸部にあった線路や駅舎は被災。付近を通過していた4両車両も流された。それから4年。線路を内陸側に500メートル移設し、駅舎も新設した。そして松島海岸にほど近い高城町駅から東北本線と呼ばれる内陸の線路に乗り換える仙石東北ラインも新たに開業。仙石線は海側、仙石東北ラインは内陸側を通り、ゴールの仙台駅は一緒だが、仙石東北ラインは石巻―仙台間を最短52分で結ぶ。石巻市にとっては長年の悲願だった「1時間以内」がついに達成した。
 5月30日は歴史的な1日となった。1日駅長の高校生らが電車を見送り、ホームでは市民が手旗を振った。仙石線は段階的に部分開通し、最後は一部区間が代行バスでの運行となっていた。この代行バスもついに役目を終え、仙石線は乗り換えなしの一本でつながるようになった。
 電車が一本でつながることは当たり前かもしれない。でも日常が奪われた被災地にとっては当たり前のことが、当たり前ではなくなっていた。沿線の幼稚園では園児と保護者も手を振って歓迎。保護者は「昔は使っていたけど、震災後は電車とバスを使って約1時間半かかるでしょう。ちょっと使いにくいので仙台には車で行っていました。でも今度は子どもと一緒に仙石線に乗りたいです」と話していた。
 大きな夢を抱えてホームに立ち、そして旅立った人、夢をかなえて古里に凱旋した人、夢が破れて古里の地を再び踏んだ人。仙石線はどんな人も乗せ、目的地へと運んできた。線路が一本になったことは復興に向かう道がまっすぐに伸びた感じだ。これをたどり、そしてトンネルを抜ければ、そこには何が広がっているのだろうか。

 
 

148. 運動会と田んぼの学校                    H27.5.26

 私の母校、東松島市立赤井小学校の運動会が5月23日(土)に開かれた。1週間前から週間予報とにらめっこが続く。1週間早く開催した学校は土曜日が雨で流れ、日曜日に延期した。運動会の先送りは批判にさらされる。それもそのはず。お母さん方はお弁当の食材を買い込み、あれこれとメニューを考える。延期となれば、また食材の買い出しから始まる。経費も単純に2倍。これは避けたいだろう。
 運動会を実施するか、否かは学校長とPTA会長の判断。母校の運動会当日は抜けるような青空が広がり、雨は絶対に降らない自信があった。早朝五時半に学校に向かう。もう場所取りに来ていた人もいた。学校長と顔を合わせるなり、「晴れてよかったね」で通じ合えた。そして午前6時15分に花火が打ち上げられ、運動会の実施が決まった。そういえば、最近のニュースで運動会の花火を取りやめるところもあるという。「音がうるさい」と地域から苦情があり、保護者へのメール配信の方が確実との声もあるためだ。幸い私の地域では音に対する苦情はない。
 午前8時を過ぎると保護者や地域の人たちが続々集まり、9時に開会。全校児童170人弱の小さな学校だが、この日のために全員が一生懸命練習してきた。私からのあいさつでは「最後まであきらめず、力を出し切れば順位よりもうれしい『満足感』が得られます。運動会は個人種目もあれば、団体種目もあります。チームの心を一つにして頑張って下さい」と呼びかけた。
 徒競走やリレー、騎馬戦などの種目が続く。転んでも最後まで走り通す姿があり、誰一人、諦めることはなかった。応援合戦の審査も今年から取り入れたが、どれも甲乙つけがたく、大いに頭を悩ませた。運動会は大盛況に終わり、後片付けもスムーズ。PTA、地域の協力が「強力」であることを身をもって感じた。
 翌週には田んぼの学校があり、5年生がはだしで田んぼに入り、泥の感触を確かめながらもち米の苗を手植えした。今は機械で植えているが、昔は手植え。子どもたちはコメ作りの大変さを肌で感じ、食の大切さを学んでいた。稲は夏に向けてすくすく育ち、秋には黄金色の稲穂が頭(こうべ)を垂れる。
 PTAは夏が終われば収穫祭に向けて備品の貸し出しを地域の人たちにお願いする。震災で昔のものがなくなっており、借りられる数も減る一方。でも、今年も『きぼうのきずなひとつ。』を介してアースハーモニーから3・11支援の義援金を頂き、備品の釜などをそろえることができた。6月にはすべての備品が届く。感謝しつつ、今から楽しみだ。 
 

147. にぎわう海の玄関口                     H27.5.16

 石巻市の海の玄関口と言えば石巻港。大型船が着岸できる広い岸壁であり、震災後は大型客船の誘致も盛ん。石巻市、東松島市、女川町、松島町の隣接する2市2町で石巻港大型客船誘致協議会を設立し、ポートセールスに力を入れている。
 陸路は東北自動車道、三陸自動車道を経由。JRは東北新幹線、JR仙石線(5月30日全線復旧)を使わなければならず、地理的に太平洋側である石巻市は、首都圏からの交通の便があまりよくない。その分、海に面しているからこそ、海上ルートは利用価値が高いといえそうだ。
 5月10日にはイタリアの大型客船「コスタビクトリア」が初寄港する予定だった。でもそれはかなわなかった。近くに見えたが接岸できない。なぜならこの日は強風が吹き荒れ、陸上でも平均で10メートルの風が吹き付ける。岸壁にはその巨体を一目見ようと多くの人が集まり、イベントも催されたが、コスタビクトリアはついに接岸できず、次の寄港地である函館港に船首を向け、イベントも午前中で打ち切られた。
 それからわずか3日後の14日、今度は日本の大型客船「にっぽん丸」が入港した。今度は風もなく、穏やか。船は城南信用金庫(東京)のチャーター船。約350人が降り立ち、岸壁では2市2町の特産品が販売されたほか、靴下を素材に仮設住宅団地で製作されている「おのくん」なども並び、人垣ができた。また、各市町の観光キャラクターも登場。乗船客に愛きょうを振りまいたほか、市内の小学生は演奏を披露した。
 にっぽん丸は震災後、ほぼ毎年のように入港している。理由は石巻地方の「もてなしの心」。着岸すれば市民総ぐるみで歓迎イベントを催す。乗船客も「ここまで歓迎されているのか」と目を疑うほど。こうした心意気が入港の定着につながっているようだ。そこには今の石巻地方を知ってほしいという内情がある。新聞、テレビで被災地の今をとらえる場面は少なくなってきた。
 毎年3月11日前後は特番が組まれるが、それを越せば1年間は何もない。でも現地では何もないわけがない。そこには人が住み、何もなくなった更地に目を向けながら毎日を必死に生きている。そんな生の姿を見てほしいという思いがある。
 海の玄関口、石巻港。ここを通った観光客はもてなしに感動し、その後の地域ツアーで「今」を知る。皆さんが地元に戻り、被災地の様子を語り継いでもらうことが何よりの願いだ。
 

 

146. 愛称はイーリス立町                     H27.5.9

 平日の休みも組み合わせれば最大16連休になる今年の黄金週間も5月9日となればもう終盤。皆さんはどんな休みを過ごされたのだろうか。たっぷり休んで月曜からは会社に行きたくないというサラリーマンはいないだろうか。明日夜のサザエさんを見ながら頭を抱え、ため息をつく人の姿も何となく想像できる。楽しみがあるから、人間は頑張れる。次は秋のシルバーウイークを待ち望んではどうか。あっ、その前に夏休みも来ますね。
 話は逸れたが、石巻市も黄金週間中は車通りが極端に少ないことが分かった。当然、市外に出かけている人もおり、市内に見学に訪れた人もいる。でも平日より明らかに交通量は少ない。なぜか。察するに大型車両の通行量が圧倒的に少ないからだ。復興事業が進む石巻市では3台に1台、場所によっては2台に1台は大型車。黄金週間では復興現場に携わる人もしばしの休みであり、里帰りした人も多いはず。だから大型車の割合がぐっと減った。それが交通量の少なさにつながったのではないかと推測する。
 石巻市中心部を走る国道(398号線)は、人間に例えれば背骨に値するほど重要な路線。それが石巻市のメーンストリートでもある「立町大通り」だ。以前はアーケードがかかり、子どものころはちょっと都会を歩く感じだった。その後、郊外に人が奪われ、震災ではアーケードの損壊や傾斜がいたるところで見られ、地元の振興組合が解体を決めた。40年以上の歴史があり、既存のものを解体するとなれば賛否が巻き起こる。紆余曲折もあったが、工事は昨年11月から着工し、今年2月末で完成。5月9日には新しいニックネーム「イーリス立町」として再スタートを果たした。イーリスとは虹を意味し、希望にかかる橋をイメージ。公募で決まり、名付け親は日本三景の松島町に住む主婦。
 アーケードが取り壊された後は66本の街路灯が設置され、このうち54本には「サイボーグ009」や「ロボコン」「仮面ライダー」などの原作者で、石巻市にゆかりのある故石ノ森章太郎さんの漫画キャラクターを描いたフラッグをつりさげた。あれだけアーケードのある風景に馴染んでいただけに最初は抵抗感もあったが、今は慣れた。むしろ開放的なイメージがよく、街路灯に照らされた夜間は幻想的。新たな歴史がまた一つ始まった瞬間だった。
 

 

145. さよなら松島水族館                     H27.5.1

 きょうはちょっと石巻市から離れたお話。石巻市から車で30分程度で日本三景の松島を望むことができる。私の住む東松島市(石巻市の隣)にも奥松島と呼ばれる地域があり、風光明媚な島々が点在している。よく「松島に近いんですね。いいところに住んでますよね。うらやましい」と言われるが、皆さんも経験があるように近いとあまり行かないものだ。
 そんな松島で一つの歴史が閉じようとしている。開館は1927年(昭和2年)。日本で2番目に古い水族館であり、同じ場所に立地する民営水族館としては国内最古。遠足と言えば必ず松島水族館。県民であればほとんどの人が一度は足を踏み入れた場所ではないだろうか。
 でも老朽化には勝てず、松島水族館はこの5月10日で閉館する。今度は仙台港の背後地に整備される「仙台うみの杜水族館」として7月1日に開業する。魚たちの移送はこれからだ。
 でも、なくなるとなるとやはり寂しいもの。松島水族館と言えば個人的に入り口付近がとてもお気に入りだ。ジャングルに迷い込んだかのようなトンネル状の入り口。そこを抜けると草木が生い茂る水槽が現れる。中にはピラニアなどアマゾン川に生息する魚たちが牙をむく。手を入れたらどうなるのだろう。子どもながらに恐怖心を覚え、身震いしながら歩みを進める。そんな思い出がよみがえる。
 マンボウやラッコなどその時その時のスターもいた。水槽の前にはいつも人垣ができ、ラッコは見るのに一苦労。だから人の後頭部がいっぱい並んでいた印象はあるが、ラッコそのものの姿はあまり覚えていない。イルカはとても人懐っこく、水槽の前で手を振るとこちらによって来て鼻を突きだすようにアピールする。自分のところにきてその場を動かないときは、なんか独占した気分を味わえる。思い出は尽きない。
 水族館の前は芝生になっており、遠足ではそこにシートを広げて友達と弁当を食べた。車で30分程度だが、リゾート地に来た感じ。松島は県民の憩いの地なのだろう。それは今も変わらない。震災では島々が壁となって津波の侵入を防いだ。だから松島海岸周辺の被害は比較的少なかった。もし大打撃を受けていたら県内の観光バランスは大きく変化しただろう。
 震災後、あまり海を見る機会は設けていないが、なぜか松島の海は穏やかにみえる。やっぱり心の癒やしは必要だ。松島水族館がなくなっても松島はずっとここにある。
 

144. JR仙石線「復活」へ                    H27.4.21

 東日本大震災で被災した仙台市と石巻市を結ぶ在来線のJR仙石線。いまだ一部区間が不通となっており、仙台から石巻に来るときは仙石線で途中まで来て松島駅からはJR代行バスに乗り換える。トコトコ路面を走りながら東松島市の矢本駅まできて、そこからまた仙石線に乗り、石巻駅に向かう。ざっと1時間20分ぐらいだろうか。震災前より20分近く伸びている。
 仙石線は海際に線路を設けていたため、被災で線路が流された。電車も押し流されたが、幸い、亡くなった人はいなかった。今回は内陸部の高台に線路を移設したため、津波の心配もなくなった。個人的には海と並行になって走る区間が大好きだった。何となく海の中を電車が通っている感覚。朝日や夕日で海面がキラキラ輝き、風光明媚な松島に近いこともあってロケーションは最高だった。でも今度は内陸。海はほとんど見えないかもしれない。残念だが、命には代えられない。
 仙石線が全線復旧するのは5月30日。あと1か月ちょっとだ。震災後はディーゼル列車が走っていたが、最近は試運転が行われており、震災前と同じ、シルバーの車体にブルーのラインが入った列車が戻ってきた。石巻市民にとってはまさに復興のシンボル。「仙石線が帰ってきた」との声も上がるほど。
 石巻駅前では線路脇で大規模な工事が進む。津波で被災し、移転新築する石巻市立病院だ。開院は来年の夏となっており、現在は鉄骨を組む作業が行われている。付近は交差点改良で慢性的な渋滞が起きており、これに病院ができれば果たしてどうなるのやらとの思いもある。でも高齢化が進む中で病院の需要は高い。震災で命の重さを知った市民が多いだけに病院は砦。早期完成が待ち望まれている。
 その脇を試運転中の仙石線が通る。列車と病院。特に関連性はないが、どちらも復興に向けて一歩一歩前進している。仙台から仙石線に乗り、ゴトゴト揺られながら約1時間。「次は終点石巻〜。石巻〜」のアナウンスが間もなく聞かれる。その脇では病院が徐々に姿を見せていくだろう。
 

143. 世代間交流の拠点完成                    H27.4.13

 この石巻日記でも何度か触れているが、石巻市は旧北上川を挟んで内陸部の西部、沿岸部の東部に分けられる。西部は大型店がそろい、人口は増える一方だが、東部は伸び悩む。西高東低とも言えるのか。地域の均衡バランスを図るには東部を盛り上げていかなければならない。
 そんな東部地区に明るい話題が降り注いだ。石巻市総合福祉会館「みなと荘」と幼稚園、保育所を一体化した市立「湊こども園」の複合施設の完成。実は東日本大震災がなければ平成23年4月にはオープンする予定だった。開園間近に津波が襲い、ここは建物の1階天井まで浸水。園庭にあった遊具は流された。幼稚園と保育所は他の場所を間借りしてそれぞれ運営し、みなと荘は当面、避難所となったあと、震災から1年後にようやく再開した。
 計画は中断されていたが、35年の歴史があるみなと荘は地域住民が集まるランドマークであり、幼保一元施設との複合型で早期再建を望む声が高まっていた。それから4年。場所を以前より少し移して真新しい施設が出来上がった。
 鉄筋コンクリート3階建て。延床面積は約2900平方メートル。総事業費は10億9千万円で国の交付金と市の持ち出し(約4億円)で建てた。1階はこども園、2階は放課後児童クラブや高齢者・ボランティアの交流室、子育て支援室、図書室など。3階はみなと荘の機能を移し、陶芸や創作ができる場となった。もちろん、震災の教訓を踏まえて備蓄庫や太陽光発電システムも完備。いざとなれば地域住民を受け入れる避難所にもなる施設だ。

 落成式では園児がお遊戯を披露したほか、消防音楽隊が華やかなファンファーレを奏でた。みなと荘を長年活用している女性は「震災後に遠く離れている人に『みなと荘が立派になってオープンしたよ。だから戻っておいで。もう安心だから』と言いたい。ここは川も海も近いところだから皆怖がるけど、それに耐える施設ができれば少しは安心。人がこの地域に戻ってくれれば、なおさらうれしいね」と話していた。
 失った命は戻すことはできないが、失いそうな人口は暮らしの安心安全と住みやすさを上げることで歯止めをかけることができる。今は歯止めが効かない状況。時間はない。復興に足止めは許されない。
  

 
  
 

142. つくし野からの訪問                     H27.4.7

 出会いとは不思議なものだ。昨年3月に東京都町田市つくし野で「3・11被災地は今」と題して講演した後、1人の女性から声をかけられ、講演の補足で一言、二言話をした。それから数カ月が経ち、この女性が昔お世話になった方が石巻市にいることが分かり、市役所などに訪ねて探してみたが、私の力ではどうにもならず。それから数日が過ぎ、女性からすでに亡くなられていたことが分かったと報告を受けた。残念だったが、女性は所在が判明したことで満足した様子だった。
 この女性はつくし野に住む津村さんで「犬と人と花を繋ぐライフスタイル」をプロデュースしており、たくさんの花に囲まれながらお仕事をしている。花は癒やしであり、被災地でも花の力に助けられた人は数多い。津村さんから連絡があったのは今年3月末ごろ。仙台市に住む友人を頼って東京から女性2人で宮城県を訪れ、その足で津村さんが会いたがっていた方のお墓参りに行くという行程。石巻市ははじめてであり、被災地に感心を寄せているため、4月5日に訪れた3人を私が案内した。
 聞けば3人はつくし野の同級生。明るく元気な女性3人を車に乗せ、被害が大きい南浜地区、石巻市が今年3月に開設したばかりの情報交流館、その近くにあり、石巻日日新聞社が運営する震災資料館「石巻ニューゼ」を訪問。最後は多くの児童と教職員が亡くなった大川小学校の被災校舎を訪れ、慰霊碑に手を合わせた。
 都内の報道だけでは伝わらない被災地の今を知り、しとしとと降り続く雨が悲しみの涙に思えた。被災地を忘れない、忘れさせないため、私たちにできるのは事実を伝え続けていくこと。そして、また次に石巻市を訪れたときは、以前よりも少し復興した姿を見せてあげることだ。津村さんから「また石巻市に来ます」と言われたことが一番うれしかった。
 東日本大震災で被災し、仙台市と石巻市を結ぶJR仙石線が全線開通するまであと2か月。そうすれば、もう少し石巻への利便性は高まる。「現場100回」という言葉がある。防災意識も同じ。繰り返し足を運ぶことで有事への備えが身につき、いざという時に本領が発揮できる。悲劇を繰り返さないためにも伝え続けていく。だからどんどん石巻を訪れてほしい。
 

 
  
 

141. 津波避難タワーが完成                 H27.3.31

 被災した住宅街にそびえ立つ銀色の鉄骨造りの塔。これこそが石巻市では初めてとなる津波避難タワーだ。
 東日本大震災では低平地にいた人が被害を受け、逃げ遅れた人も多くいた。付近に強固なビルがない地でいかに人の命を守れるか。その疑問から生まれたのが津波避難タワーと言える。
 安く作ろうと思えば強固な鉄骨を組めばよい。だが、石巻市は震災の教訓を生かした。災害は天候に恵まれた日に起こるとは限らない。風雨や気温によっても人の体力は奪われる。そのため、居室構造とし、室内で救助を待つことができるタイプにした。
 タワーが整備された石巻市大宮町は、津波で約4メートル浸水した。このため、タワーの塔脚は9メートルとし、2倍以上を確保。その上に広さ約120平方メートルの居室を設けた。地上からは階段を駆け上がる仕組み。収容人数は屋上を含めて約200人。居室には収納型ベンチが置かれ、中には食糧や飲料水、防寒着などを入れる。
 あくまで緊急時に活用するものであり、普段から活用するものではないが、地域では避難訓練などに活用するほか、石巻市では学校防災にも使っていく。でも使わないにこしたことはない。できれば、この先、居室部分で市民が救助を待つようなことにならないのを願う。
 さて、完成式が開かれたので早速、居室内を見学し、屋上に上がってみた。まずは階段。段数は多いが、段差は緩やか。残念なことに車いすでは昇れない。市役所職員は「簡易担架を置きます」と言っていたが、周囲には見当たらなかった。そして階段を上るとドアが見えた。居室内はガランとした広さ。無駄にスペースを取らないように工夫され、パーテーションで最大部屋が3分割できる。
 トイレ用に使う個室もあり、震災の教訓が生かされているようだ。今度は屋上。ここではヘリコプターでの救助を待つことができ、見分けがつきやすいように赤色回転灯もある。地上13メートルの高さであり、眺めはいい。でも津波の爪痕がはっきりと分かり、更地も目立つ。
 この地域は震災後の人口減少が著しい。ある行政区長が言った。「この地を離れた人がもう一度戻ってきたくなるような施策が必要。津波避難タワーがその一翼になってほしい」。同感だ。津波避難タワーは現在7基が計画されており、第2、3号は今秋に完成する。
 

 
  
 

140. 福知山市で防災講演                  H27.3.24

 伊丹空港から高速バスで約1時間。歴史かおる京都の街並みが見えてくる。目指す福知山市はそこから特急で約1時間20分。車窓からは山地や古民家、渓流などが望め、ずっと見ていても飽きない。日本三景の天橋立が近く観光客の姿も目立つ。
 トンネルを抜けると住宅街が続き、電車の速度が落ちてきた。明智光秀が築城した福知山城の近くに福知山駅がある。市民交流プラザふくちやまは駅を出て徒歩1分もかからない程度。近代的な施設は明るく開放感にあふれ、図書館などが入る複合施設だけに親子連れの姿もあった。
 防災講演会の講師に招かれ、オファーがあったときからテーマを考えたが、4年前の震災直後のことだけに終始してしまえば、被災地の「今」は伝わらない。そこで「1000年先まで震災教訓〜石巻の記者が語る被災地の今〜」と題し、4年目の課題を記者の視点で浮き彫りにした。
 前半は津波襲来の映像から始まり、震災1年目までをダイジェストで紹介。とくに避難所ではプライバシーが守られなかったことにも触れ、同じような災害に備えて今できることを伝えた。後半は災害ボランティアの活動や地域コミュニティの再生に重点を置いた。建物などのハードは行政が主体となるので、いずれは完成する。しかし、人の心はどうか。いずれというわけにもいかない。復興を成し遂げるにはハードとソフトが両輪となって進まなければ片手落ちになることを強調した。
 被災地では仮設住宅から復興公営住宅に移る人が増え始め、宅地に家を建てるなど生活再建も動き出している。ただし、足並みは違う。「おいていかれる」感じは誰しもが嫌がる。でもこれが現実だ。せっかく震災を乗り越えてきた命。犠牲となった方々を弔うためにも私たちは生き続けて災害に強いまちづくりを進めていかなければならない。おいていかれる感じがあってもおいていってはいけないのだ。
 講演は質疑を含めて約2時間。参加されたのは町内会長や行政区長、民生委員児童委員、市民、社会福祉協議会などの関係者。演台から話をしながら参加して下さった一人一人の顔を拝見した。皆さん、真剣なまなざしを向け、話を聴く姿が素晴らしかった。福知山市も台風など自然災害で被害を受けており、どうしたら地域と人々を守れるかを考えている。その主軸となる人たちが集まってくれた。何か一つでも私の話の中から得てもらえれば幸いと感じた。
 主催したのは福知山市社会福祉協議会、福知山市災害ボランティアセンター。職員総出での準備に頭が下がる。聞けば年に1回はこうした防災講演会を開いているという。社会福祉協議会の松田規会長は「我々のまちも災害は多い。だから対岸の火事ではないのですよ。一人一人がしっかり考えていかないと」と話していたのが耳に残る。防災意識の高さが伺えた。今度はゆっくり福知山市を観光したい。ここは温かい人であふれているまちだ。
 
  
 

139. 両陛下が石巻市入り                  H27.3.17

 等間隔に警察官が立ち、厳戒態勢を築いた。市民は国旗の小旗を手に沿道に立つ。さっきまで往来していた車列が徐々に減り出し、慢性的な渋滞が見られる石巻市役所前の国道から車が消えた。数分後、白バイやパトカーが数台通過する。固唾を飲む市民。もちろん、封鎖された国道には人の姿しかない。
 「ワー」と向こうから声が聞こえた。その方向から黒い車がゆっくりと近づく。そして私たちの前も通り過ぎた。車窓を開けて手を振る天皇皇后両陛下。石巻市を訪れるのは慶長使節船「サン・ファン・バウティスタ号」が進水式を迎えた平成4年以来、22年ぶり。最前列にいた女性は「皇后さまと目があったような気がします。一目見れて良かった。明日も追っかけしますよ」とアピール。石巻市は歓迎ムードに包まれた。
 両陛下は3月14日から18日まで仙台市で開かれた第3回国連防災世界会議の開会式でお言葉を述べられた後、東日本大震災で最大の被災地となった石巻市を訪れた。石巻市での宿泊も初めてとあり、石巻グランドホテルは一棟貸し切り。翌日は津波で工場が被災したが、早期に営業再開を果たした石巻市を代表する老舗かまぼこ店、白謙蒲鉾店門脇工場を視察された。ここでも沿道は人垣ができていた。
 そういえば、どの新聞、ラジオ、テレビでも具体的に訪れる時間までは報じていなかった。なぜ、皆さんは情報をつかんだのか?両陛下が訪れる午前10時20分ごろには400人を超す人々が集まった。どうやら口コミの力らしい。今はフェイスブックやラインなど情報ツールを使ってたくさんの人に一斉に伝えることができる。
 私たち報道は、門脇工場の正面に撮影ゾーンが設けられ、両陛下が車を降りられて工場に入るまでの約40秒が撮影時間。カメラを調整し、2時間ほど前から待ち続け、到着された瞬間からカメラのシャッターを押し続けた。両陛下が並んで歩き、工場の関係者にあいさつする写真が撮れた。撮影時間が短ければ緊張感が高まるが、逆に私はその状況下が好きだ。失敗は許されないと自分を追い込み、プレッシャーをはねのけた瞬間が実にたまらない。
 そして両陛下に手を振られた市民の表情も良かった。晴れ晴れと満足感があり、高齢の女性は「もう二度と目にすることはないと思っていただけに、うれしい限り。震災では辛いことばかりだったが、生きていることを実感できた日だった」と話していた。もう一つ、目を引いたのが、沿道の市民に目を向ける警察官。寒い中、長時間待つ市民の思いをくみ、DJポリス並みに軽妙なトークで和ませていた。それもあってトラブルもなかった。行幸フィーバーに沸いたこの日、石巻市の歴史にまた新たな1ページが刻まれた。
 
  
 

138. あの日から4年                    H27.3.11

 朝から雪が交じり、気温も低い。直感的に思い出す。あの時の寒さだ。誰しもが感じていた。「同じだな。全く同じだ。なんか…不安だよな…」。取材先でこんな言葉を耳にする。空には春というよりも冬を想像させるような灰色の雲が浮かんでいた。東日本大震災から丸4年。
 この日の朝は「鎮魂の鐘」を取材に寺院に向かった。ここも津波で被災し、周囲に家はない。がれきの中から見つかった寺の半鐘を吊り下げ、毎年、木づちで亡くなった約18000人(全県)の数だけ鳴らす。「カーン、カーン」と乾いた音が響く。私も木づちを手に鐘を打った。
 「4年経って今の気持ちはどうですか?」。記者である以上、こうやって話を切り出し、聞きにくいことも聞かなければならないときもある。「まだ4年、まだ4年しか経っていないの。でも七回忌には少し、落ち着けるようになりたい」。そこにいた女性はうつむきながら語った。時は動いていない。あの日のままだ。
 午後には石巻市の追悼式があった。約1000人の遺族らが参列し、献花で犠牲者の冥福を祈った。1年目は悲しみに打ちひしがれ、顔を上げることもできなかった。2年目、3年目は涙を抑える人もいた。そして4年目は静かに故人に手を合わす姿があった。死を受け入れられたのか、いや、すべてがそうではない。
 車いすに乗った子どもを押し、花を祭壇に手向ける父親。幼子の手を引いて合掌する母親。独りの男性の姿もあり、そこから何となく推測はできた。どんなに辛いときを過ごしてきたのだろうか。祭壇に向けて軽く微笑む遺族の表情は何を物語っているのか。被災地の今がここにあった。
 追悼式の中で言葉を述べた遺族代表は妻と小学生になる2人の孫を亡くした。「この震災は永遠に消えることのない傷跡として心に残るが、悲しみだけでは寂し過ぎる。これからの人生に何らかの明るい希望を見出せることが必ずあるはずだ」。
 復興加速と言われるが、ハードはそうであってほしい。でも心は無理に加速できない。一人一人違うのは当然だ。でも置き去りにだけはしてはならない。
 
  
 

137. ちえりとチェリー                    H27.3.8

 命の輝きと向き合い、未来に旅立とうとする少女の心の成長を描いた長編人形アニメ「ちえりとチェリー」。メガホンを取ったのはあのロシアアニメ「チェブラーシカ」を手掛けた中村誠監督だ。「ちえりとチェリー」は、今年4月にベトナム戦争終結40周年記念事業の一環でベトナムハロン市で上映され、その後、夏過ぎから日本国内約500カ所の劇場を巡る。
 全世界に先駆けて先行上映に選ばれたのが石巻市だった。3月8日に石巻市遊楽館ホールでスクリーンに映し出され、多くの親子連れが人形アニメの世界に浸った。昔の「ひょっこりひょうたん島」のような動きではなく、人形とは思えないほどの滑らかさが特徴。それもそのはず、1秒間に約24コマを撮影し、それをつなげていく。すなわち少しずつ人形を動かしながらそれを写す作業だ。制作期間は約5年間。国内でも珍しい作品という。
 本編(50分)は完成したが、エンディングはこれから。幼き頃に父を失ったちえりは、うさぎのような人形をいつも手にしており、強く信じればその人形に命が吹き込まれ、チェリーとしてちえりを支えてくれる。ある日、父の法事で祖父の家にやってきたちえり。さまざまな生き物たちの気配に満ちた古い屋敷のなかで不思議な冒険が始まる…。
 震災とは直接的な関連はないが、命の重さ、大切さを訴える意味から石巻を出発点に選んだ。中村監督は「私は震災を経験していないので、皆さんに頑張ってとは言えない。もちろん、こうしてほしい、こうなってほしいという言葉もかけられない。でも私も母親を亡くし、命の重さを知った。この映画を作る原点でもあり、劇中から何かメッセージを感じ取ってもらえれば十分」と話していた。

 笑いあり、涙あり、感動ありの「ちえりとチェリー」。ホールを後にする子どもたちの表情は実に晴れ晴れとしていた。また、この日は中村監督直伝のアニメ制作体験もあり、10人の子どもたちが粘土でキャラクターを作り、ストーリーも考えてコマ撮りを行う。それを午後の上映会の最後に写すというリアルタイムのワークショップが繰り広げられた。想像力をかき立てながら粘土をこねて造形していく。子ども同士のコミュニケーションが思わぬアイデアを生むそうだ。こうして建設的に話し合うことが復興を進める第一歩になる。中村監督はワークショップを通じてコミュニケーションの大切さを訴えていたのかもしれない。
 長編人形アニメ「ちえりとチェリー」は夏以降、上映されます。ぜひ、その目でラストシーンを確認して下さい。
  
 

136. 女川町「まちびらき」へ                H27.2.28

 石巻市の隣町である女川町。震災前の人口は約1万人だが、今は7000人の町。湾になっている地域であり、東日本大震災ではこの湾内に津波が入り、高いところでは20メートル近い津波が襲った。海に面していた中心部は壊滅被害を受け、役場も機能を失った。それから4年。女川町は3月21日に「まちびらき」を行うことを宣言した。
 復興土地区画整理事業が進められており、駅前広場から海へとつながるプロムナードをシンボル空間として整備する。商業エリアや地域交流センター、テナント型商店街なども入り、震災前は人気施設だった温泉温浴施設「女川温泉ゆぽっぽ」も復活する。まちびらきは、震災で一部区間が不通となっていたJR石巻線が全線再開する日。ついに4年を経て石巻線が終着駅である女川町に入る。羽を広げたような駅舎も完成し、付近では電車の試運転も行われている。
 女川温泉は思い入れが深い施設の一つ。私が女川町を担当していたころ(10年ぐらい前?)に完成した施設。駅舎に隣接した建物の二階が温泉施設であり、町民がゆったりと一日の疲れを癒やしているほか、使わなくなった電車の中は改良されてカラオケとスクリーンが置かれ、浴衣姿のおばさまたちがマイクを握っては離さない。そんな何気ない日常の姿がここにはあった。でも震災による津波で「ゆぽっぽ」は跡形もなく流出した。
 「ゆぽっぽ」の後ろには図書館もあった。確か建物の4階部分だったと思うが、ここまで津波は駆け上がった。女川町の町史を知るのによく利用していた図書館。学校帰りの小学生の姿も多く、もくもくと勉強する子どもたちもいれば、飽きてきて階段でじゃんけんをしながら遊ぶ低学年もいた。そんなほほえましい姿を見るのも楽しみだった。
 女川町には思い入れが強い。「まちびらき」は終わりではなく、ここからがスタート。数年先になるが、必ず全国に誇れる復興の町となるはず。前を向いて立ち上がる女川町の人々を見る限り、そう確信できる。
  
 

135. 地域コミュニティの再生                H27.2.21

 「地域コミュニティの活性化、希薄化」「地域コミュニティが大切だ」。行政資料や新聞、テレビなどでよく聞く言葉だ。じゃあ地域コミュニティって何だ?と聞かれて即答できる人はどれぐらいいるだろう。決して答えは一つではないはず。地域コミュニティに関連する取材をする中でそんな結論にたどり着いた。
 平たく言えば住民の集団。町内会や敬老会、婦人会、子ども会などもこの分類になるだろう。集団が形成されればそこに会話が生まれ、課題を共有したり、解決に向けた話し合いを進めたりする。当たり前と言えば当たり前のこと。被災地ではこのコミュニティ形成が大きな課題となっている。
 なぜか。被災して地域がバラバラになり、仮設住宅では知らない人同士が隣に住むようになった。でも3年も過ぎれば仮設自治会も生まれ、徐々に顔見知りの関係ができあがってきた。ほっとするのもつかの間、ここは安住の地ではなく、あくまで仮設。今年の4月以降は宅地供給を受けて住宅再建や復興公営住宅に住む人が増える。仮設自治会は減ることがあっても増えることはない。やがて消えていく自治会なのだ。
 仮設を出て新しい地域の中で生活する人にとって不安なのは、隣同士の関係はもちろんだが、地域とのつながり。「本当にうまくやっていけるのだろうか」。若い世代よりも年配者、とくに独り暮らしの高齢者にとっては気が気でない。でも不安は新しく住まう人だけでなく、既存地域に住む人にとっても同じ。「まさかさぁ復興住宅に俺たちから出向いて、いきなり『お茶でも飲むべ(飲みましょう)』と誘うわけにもいかないだろう。社協(社会福祉協議会)などで橋渡しをやってほしいなぁ」。こんな会話を耳にする。
 震災後に生まれた石巻市社会福祉協議会の地域福祉コーディネーターはこうした住民の生の声に耳を傾け、人と人とをつなぐ役目を果たす。いわば接着剤のようなイメージだ。全国どこの地域でもコミュニティは時間をかけてじわじわと出来上がってきた。でも被災地は100年かかったまちづくりを10年で済ませようというもの。10倍速で物事が進む。建物は何とかいくが、人の心はそう簡単に10倍速できない。コミュニティ支援にどう取り組んでいくか、間もなく震災から4年を迎える被災地にとって大きな課題がのしかかる。

  
 

134. 「輝く人」よ、もう一度                H27.2.12

 復興支援にもいろいろな形がある。美術品もその一つだろう。石巻市出身の金属造成作家で東京都在住の伊藤嘉英さん(45)が手掛けたモニュメント「輝く人」。ステンレス板で人物をかたどっており、台座を含めた高さは9メートル。人というよりは巨人のほうがぴったりだ。
 元々は神戸ビエンナーレ2013で審査員特別賞に輝いた作品。作者は恒久的なものではなく、展示後はスクラップにするつもりだった。それを石巻高校のOBが中心となるアートプロジェクト石巻が移設を申し出た。この立像は神戸に展示されているときも石巻市の方角を向いており、アートプロジェクトは復興に向かうシンボルとしてモニュメントを通じて市民に勇気を与えようと考えた。
 輝く人は平成25年12月に市街地を流れる旧北上川の中州にある中瀬地区内に設置された。夜にはライトアップされ、迫力ある姿が印象的だった。月日は流れ、震災で地盤沈下した中瀬地区も土地のかさ上げ工事が始まることになり、輝く人も解体することになった。
 伊藤さんは「元々解体予定だったが、1年以上も地元で展示されて満足。声があれば錆びないような恒久的なモニュメントも手掛けたい」と話しており、アートプロジェクトでは廃棄せずに一時保管を決めた。機会があれば再び展示したいという強い思いがあった。もちろん市民からも再展示を望む声は多く、かさ上げ工事が終わった後、行政がどのような判断を下すのかにも注目が集まる。
 これから数年も建てば復興支援で一時的に設置された数々のモニュメントも形を変えていくだろう。また、撤去されるものもあるはず。でもこうした支援があって今の私たちの暮らしがあることを忘れてはならない。人は支え合って生きているのだから。
  
 

133. 深雪の中の凧揚げ大会                  H27.2.2

 正月を代表するコマや羽子板、凧(たこ)揚げなどの昔遊び。首都圏などではイベント会場で見る機会もあると思うが、石巻地方では通年行事として行うものもある。その代表格が凧揚げ。漁業と農業を基幹産業とする石巻地方は、市街地を外れ、内陸部に向かうと広大な農耕地が広がる。凧揚げは場所が肝心であり、狭あいな土地や電線が張り巡らされている地域ではできない。まさに「田舎」を代表する遊びといっても過言ではない。
 石巻市の隣町である東松島市。この中にある赤井地区は農業が盛んな地域。住宅街と農地に分かれており、付近には定川(じょうがわ)が流れる。東日本大震災では、この川を津波が遡上し、地域一帯は浸水被害を受け、住民の命も奪った。水田も塩害を受けたが、除塩作業を繰り返し、今年も稲穂をつけるなど復旧、復興は進んでいる。
 オール赤井凧揚げ大会が行われたのが2月1日の日曜日。毎年、大雪、強風、無風などの天気であり、ベストコンディションの日はそうそうない。そんな大会も28回目。今年は先月末に降った大雪がそのまま田んぼに残り、追い打ちをかけるように強風が吹き荒れた。
 でも元気な子どもたちにとってはそんなのお構いなし。躊躇することなく長靴姿で雪で真っ白になった田んぼに入り、自作した凧を揚げた。凧は仙台に昔から伝わるスルメイカの形をした「するめ天旗(てんばた)」や簡素だがよく揚るビニール凧、中には日本古来の角凧、連凧、立体凧があり、色も鮮やか。強風にあおられ、糸が切れてはるか遠くに飛んでいく凧が続出したが、子どもたちは歓喜を上げながら冬の伝統行事を楽しんでいた。
 中学生は毎年、漢字一文字で今年の思いを表した連凧を上げており、118人の中学2年生の思いをつなげた連凧も上がった。「夢」「愛」などの言葉もあれば、「生」(生きる)「前」(前に進む)など震災から立ち上がり、自分たちが何をすべきかを漢字で表した生徒も多い。14歳の女子生徒は「連凧が揚って感動。皆の願いや思いが届く1年になるといいですね」と話していたのが印象的だった。
 
 

132. 命の橋「内海橋」                   H27.1.21

 石巻市は川に囲まれた街だ。市街地の中心部を流れるのが一級河川の旧北上川。河口部には全国的にも珍しい中州(島)があり、石巻市ではこの島を中瀬と呼ぶ。仮面ライダーやサイボーグ009で有名な石ノ森章太郎氏の作品を集めたミュージアム「石ノ森萬画館」がある場所と言えば、県外の人も「あ〜あの場所か」と思うのではないか。
 中瀬は島を中心に二本の橋で両岸を結んでおり、この橋を内海橋と言う。震災前は内海橋と中瀬がつながるちょうど中央付近に「岡田劇場」という映画館があった。日本の喜劇俳優だった由利徹さんは石巻市出身であり、はるか昔のことだが、由利さんが石巻を訪れたとき、岡田劇場をみて「ここは思い出が詰まったところなんだよ」と感慨深く話している姿を取材したことがある。それだけ、中瀬は石巻にとって文化発祥の地でもあったところだ。
 しかし、平成23年の東日本大震災で津波が川を遡上。宇宙船のような形をした萬画館は耐え抜いたが、岡田劇場は流出した。内海橋には家や車が乗り、無数のがれきに埋もれた。橋げたもみえなかったため、震災直後は「内海橋が陥落した」という情報も寄せられたほど。もし、本当にこの橋が落ちていたらせき止められていたがれきが市街地に入り込み、もっと大きな被害を生んだだろう。ただし、残念なことにこの橋を渡っている最中に車ごと流された人も多い。知人はまだ見つからない。悲劇の場所でもある。
 この内海橋は震災直前に歩道が整備されたが、震災で被害を受けており、宮城県は架け替えを決めた。完成は平成29年ごろ。幾分、上流部に設ける予定であり、橋げたの建設が始まった。架け替え後に今の内海橋を取り外す。中瀬へのアクセスは市が新西内海橋と新東内海橋を整備するが、東内海橋は歩行者や自転車が通る人道橋となる。県が整備し、旧北上川を1本でつなぐ新内海橋、市の新西内海橋、新東内海橋がすべて完成するのは30年度という。
 陸と陸を結ぶ橋は復興のステータスでもあり、市民は早期完成を望む。その一方でこの地で大きな犠牲を生んだことも忘れてはいない。万が一のときは安全に逃げられる道と橋。こうしたまちづくりを進める行政をしっかり監視するのが私たちメディアの宿命でもある。

131. 若い力が支える未来                  H27.1.13

 準備万端!不安なことは天気だけだった。何せ2年連続の悪天候。2度あることは3度あると言われ、何とか的中しないのを願うばかりだった。凍てつく寒さに変わりはないが、まずまずの天候の中、1月10日に少年サッカー大会の「第7回石巻日日新聞社杯・第3回明治大学付属明治高校プレミアカップ」が女川町総合運動公園第二多目的運動場で開かれた。
 石巻地方から13チームが参加。初日は予選リーグ。そこでの勝敗で上位、下位に分け、翌12日にそれぞれのトーナメントで最終順位を決めた。明治高校の支援を受けて取り組んでおり、毎年、東京から高校生が訪れ、明治高校サッカー部員は大会審判、公募で集まった生徒はおしるこを作り、選手や仮設住宅の入居者に振る舞い、交流を深めている。徐々にボランティア団体の支援も減る中、こうした継続的な対応には頭が下がる。
 過去2年は大雪や暴風雪となり、選手も支援者もガタガタ震えながらの大会だっただけに、今年こそはという思いは強かった。願いが通じたのだろうか。とくに明治高校の生徒が大会運営に携わった12日は青空が広がり、風もなく、厳冬にしては絶好の日よりとなり、すべてが順調に進んだ。高校生はおしるこを700食作り、選手たちに振る舞ったほか、女川町内の仮設住宅集会所を訪れ、仮設住宅に入居している住民たちと会話を弾ませながら被災地の現状に理解を深めた。
 また、被災前は住家が立ち並んでいたが、津波で壊滅的被害を受けた南浜地区も視察した。何もなくなり、草が生い茂る更地を目にした高校生は震災前の原風景を知らない。現在と当時を比較できる写真を目にしたときは、思わず声が漏れた。高校生は「都内ではあまり東日本大震災の話を聞かなくなった。確かに復興は進んでいると思うが、こうした景色をみればまだまだ支援が必要と思う」と話していた。
 全国紙の報道だけでは伝わらない被災地の現状がここにある。一番は目で確かめること。もう二度と同じような悲劇を起こさないためにも風化を防ぎ、一人ひとりが防災意識を高めることが必要だ。「震災は忘れたころにやってくる」。使い古された言葉だが、もう一度、この言葉の意味を考える必要があるのではないか。
 

130. 吹雪の中で平穏願う                  H27.1.6

 石巻日日新聞は毎年、12月31日の夕方に新年号を配り終えると年内の発行は終了となる。ただし、記者は24時間365日交代制で誰かしらが勤務し、地域の事件事故や各種事案に目を光らす。
 日曜日などは輪番制での対応となり、私は12月31日が当番だった。大晦日だけに日中の行事やイベントはもちろんない。幹線道路も日中は車通りが多いが、夕方近くになると激減する。たぶん、この日は早めに家族で夕食を取り、テレビ番組を見ながら年越しする人が多いのだろうと考える。
 幸いにも石巻地方の大晦日は安泰で事故や事件もなく、あえてカメラを持って出動とはならなかった。でも最後の大仕事は残っていた。毎年、本紙では31日の当番は初詣の取材を行う。すなわち午後11時過ぎに家を出て石巻市内を一望できる日和山の神社に向かい、午前零時とともに神殿に柏手を打つ市民の姿を写しながら、今年の抱負を聞くという取材。仕事が終わるころには午前1時。何気に2日間またいでいるのではないかと思うが、日中動かない分、「暗黙の了解」とでも言えるのだろう。
 しかしこの日は違っていた。日中は何とか天気が持ったが午後7時ごろに突然大きな雷が鳴り、雨が打ち付けた。その後、午後9時ごろから雨が雪に代わり、道路を一気に白く染めた。積雪は5センチぐらいだろうか。それよりも横殴りの風雪が寒さをより演出する。なんでこんな日に…と思ってもここからは仕事。雪が降っているから行きませんでは話にならない。
 スリップを警戒していつもより早く家を出た。大晦日に事故を起こすわけにもいかない。自然とハンドルを握る手に力が入る。そして山のふもとに車を止め、そこからは完全防備の姿でカメラを守りながら山を登った。「もし誰もいなかったらどうしよう」なんて思っていたが、午後11時半過ぎに到着すると既に5−6人はいた。さらに待つこと10分。若者を中心に頭から雪を被った市民が次々と訪れ、気づけば100人を超えていた。
 後方で若者が「10、9、8、7…」とカウントダウンする声が聞こえた。午前零時と同時に神社に続く参道が開き、市民が次々と神殿に向かって賽銭を投げ入れ、手を合わせた。横殴りの雪はやむ様子もない。でも「1年の最初だから」と人々は笑顔をのぞかす。今年1年何を願うか。震災を経験した人たちは誰よりも命の重さを知る。「多くは望みません。ただただ平穏な1年であればそれで十分。もちろん皆が健康でね」。参拝客の話に思わずうなずいた。

129. 暮れゆく年に                      H26.12.30

 平成26年が間もなく終わる。東日本大震災で甚大な被害を受けた石巻市。仮設住宅や民間賃貸住宅を活用したみなし仮設住宅も合わせるとまだ2万人以上が不自由な暮らしの中で年を越す。今年は2月に大雪、9月には豪雨に見舞われ、避けることのできない自然災害は復興の足かせにもなった。
 市内では仮設住宅から次の暮らし、いわゆる本当の意味での生活となる復興公営住宅や宅地建設に向けた造成が始まった。各地で槌音が響いているが、本格的な入居は来年以降。被災した人たちがほぼ全員元通りの生活を取り戻すのは平成30年ごろとみられており、先はまだまだ長い。まして資材高騰などで復興事業は軒並み遅れており、スケジュール通りにいくかは不明。国の集中復興期間も27年度で終えるため、被災地では延長を求めているが、明確な回答はない。
 復興の中には常に不安がつきまとう。「好きでこうなったわけでもないのに進まない復興にイライラする。どこに当たればいいのか」と頭を抱える姿を多く見てきた。やり場のない気持ちがストレスを生む。私たち報道機関は何ができるのか。日々、真剣に考えてきた。全国紙と違い、地元紙ができる復興支援とは何か。たどり着いたのは人々の悲観的な話(震災で家族を失ったなど)を取り上げるより、復興事業がどの程度進み、何が足かせとなっているのかを明確にあぶりだすことだった。
 写真は石巻市の沿岸部で建設が進む津波避難タワー。強固な塔脚が組みあがり、年明けにはこの上に200人程度が収容できる居室部分が設置される。通常のタワーは高いところに上ってそれで助けを待つ形だが、東日本大震災は寒さとの戦いでもあった。だから石巻市では予算はかかるが、風雨をしのぐ居室タイプとした。もちろん屋上からはヘリコプターで救助もできる。簡易トイレや一定の食糧も置く。
 大事なのはタワーができたから安心ではない。あくまで逃げ遅れた人が駆け込むところであり、警報などが発表されたら急いで高台や指定避難所に逃げること以外にない。そして一度逃げたら引き返さないこと。
 建設中の津波避難タワーの西側に太陽が沈む。来年はまた一歩災害に強い石巻市になることを切望する。そして被災地だけの問題ではなく、全国の関心が向くことが大切だ。「震災は忘れたころにやってくる」。風化してしまえば対策は遅れる。いつまでもあの日のことを記憶に残しながら危機管理は持ち続けてほしい。

128. 解体される震災遺構                   H26.12.22

 石巻市の隣町、女川町も東日本大震災では壊滅被害を受けた。町役場に津波が襲い、行政機能が失われ、湾に面していた町の中心部もすべて大津波がのみ込んだ。
 町の中心部には震災遺構が残されているが、このうち津波で横倒しとなった江島(えのしま)共済会館ビルの解体が始まった。来年1月末には完了する見込みだ。ビルは鉄骨4階建て。ここは高さ20メートルの津波が襲来した場所。共済会館を含め、ビル3棟が土台から根こそぎ引き抜かれ、横倒しとなった。津波の破壊力が想像できるだろう。
 被災後は、町内に残る震災遺構として女川を訪れた人が必ずといっていいほど立ち寄る場所となっていた。町も保存を検討したが、維持費がかかるほか、復興事業の関係で周辺は土地をかさ上げしなくてはならず、同じく横倒しとなった「旧女川交番」のみを残して解体することを決めた。
 震災遺構とは被災した施設などを示す言葉。残し方にもいろいろあるが、映像や写真よりは現物のほうがしっかり伝わりやすい。しかし問題は維持経費と住民配慮。国は1市町村1カ所の割合で遺構として残す場合、最初の設備投資分は受け持つとしているが、維持管理費は被災自治体の負担となる。ものにもよるが年間数百万円から大きいものでは数千万円にも及ぶ。大きなものの典型的な例が旧門脇小学校校舎だろう。
 校舎は官民組織の震災伝承検討委員会が「残すべき」とする提言書を市長に提出したが、最終的に残すか、取り壊すかを決めるのは行政。残すにしても全部なのか、部分なのか、はたまた映像など資料なのかによっても異なる。校舎周辺に住んでいる人は「毎日あの姿を見るのは辛い」とし、強く解体を求める。一方、地域外からすれば「壊したら終わり。あれは残すべきだ」と保存を要望。市は板挟みの状況にあり、委員会の提言を受けて今後精査するが、判断は本年度末ごろだろうか。
 被災地ではがれきが処理され、遺構以外の被災建物はほとんど見ることがなくなった。「残すか、壊すか」。後世に震災の記憶を残し、減災を伝えるのであれば多角的な検証が必要。年明けから始まる議論にも注目したい。

127. イルミネーション                    H26.12.13

 師走の夜はとても楽しみだ。キラキラと輝くイルミネーションが目を引き、まちにジングルベルが流れると本当にサンタさんに会えるような気がしてくる。寒いけど空気も澄んでおり、どことなく気分もウキウキする。
 平成23年3月11日の震災直後、石巻市から灯りが消えた。あの暗闇と水没して壊れた車のクラクションの音だけは今も目と耳にしっかり焼き付いている。あれから間もなく4年。まちには灯りが戻り、今年辺りはイルミネーションの数も増えてきた。夜遅くに地域をジョギングしていても昨日まで暗かった路地の家に電飾が施され、キラキラと輝いている光景をよく目にする。
 灯りの中では親子の笑顔が咲き、子どもたちは両手を広げて空間の中を駆け回る。なんともほのぼのとした姿であり、こんな情景がもっともっと増えてほしいと願わずにはいられない。公共施設や企業は以前からだが、石巻地方でも自宅を電飾で飾る家がだいぶ増えてきた。それだけ気持ち的に幾分余裕ができてきたのかと推測できる。また、うれしいのは更地だったところに家が立ち、そこから灯りが漏れている様子だ。「おっ!ここにも家が建ったんだな」と思わず声がでる。
 石巻市を代表する観光地。復元船サンファンバウティスタ号を係留するサンファン館でもライトアップとイルミネーションが始まった。サンファン号は震災に耐えたが、直後の風雨でメーンマストが折れた。そして復旧し、再び輝きを取り戻した。
 イルミネーションは復興の証。何となくそう思えるのは私だけではないはずだ。


126. ユアスタで太鼓演奏                   H26.12.3

 宮城県を代表するプロスポーツの中にサッカーJ1のベガルタ仙台がある。しかし今年はひやひやさせられた。降格圏内を行ったり来たり。最後はホーム最終戦で徳島に競り勝ち、何とかJ1残留を決めることができた。その試合を東松島市立赤井小学校の6年生児童全員と見ることができた。今回はそんなお話をしたい。
 切っ掛けは伝統芸能の復興を後押しするベガルタ仙台のクラウドファンディング事業。個人、企業の賛同金で賄われ、東松島市内の3団体がユアテックスタジアム(仙台市)に招かれた。赤井小の伝統芸能である「赤井いぶき太鼓」が仙台市に進出するのは初。子どもたちは張り切って練習し、本番を迎えた。バスで揺られること1時間。スタジアムはホーム最終戦であり、しかも勝てば残留決定とあって熱気が渦巻いていた。そのスタジアムの正面で6年生37人が堂々と演奏。サッカーファンも足を止めて聞き入った。
 仙台市青葉区からきた男性(36)は「子どもたちの元気な演奏が心に響いた。ベガルタの勝利に向けた前祝になってほしい」と話していた。またこの直後は創作太鼓の鳴瀬鼓心太鼓と鹿妻鹿踊り(かづまししおどり)がコラボレーションし、ピッチの上で演奏。力強いバチさばきを披露した。鹿踊りは先祖供養や悪魔払いなどで200年以上も前から伝わる踊りであり、勇壮な舞がスタジアムに花を添えた。
 これで終わりではなく、この3団体の出演者と保護者、家族らは試合観戦のサービス。サポーターの声援がビンビン響く中で子どもたちは生の試合を観戦。初めてプロサッカーを見た子どもも多く、スピード感あるプロのテクニックに拍手を送り続けていた。「赤井いぶき太鼓」は本来、10月に行う地域の祭りで披露されるのを最後に次の5年生に引き継がれるが、今年はもう一つ加わることができ、6年生にとっては忘れられない思い出になったようだ。

 

125. 大根狩り                        H26.11.25

 大根狩り。首都圏にはあまりなじみのないフレーズだろうか。石巻市というよりも隣接する東松島市では、もはや冬の風物詩。最近は県内各地から参加者が集まるようになった。大根狩りとは、指定された袋を持って畑に入り、大根を引き抜いて袋に詰める。簡単に言えば新鮮野菜の詰め放題といったところだろうか。人は詰め放題という言葉にひかれる。どれだけ入るのか限界に挑戦したい。あの人よりは多く詰めたい。おいしいもの(いいもの)を安く手に入れたいと理由はさまざま。
 大根狩りもその一つで、多い人では袋に15本前後を詰める。袋は会場で500円で販売しており、大根1本が100円とすれば15本で1500円分。得するのは明らかだ。間違っても5本(500円)以下になる人はいない。最低でも10本は持ち帰れるだろう。中には袋に詰め込んでさらに上に乗せ、家族3人で運び、審査(会計)をパスする強者も。
 主催者側の柔軟な対応も魅力となっているようだ。今年の大根は、大きさは例年並みだが、甘さがある。午前9時の開始だが、早い人は午前7時には会場入り。2時間は立って待っているというこの時期には少々厳しいが、背に腹は代えられない。いざ、開始となれば一斉に畑に入り、大根を抜く。引き抜くまでは大きさが分からない。小さいからといって戻すのはなし。葉の長さや少しだけ見える太さから推測する。それだけでも楽しいのではと思うが、ここからは生活がかかる。「ほら、あんた。そっちの方が大きいから」「もう少し入るわよ。あと2本は抜いて」。様々な人間模様があり、ユニークなコミュニケーションも飛び交う。
 さてさて大根狩りに参加したご家庭はしばらく大根尽くしの料理だろうか。野菜は体にいい。んっ何となく大根が食べたくなってきた。今夜はおでんにしようかな。

124. 新市街地で宅地供給                   H26.11.18

 石巻市は市内中心部を流れる旧北上川を挟んで東部と西部に分けられる。と言っても一昔前はこんな分け方はあまり聞かず、どちらかと言えば震災後に多用されるようになったと思う。西部は東北自動車道からつながる三陸縦貫自動車道が縦断しており、交通のアクセスが良い。大型ショッピングセンターをはじめ、大型店も集積し、まさに商業地域。一方、東部は比較的沿岸部に近く水産業が盛ん。東日本大震災では大きな被害を受けた地域でもあるが、少しずつ復旧復興している。
 震災で住家を失った被災者は仮設住宅などで暮らしており、年明けごろから復興公営住宅(市営住宅)に移る人もいる。仮設住宅がすべて解消されるのは平成30年ごろと見込まれ、まだ先は長い。防災集団移転促進事業で石巻市は市内5地区に新市街地の形成を進めており、田んぼや畑を埋め立てて造成工事が進む。
 石巻市は復興事業の真っただ中。車を走らせて2、3分以内に必ずと言ってよいほどダンプなど大型車とすれ違う。至る所でショベルカーのクレーンが左右に動く光景が見られる。11月に入り、その新市街地で宅地供給が始まった。新市街地には戸建て宅地用地と復興住宅が整備される。宅地は用地そのもの。買うなり借りるなりして持家を建てる。復興住宅は市が整備し、アパートやマンションと同じように家賃を払って暮らす形式だ。
 新市街地でも西部地区の商業地に近い新蛇田はやはり人気。一方、東部の新渡波は今一つと言える。石巻市は新渡波地区に中学校を移転新築し、保育所を建て、民間の診療所を設けるなど利便性を高めるのに必死だが、思うように移転者は増えない。やはり商業設備や病院の誘致を求める声が多く、ニーズが満たされない中では定住化も難しいだろう。住宅は一度住んでしまえば安易に移れるものではない。今がしっかり考える時期であり、行政は安心安全で住みよい環境とはどのようなものかを見据え、市民目線で事業を動かしていかなければならない。
 ※写真は新渡波地区の完成予想図と現在の航空写真です。

  

123. 創刊100年史発行                    H26.11.11

 石巻日日新聞社の報道部の部屋を出て廊下を右に行くと会議室がある。普段は椅子とテーブルだけの無機質な空間だが、今は段ボールが積み上げられ、倉庫になった。1箱に本が9冊入っており、重さは10キロ近くになるだろうか。中身は本紙が創刊100周年を記念して発行した「石巻の大正・昭和・平成」。石巻市の近代100年史であり、表紙は布張り、金箔押し、ケース入りの永久保存版だ。
 全408ページでカラーは36ページ。本紙は大正元年に創刊しており、大正、昭和の石巻市、そして東日本大震災の記録も特集した。政治、経済、文化、産業、スポーツなど貴重な写真とともに史実を網羅した1冊。定価は5940円(税込)。ちょっとPRに走ってしまったが、ぜひ手に取って読んでもらえれば幸い。
 石巻市内では書店や本紙関連施設の石巻ニューゼで販売しているが、在庫の保管はこの会議室。たまに室内を覗いては「おおっまた減った」「むむっ今日は動きがないな」と在庫を見て思う。早くなくなれば会議室として使える。そう考えれば何とか売ろうと自分自身にも火が付く。12月9日には小学生が社会科の授業で社内見学に来る。それまでには山を削り、「この段ボールの山は何だ」と思われないようにしたい。
 話は変わるが、新聞社はもう新年号の発行に向けてスタートを切った。話し合いを始めたのが10月初旬だが、実際にあわただしくなってきたのはつい先ごろ。毎年のことだが、早め早めにスタートしてもどうしてもこの時期になる。新年号のテーマは…まだ言えない。ネタバレになるからだ。今はテーマに沿って各記者が取材に動いており、第一弾の締切は今月22日。最終締切は12月10日とした。随分と早いのではないか。と思われるかもしれないが、これでも校閲、追加取材、校正、印刷まで考えれば決して早くない締切。
 正直、あと1週間後ろでも問題はないが、人間は2通りあり、10日締切と言えば確実に10日前に出す人と10日に出す人に分かれる。皆さんはどちらだろう。記者も2通りいるが、本音は締切が怖くない記者であってほしいと願う。で、なければ突発的に大事件が起きても別の取材に追われて対応できない。体はいつも身軽にしているのが一番ではないか。
 通常の新聞発行、そして新年号の準備が終わるころにはもう年の瀬。毎年のことだが、11月と12月は月日の流れが異常に早い。でも11月を有効に活用すれば12月の負担は軽減できる。今年は今のところ報道部内の新年号取材体制は順調。手綱を離さないようにしながら皆で余裕を持った年末を迎えるようにしたい。
 

122. 収穫祭に強力助っ人                   H26.11.1

 母校である東松島市立赤井小学校はのどかな田園地帯にあり、児童数は177人。都心と比べれば随分と少ないようだが、宮城県の中では平均的な児童数だ。海からはだいぶ離れているが、東日本大震災では津波が川を遡上。学校周辺も川の堤防を突き破った津波で浸水し、住家を中心に大きな被害が出た。あれから3年7カ月が過ぎ、堤防の強化や排水ポンプ場の整備が進む。学校周辺はいつもの風景を取り戻しているが、のどかだった周囲はいつの間にか家が建っており、震災で沿岸部から引っ越してきた人の姿もある。地域は何事もなかったように人々を受け入れていた。
 赤井小学校の最大行事といえば秋の収穫祭。5年生が主体となり、1年を通じて稲作を学んでいるが、その集大成が収穫祭である。田植えから刈り取り、脱穀を体験し、この日は昔ながらの杵と臼を使ってもちをついて食べる。生産過程をすべて学ぶ授業だが、これにはPTAや地域が密接に絡む。というか、絡まなければなしえないことだ。
 収穫祭はPTA行事であり、本部役員や5年生の保護者はとても大変。2か月前から話し合いをはじめ、地域から借用するものをリストアップする。杵や臼、もち米を屋外で蒸す薪ストーブ、小釜、木製セイロなどが中心。しかし、震災による住宅浸水でこうした器具も被災し、廃棄した家が多い。現存しているところを探すのも一苦労だが、器具の老朽化も進み、「今年は借りれたが、来年はどうだろうか?」と悩みはつきもの。
 そんな中、今年2月に『きぼうのきずなひとつ。』が主催し、東京都町田市であった私の講演で参加者の皆さんから温かい義援金(寄付金)をいただき、そのお金で収穫祭用の薪ストーブ、セイロ、小釜など一式をそろえることができた。本来は何軒かの家をまたいで借りなければならないものだが、それをそろえることができたのは大きい。今回の収穫祭で初披露され、さっそく、活用した。風格ある木製セイロは地域の長たちも関心を寄せ、「これはいいものだね。どうしたんだい?」という声が相次いだ。全校児童や保護者、地域住民が校庭を埋める中で収穫祭行事が行われ、学校長もあいさつで町田市の善意を紹介した。
 この日は天候にも恵まれ、多くの人たちが感謝と笑顔の花を咲かせた。同時に人の支えの強さを知ることができ、心の復興がまた一つ進んだことを感じた。※写真手前が寄付金で購入したピカピカの薪ストーブセットです。
 

121. 台風が残した虹の置き土産                H26.10.20

 2週連続で被災地に爪痕が残った。台風18号、19号の2週連続の襲来。東日本大震災で最大 1.2メートル地盤沈下している石巻市は水害に脆弱(ぜいじゃく)な都市機能。集中豪雨や台風が通過すればすぐに市街地は冠水。震災で命は助かったが、車を失い、数か月後にようやく手にした車も度重なる冠水のたびに動かなくなる。「車は使い捨てじゃないのにね」。市民の声が空しく響く。
 台風19号が石巻市を通過したのは10月13−14日。台風は三陸沖で温帯低気圧に変わったが、短時間で激しい雨量をもたらした。街中では店舗に入った水を外にかき出す人々。ようやく乾いたと思ったらまた水害。この繰り返しであり、家主も頭を抱える。
 ではどうすればよいか。水害に強い石巻市を作るにはまず地盤沈下した土地のかさ上げが必須。今は市街地がおぼん状になっており、許容量を超える雨が降ればどうしても水がはけない。そして排水は現在、48カ所に計110台の仮設ポンプを設置しているが、これだけでは不十分。元々、排水ポンプ場は市内各所にあったが、いずれも津波で流出や大破しており、市は今後、国の予算などを活用しながら約800億円の巨額を投じて雨水排水事業を進めていく。仮設ポンプが取り除かれ、ポンプ場としてしっかり整備されるのはまだまだ先。その間もいつ大雨に見舞われるのか分からない。
 今回の台風通過でも民家に床上、床下浸水が見られた。震災後、石巻市は人口流出が顕著であり、安心安全のまちづくり対策を急がなくては人がどんどん抜けていく。あの日から3年7カ月が過ぎ、被災状況からも石巻市民の防災への備えはしっかりできているのだろうと県外から注目されているが、10月19日にあった防災訓練の参加率は7.3%。人口約15万人に対して参加したのは約1万人。昨年より1.1%下がっている。
 石巻市の場合、震災後はシナリオを決めた訓練は実施していない。すなわち「自分の身は自分で守る」を主体とし、沿岸部は高台、内陸部は火災や地震対策を行うのが基本。参加も強制ではないため、こんな数字になる。高いか低いかは別としても意識の低下だけは避けたい。来年の課題として残った。
 下段の写真は台風通過後に石巻市で見えた虹。被災した南浜・門脇地区から望めた。復興を遂げ、心に虹がかかる日はいつになるのか。まだ先のようだが、必ずその日は来る。


120. 町田市から被災地視察                  H26.10.11

 パソコンのメール画面を開いたら懐かしい人からメールが届いていた。今年3月、『きぼうのきずなひとつ。』が主催する講演会があり、厚かましくも私が講師として東京都町田市に招かれた。町田市つくし野2丁目自治会が協力しており、被災地の現状を伝える機会をいただいた。その前には被災した門脇小学校をテーマとした映画の上映会があり、ここでも石巻を紹介するコーナーを設けてもらった。
 この二つの場で大きく協力をいただいたのが防災部門に力を注ぐ2丁目自治会の近藤泰三さんだ。その近藤さんが大学OBの関連で仙台市を訪れることになり、先立って石巻市に足を延ばしてくれた。学生時代の後輩で今から20年以上前、仕事で石巻市に来ていたという竹田泰二さん(神洲通商取締役・東京都台東区)と一緒に仙台市と石巻市を結ぶ高速バスに乗って石巻駅に降り立った。
 夕方には仙台市に戻る関係もあり、2時間程度だったが、有意義な時間を過ごすことができた。まず案内したのが石巻港湾合同庁舎。海に面し、震災で全壊したが、再建後は沿岸部の復興モデルとなるビルに生まれ変わった。ここは6メートル強の津波が襲ったため、建物の1階はエントランスホールとし、事務機能は2階以上とした。屋上には蓄電パネルと防災備蓄倉庫を完備。建物のわきには外階段もあり、有事には屋上に逃げ込むことができる。今後はこうした建物が沿岸部や公共施設の主流になってくるのだろう。
 続いて竹田さんがよく訪れていた石巻合板を含む港湾企業を車窓から見学した後、壊滅的被害を受けた南浜地区を訪問。被災前は住宅密集地だったが、今は人の息吹きも感じられず、雑草が背丈以上になって生い茂る。まだまだ復興は道半ばであることを感じた二人は、被災地視察で多くの人が訪れる「がんばろう石巻」の看板わきにある焼香台に手を合わせた。震災当時、多くの人が沿岸部を飲み込む津波を目にした日和山公園をかすめ、石巻日日新聞社が震災後に開設し、6枚の壁新聞などを展示している石巻ニューゼを訪問。震災当時の石巻市とそこから3年半以上が過ぎた現在を比較してもらった。
 復興にはまだまだ長い時間がかかることを認識していただいたと思う。町田市は地域防災に市民が高い関心を持ち、一丸となって「地域力」の向上を図っている。「ぜひ今度は被災地視察ツアーなどを組み、多くの皆さんで石巻市にお越しください」と再会に期待を込めた。
 テレビや新聞では伝えきれない被災地の今がここにはある。ひとたび大災害が起きれば3−4年程度ではまったくもって元には戻らない。どれだけ時間がかかり、市民はどんな思いで日々の生活を営むのか。一緒に考える機会が増えれば自然災害は防げなくても地域の減災には必ずつながるはずだ。


119. よみがえれコミュニティー                 H26.10.6

 仙台市と石巻市を結ぶ三陸縦貫自動車道路。その矢本インターチェンジを降りて目の前に高層型の集合住宅(言うなればマンション群)が建つ。もともとここは水田だった。震災がなければ今も水田のままだったはず。この住宅は震災で住家が流出し、仮設住宅での生活を経てようやく手にしたマイホーム。3年半以上が過ぎているが、マイホームを手にしたのはわずかであり、仮設住宅での暮らしは今も変わらない。比率が逆転するのは来年以降だろう。
 この団地は石巻市の隣町である東松島市の小松南団地。156戸に計300人が暮らす。でも半数が65歳以上の高齢者で一人暮らしも多い。話はちょっとずれるが、以前、別の災害公営住宅に住んだ人からこんな話を聞いた。「仮設住宅にいたときは壁が薄くて隣近所に気を配ったが、音がある生活だけに隣が生きているか、死んでいないかがはっきり分かった。でも今はコンクリートの防音壁。マイホームはようやく手に入れたが、隣が誰かも分からない。壁が厚いと心が離れていくような気がする。どっちがいいのだろうか」という悩みだった。
 小松南団地でも同じことが聞かれた。プライバシーが確保されるが、その分、情報が外に出ないため、一人暮らしの高齢者にとっては不安が大きい。そこで重視されるのが団地内に形成された新たな自治会だ。団地に入居開始したのは今年4月。夏にはNPOの力を借りて初の夏祭りを開いたが、今回は自治会の力で団地開きを兼ねた交流会を開いた。芋煮鍋を囲みながらという内容。でも自治会の会長はこう言う。「確かに自治会主催ですが、周りを見て下さい。芋煮の協力は山形県東根市さん、あそこで住民のそばに寄り添っていただいているのは東松島市の社会福祉協議会さん、そこで物販協力を行っているのは東松島市の支援団体の皆さんなんですよ。だから自治会の力はまだわずか。時間をかけて発展させ、最後はどこの力も借りず自治体単独で開けるようにならないと。それが本来の姿ですからね」と言われた。
 なるほど。確かにその通りだ。震災前はどこの自治会も他の支援は受けず、当たり前に地域行事を展開していた。しかし、今はそれができていない状況。一番の原因は何か。それは地域コミュニティー以外の何物でもない。震災で地域が崩壊し、仮設住宅で何とかコミュニティーが再開できたと思ったらまたガラガラポンで公営住宅の入居となり、コミュニティーは一からやり直し。建物をつくるハード事業とは異なり、人間関係を築くのはソフト事業。一朝一夕ではできるものでもない。「時間をかけてじっくり作っていきますよ。焦っても仕方ない」。自治会長はこう語った。こんな悩みがこれから増えてくる。被災地はまた新たな局面を迎えそうだ。


118. ちゃちゃ丸ついにデビュー                 H26.9.24

 ついにデビュー!石巻茶色い焼きそばアカデミーの公認キャラクターで石巻焼きそばの伝道師「ちゃちゃ丸」が立体化された。すなわち着ぐるみになったということ。23日は石巻駅前にぎわい交流広場でフェスタがあり、ここで初披露された。頭に石巻焼きそばのシンボルである目玉焼きが乗り、体は茶色い二度蒸し麺を思わせるカラー。背中には箸を背負う。しかも語尾に必ず石巻の方言である「ちゃ」を付けるなどしゃべるキャラだ。
 駆け付けた石巻市の観光PRキャラクター「いしぴょん」、仙台・宮城観光PRキャラクター「むすび丸」にひけを取らない人気ぶり。会場では石巻焼きそばが1皿100円で販売され、長蛇の列ができるほどのにぎわい。この中を「ちゃちゃ丸」が愛きょうを振りまきながら練り歩く。子どもたちは握手を求め、常に回りには人だかり。もみくちゃにされてもめげない。何ともたくましい姿だ。
 会場には石巻焼きそば大使を務めるタレントの内山信二さんも来場。500グラムの焼きそばを食べる速さを競う種目もあり、男女各10人が出場し、男性は2分15秒、女性は3分19秒が優勝タイムとなった。
 そもそもこのイベントは10月18日と19日に福島県郡山市で開かれる「B−1グランプリ」に石巻焼きそばが出場するのを前に、地元で勢いをつけようと開かれたもの。東日本大震災があった平成23年には全国で6位となっており、今年はその上を狙う。もちろん会場には「ちゃちゃ丸」も登場し、雰囲気を盛り上げてくれるはず。今年は順位が期待されそうだ。
 私も昔から茶色い焼きそばが標準と思っていたが、これは石巻市だけと気づいたのは大人になってから。そういえば学生のころ、仙台市で食べた焼きそばはクリーム色がベースだったように思える。慣れとは不思議なものだ。だから今でも白っぽい焼きそばはちょっと敬遠がち。「やっぱり焼きそばは茶色でなくちゃ。これが石巻市だっちゃ!」

117. 震災3年半の大雨被害                   H26.9.13

 時計の針は午前零時を過ぎていた。突然、外が光りだし、しばらくたってから「ゴロゴロゴロ」と雷の音が聞かれた。ここまではよくあることだった。そして午前1時、ポツポツと雨音が聞こえたと思ったら滝のような音が聞こえだした。一瞬、自分が滝の近くか濁流の川の近くにいる錯覚すら覚えた。雨音は弱まるどころか強さを増す。ゲリラ豪雨ならそんなに長くは続かないが、1時間、2時間経ってもその気配はない。ようやく雨音が落ち着いたのは午前3時を過ぎていた。
 これは大変なことになる。朝になり、自宅前の浸水はなかったが、後輩記者から電話が入った。「家から出られません。車も動かせません。ひざまで水が来ています」。電話の横にあったカレンダーに目が行く。9月11日。奇しくも東日本大震災から3年半。石巻市にはまたも災害が牙をむいた。さっそく車で市街地に向かう。途中、道路だか、川なのか分からないところもあった。住民は竹ぼうきの柄を水面から突き刺し、深さを測っては首を横に振る(渡れない。歩けないという感じだろう)。
 街中で土砂崩れが発生し、住宅3棟に避難指示が出されたという情報が入った。すぐに現場に向かう。幅20メートル、高さ3メートルにわたって斜面が崩れ、民家の軒下に土砂が迫っていた。土砂災害といえば広島県で大参事が起きた。災害はいつどこで起きるか分からない。対岸の火事ではないということだ。
 石巻市では幸い、住民が避難したため、けが人はなかった。でも街中では至る所で冠水。住宅も相当数が床上床下浸水した。中には震災後に建て替えやリフォームを終えた家もある。「なんで。どうして」。住民は自然災害を恨みながら濡れた家財を外に出し、一つひとつ丁寧にふきあげた。
 震災で市内は約1メートル地盤沈下しており、排水ポンプ場も被災したため、現在は仮設ポンプで内水排除を行っているが、今回はこのポンプの許容量を上回る降水量。仙台管区気象台によると1時間当たりで91ミリと観測史上最大雨量を記録した。正直、こんな記録はいらない。
 災害に強いまちを目指す。石巻市はこう提唱しているが、今回の水害を見る限り、道のりは果て無く遠い。「本当にここに住んでいて大丈夫なのだろうか」。浸水被害を受けた市民からはこんな話を聞く。待ったなしの状況だ。石巻市は復興加速を唱えているが、言葉だけではなく本当に急がなくては人口流出に歯止めがかからない。それにはいかに公共事業を円滑に進めていけるかが課題。ここから先は国や県の財政支援。改造内閣がどれだけ被災地に目を向けているのか。地元報道機関としてしっかり見定めたい。

116. 動き出す新門脇地区                     H26.9.4

 まず写真を見てほしい。何に見えるだろうか。緑色が鮮やかで遠目で見れば広場、公園にも見える。のどかな感じもするのではないか。でもそれは違う。もともとここには住宅が密集し、人々の暮らしがあった。1000人以上の市民が生活していたのだ。しかし、東日本大震災の津波によって住宅はすべて流された。残ったのはがれき。多くの人命もここで奪われた。石巻市門脇(かどのわき)・南浜町は市民にとって鎮魂の場でもある。
 見分けるのが難しいかもしれないが、写真の手前が門脇、奥が南浜町。実際にみるとかなり広い面積だ。南浜町は国と県、市による公園化が検討されているが、まだ具体的な配置案は決まっていない。震災からすでに3年5か月も過ぎており、住民は対応の遅さに嘆く。手前の門脇は広さが約23.7ヘクタールあり、ようやく新門脇地区の市街地整備として事業が動き出した。
 津波の防御提にもなる高盛土道路や復興公営住宅(市営住宅)、住宅の宅地区画を整備。来年秋には一部宅地の完成が見込まれ、家を建てる光景が見られそうだ。全体の事業完了は平成30年度末。総事業費は約81億円。将来的な定住人口は震災前とほぼ同じ1070人を見込んだ。でも地権者の中で再びこの地に戻るとアンケートで回答したのは4割程度だった。なぜか。まずは海に近く被災していること。また同じような災害が起きた場合を懸念する声は大きい。次はすでに他の地区に移り住んでいること。中には石巻市から離れた人もいる。
 最近になって聞こえてくる声に関心を持った。それは「被災した門脇小学校の校舎が近くにあるのではずっと辛いだけ。解体してほしい。そうでなければ戻るにも戻られない」という声だ。校舎は現在、建物全体が覆われて外からは被災状況が見えないが、有識者の会議ではこの建物は震災遺構として残す価値が高いことを認めた。一方で住民は解体を望んでおり、今後、大きな議論を呼びそうだ。その渦中にあるのが土地区画整理が行われる新門脇地区である。
 9月3日には改造内閣が発足したが、復興相は被災3県からではなく、被災地とは疎遠の県から選ばれ、一抹の不安を抱く。復興はまだまだ先。どうも今回の改造内閣に対する被災地の期待は今一つ。私たち地元の新聞社は復興途上であることを発信し続けていかなければならず、行政、議会も政府に対して手厚い対応を求め、政府もそれに応えていかなければならない。復興は折り返しにも到達していないのだ。

115. 名古屋で伝えた思い                    H26.8.26

 北海道から戻って2週間も経たずに今度は名古屋市に向かうことになった。中日新聞社の連載企画「備える 3・11から」が間もなく100回を迎えるため、同社がフォーラムを主催。被災地の記者を招いて座談会を開いた。事前に名古屋までの切符をいただき、石巻線に乗車して新幹線の駅がある古川市を目指した。のどかな風景が広がるが、内陸部にも被災の跡が見られる。重機が傷の修復をするのをわき目に電車が過ぎ、古川から新幹線を乗り継いでようやく名古屋市に入った。
 フォーラム前日にホテルで会食しながら司会の中日新聞社のデスク、座談会参加者の私と河北新報の記者、阪神・淡路大震災を体験した神戸新聞の記者の3人と名古屋市出身の女優いとうまい子さんらと打ち合わせをしたが被災地の復興課題を話しているうちに時間が過ぎ、明日は大丈夫でしょう、との結論。「あまり細かく打ち合わせると気転が利かなくなるよ」といいように皆で解釈した。
 翌日は名古屋大学豊田講堂が会場。ここには建物自体が揺れる国内初の「減災館」があり、地震を体験できる仕組みがある。フォーラムには市民約1000人が参加した。防災をテーマにしたイベントで4桁の数字をたたき出すのは難しい。東海地方は南海トラフ巨大地震の発生が懸念されている地域であり、市民の関心の高さが伺えた。
 会場ではいとうさんが被災者の手記や詩を朗読。感情を込めた語り口調に聴衆は息を飲み、涙を流した。その後、児童74人が亡くなった石巻市立大川小学校の遺族や伊勢湾台風(昭和34年)で被災した長寿双子姉妹だった「きんさんぎんさん」の五女らが公開インタビューに応じた。その後、私たち記者が登壇。震災報道を通じて見えてきた課題や被災直後の様子、南海トラフに対する考えを約1時間30分にわたって語り合った。
 私は被災直後の石巻市の写真を示し、「情報も食料もない。夜はろうそくの灯り1本。まさに江戸時代のような生活を強いられた」「携帯電話はすぐに電池が切れる。これからの防災ではアナログ感覚を持つことも大切。例えば朝にその日の家族の行動を把握するなど家族で話し合うことが必要」と語った。南海トラフ巨大地震に対しては「震災は防げないが、備えることで減災はできる」とし、被災地の今では仮設住宅から復興公営住宅に移る人が増えていく中、残された人を含めた心の復興を掲げた。
 座談会を終えた後、小学生が私に歩み寄ってきた。「ぼく、今年の夏に石巻市に行きました。自由研究のためです。きょうは話を聞けてよかったです。これで自由研究はできあがります。あとは何が必要ですか」と言われた。私は小学生の頭に手を置き、「とにかく震災が来たら命を守ることが先決。まずは生き延びること。そしてお父さん、お母さんを助け、君がこのまちを造っていくという強い意思を持ってまちづくりに加わってほしい」と話しかけた。震災が起きなければ何ら問題ないが、これだけは誰も分からない。備えあれば憂いなしだ。3日ぶりに石巻市に戻ってきたが、帰りは仙石線。代行バスから被災地を眺めた。護岸が少しずつ築かれ、高台造成に向けてダンプが走る。地域の修復は始まったばかりのように見えた。

114. いざ北海道へ                       H26.8.13

 今年の第56回石日旗争奪少年野球大会(6月20日−7月9日)の優勝チームには副賞として北海道遠征が与えられた。それを射止めたのが稲井マックス。震災で監督が犠牲になり、練習場となる学校の校庭には今も仮設校舎が建つ。恵まれた環境ではないが、選手たちは前を向き、戦い抜き、そして栄冠を手にした。
 北海道遠征は札幌フロンティアライオンズクラブ(LC)の創立30周年記念事業の一環。札幌市少年軟式野球連盟が全面協力し、実現した。選手たちは8月8日夜に仙台港を出港。太平洋フェリーに乗り、一晩かけて苫小牧港を目指した。選手11人と監督、コーチ、保護者、そして石巻日日新聞社から2人の計28人。選手のほとんどが北の大地を踏みしめるのが初めてだった。
 苫小牧港では札幌LC、野球連盟の熱烈な歓迎を受け、選手はバスで透明度の高い支笏湖を訪れ、湖底をながめる遊覧を楽しんだ後、札幌市が一望できる藻岩山展望台から北海道の広さを体験した。交流試合は10日に札幌市内の球場であり、稲井は札幌選抜を相手に2試合行って1勝1敗。試合後は石巻市の特産品などを選手や関係者に手渡し、感謝を表した。夜にはアサヒビール園でジンギスカンを囲み、お別れ会。石巻市、札幌市の交流団約100人が参加し、子どもたちからは笑顔があふれた。
 実は稲井の子どもたちは北海道上陸前、フェリーのデッキから海に向かって目標を語った。大きく分けて3つあった。1つは北海道でおいしいものを食べる(魅力を知る)、2つは野球で全力プレーを見せる(試合に勝つ)、3つは友達をつくるだった。すでに目標は達成されたようだ。
 こうした小さな目標を積み重ねていけばそれが夢になる。でも夢はあまり高いところに置かないほうがいい。手に届く位置にあるけど、ちょっと触れない距離。だから全力で追いかける。だけどなかなか追いつけない。こうして夢を追いかけているときが人間にとって一番幸せのときではないだろうか。そんな話を子どもたちにしながら最終日は札幌市内を観光し、飛行機で石巻市に戻った。ひと夏の経験は子どもたちを成長させたように思えた。
 石巻に戻った翌日の12日、監督と6年生選手が石巻日日新聞社を訪れた。御礼を兼ね交流会で寄せ書きされた横断幕を見せてくれた。そこには「がんばれ石巻」「勇気・元気」「今度は甲子園で会おう」など被災地を励ますメッセージが無数に書き込まれていた。これまで接点がなかった石巻市と札幌市。これを切っ掛けに新たな交流が始まってくれれば最高だ

 

113. 石巻市が渋谷になる日                   H26.8.4

 7月31日、8月1日は石巻市が最も燃える2日間。今年の「石巻川開き祭り」では、17万2000人(主催者発表)が祭り気分に浸った。中でも水上行事の孫兵衛船競漕が4年ぶりに完全復活した。孫兵衛船競漕は一般(男性)は12人乗り、ミニ(女性)は8人乗りの船。オールを操りながら息を合わせて漕ぎ、450メートル先のゴールを目指す。1975年から始まったが、東日本大震災で河口にあった艇庫が被災し、11艇すべてが流出、損壊した。
 昨年は新調した2艇で模擬レースを実施し、今年は全国の支援を受けて10艇がそろい、完全復活を果たした。川開き祭りは江戸時代初期に石巻市の中央を流れる北上川を改修した川村孫兵衛重吉を称えるための祭りであり、水上と陸上の行事が合わさってはじめて川開き祭りの意義を成す。
 北上川の両岸には多くの市民が陣取り、2日間にわたって出場した45チームにエールを届けた。「そーれ、そーれ」「キャッチ、キャッチ」の掛け声に合わせ、漕ぎ手が一斉にオールを操る。ほとばしる汗、飛び交う水しぶき。報道艇からカメラのレンズを向けたが、自然に力が入る。震災前の感覚を取り戻した感じだ。でも川岸を見れば鉄板むき出しの仮堤防が目に入る。本格的な河川の復興工事はこれから。来年はこの場所で孫兵衛船競漕ができるのだろうかと考えることもあった。
 31日の夜は北上川に5000個の灯籠が浮かんだ。一つひとつに震災犠牲者の名前が入り、ほのかな灯りに包まれながらゆっくりと川を下った。僧侶による読経が行われ、市民は心静かに手を合わせた。震災から4年目に入っても大切な人を失った悲しみは時間が解消するものではない。一生悔やみ続ける。だから10年経っても20年経っても手を合わせ続けるのだ。空には白を基調とした供養花火が打ち上げられた。「空から見ていて下さい」。多くの市民は心の中でそう呼びかけた。
 1日は復興に向かう石巻市の力強さが発揮された。市街地には御輿が行き交い、小学校の鼓笛隊パレードでは沿道が歩けないほどの人で埋まった。中でも震災で校舎が焼けた門脇小学校は来年度から石巻小学校に統合されるため、門脇小学校としては今年が最後の鼓笛隊。パレードのトリを務め、最後は市街地のど真ん中で校歌を披露。沿道のOB、OGも声高らかに歌い、涙を拭った。
 復活と最後が交錯した今年の川開き祭り。「石巻市が渋谷になる日」とも言われ、花火大会直前は道路は人で埋め尽くされた。そして祭りの後の寂しさとはよく言うものだ。8月2日に市街地を通ったときは人影もなく、まちは閑散。いつもの市街地がそこにあった。
 私は「あの人出はどこから来たのかね。でも地元の人が大半。ここにはやっぱり人がいるんだよ。定住化って言うけど簡単に言えば楽しんで生活でき、最後まで暮らせるところを人は選ぶ。そこが石巻市となるためにはまだまだ課題はたくさんあるね」と独り言のようにつぶやいだ。

112. 想像の果てに                       H26.7.28

 石巻市で最も地域の被害が大きかった南浜町。今は雑草が生い茂り、背丈ほどに伸びた草が風に揺れている。冬になっても雑草はなくなることはない。ここが公園に生まれ変わるまでは大きな変化がなく、月日が過ぎていくのだろうか。
 南浜町の背後には門脇町があり、あの被災した門脇小学校の校舎がある地域だ。この校舎は石巻市震災伝承検討委員会で保存する方向を固めている。一方で地域住民は早期解体を望む。そこに住む人、離れた場所から門脇地区を見る人では全く考えが異なる。住民が言う「毎日被災した校舎を見るのが辛い。早く解体してほしい。でなければ人はここに住まなくなる」。説得力のある言葉だ。これに対して「門脇小校舎は地震、津波、火災の被害を受けており、この3つを受けて現存する構造物は東日本でもここだけ」「防災教育を進める中で遺構があるか、ないかでは伝わり方が違う」と保存を求める人も持論がある。
 被災構造物は壊したら元に戻らない。しっかりとした議論の末に結論を出してほしい。私は判断できない。取材すれば両者の立場が理解でき、言わんとする内容にもうなずける。だからニュートラルの状態。この件に関しては安易に関与はできない。
 門脇地区は3・5メートル以上の高盛土道路が整備され、仮に津波が押し寄せても防波堤代わりになる。そして背後には日和山があり、避難路も設ける。震災前は約1200人が暮らしていたが、今は100人いるかどうか。石巻市は土地区画整理事業によって約1070人の定住化を見込んでいる。ただし、事前アンケートでこの地に戻ると回答した地権者は4割。やはり戸惑いはある。この割合を増やすにはいかに地域の安全性を高めていけるかだ。
 計画上では新たに整備する「新門脇地区」は防災機能が高く、同じような津波が襲来しても住宅街に押し寄せる前に堤防などで防ぐことは可能と思われる。また市は、生活利便施設としてスーパーマーケットやコンビニエンスストアの誘致も進めている。あとは被災校舎のあり方をどう判断するか。
 門脇小学校の前には「Stand Up 門脇」として将来像が描かれた看板が立つ。「本当にこのようになるのかしら」。近くを通りがかった人が私に声をかけてきた。「どうしてですか?」「だって周りは草だらけでしょ。なんか、想像つかないわ」と首をかしげる。確かに現状の風景を見る限りでは想像はしにくい。新門脇地区の宅地の完成は早いところで平成27年秋となっているが、その時期になるまで本当にそうなるのか私にも分からない。まして最近は人件費や資材高騰で入札が不調であり、工期も延びている。
 「こうなるといいですね」。看板を指差しながらこんな言葉しかでなかった。もっと断言できる材料がほしい。

111. 消えゆく風景                       H26.7.19

 いよいよこの日が来た。昭和33年3月に建設され、市民に長年親しまれてきた旧石巻市役所庁舎が解体される日がきた。市役所庁舎は火事で全焼した後、同じ場所に再建された。それから半世紀近く活用され、平成22年3月に石巻駅前に移った。今の市庁舎は商業ビルを譲り受け、改修した。こうした造りは全国でも珍しく、当初は県外から視察する行政職員、議会関係者の姿もよく目にした。
 旧庁舎があったところは中心市街地の一角。1丁目1の1が住所で中心市街地は市役所が駅前に移転した後はなんとなく寂しさがあった。そこに襲った震災。幸い、旧庁舎は強固な岩盤の上にあり、窓ガラスが2枚割れた程度の被害だった。その半面、新庁舎は6階部分の天井が崩落するなど大きな被害が出た。
 旧庁舎はその後、支援物資の倉庫代わりや全国から集まったNPOが写真や資料の修復場に活用、さらに流出して見つかった写真や賞状、位牌などを展示する「思い出の品展示場」にもなった。震災前、ここは地域交流センターに生まれ変わる話もあったが、震災でとん挫。数少ない公共用地の活用と中心部に活気を呼び戻すため、被災者向けの復興公営住宅(30戸)が整備されることになった。旧庁舎は8月から本格的に解体され、更地になった後、年明けから4−5階建ての公営住宅が建つ。
 この庁舎には子どものころから思い出があった。両親が市役所職員だったこともあり、仕事に追われて日曜日に出勤となった父、母を車の中で待っていたこともあった。そして大人になり、新聞記者となってからは2階にある記者クラブに入会。ここを拠点に取材したほか、議場に入り、議会のやり取りをメモに残した。議会が紛糾し、夜遅くまでかかったこともあった。もともと駐車場が少ないところでもあり、駐車場に入るための渋滞に巻き込まれることもあった。しかも福祉部や産業部などは別棟。距離も微妙に離れており、取材していても「あれは福祉部」と言われて5分ほど歩き、たどり着いたら「ごめんごめん。その部分なら産業部」とまた別の道を歩く。そこでも「あっそこは財政課だね」と突きつけられ、再び本庁舎に戻る。いい運動になったものだ。
 解体当日、市役所OBに話しを聞いたときも誰しもが「使いにくい庁舎だった。狭かった」と口にした。いわゆる「困らせもの」だっただけに思い入れも強いのだろう。解体については「残念だけど復興が優先」「ありがとうと言いたい」という声が聞かれた。
 はげた壁の塗装、かび臭い倉庫、暗い階段、狭い通路、床板が外れたところ。どれもこれも思い出だ。使いにくい庁舎はまるで駄々っ子。正直、私も寂しかった。できることならもう一度、あの記者クラブのドアを開けてみたかったなぁ。「ありがとう旧庁舎。そしてさようなら」

110. 早朝の津波注意報                     H26.7.14

 地震には結構敏感な方だ。地鳴りで大体の揺れの大きさは分かる。寝ているときも微妙な震度1でも目が覚める。もちろん救急車や消防車の音も同じ。神経が高ぶっているのか。いやこれも職業病かも。この仕事は外の様子や音で判断することも多い。長年、新聞記者をやっているとこんなところが発達してくるのだろう。
 12日午前4時22分ごろ、福島県沖を震源にマグニチュード6.8の地震があり、石巻市では震度4を観測。東北地方の太平洋沿岸部には津波注意報が発表された。このときも「ゴゴゴゴッ」という鈍い地鳴りが響き、目を覚ました。同時に携帯電話で緊急地震速報が流れる。それから4−5秒後に軽い揺れがきて、じわじわと大きくなった。でも体が飛ばされるほどではない。どちらかといえば船に乗っているような感じ。幾分、長い揺れだった。問題はここから。すぐテレビをつける。

 嫌な予感は的中し、津波注意報が出された。すぐさま防災行政無線が流れる。「ウ〜ウ〜ウ〜」というサイレンは市民にとって「あの日」を思い出させる。「揺れじゃなく、サイレンのほうが興奮する」という声も聞く。それだけ敏感になっているのだ。
 予想される津波の高さは1メートル。テレビでは赤い文字で「すぐにげて」と出され、アナウンサーが興奮気味で注意を促す。私も記者の自宅関係を把握しながら対象者に連絡を入れ、現場に向かわす。東日本大震災では判断から危険な目にあった記者が多い。それを学習し、今は位置関係を把握しながら沿岸部を通らずスムーズに取材ができる体制をとるため、慎重に一人ひとりを動かす。大切な命を奪われるわけにはいかない。
 それから10分後、市内の高台にある日和山にいた記者から電話が入った。「30人ぐらい避難しています」。今回の震災で浸水区域にいた別の記者は「とくに内陸部に逃げる様子はありません。いたって変わりなしです」と話す。石巻市は避難勧告などは行わなかったが、自主避難者は27人。見た限り、徒歩で避難する人もいなかった。
 実際に津波も観測されたが20センチの高さ。もちろん被害はないが、危機管理はこれでよかったのかどうか疑問は残る。どうしても月日が経てば「このあたりは大丈夫」という意識が強くなる。でも3年前も同じような「ここまでは大丈夫」が大丈夫でなかった現実を思い出してほしい。
 石巻市では東日本大震災で約4000人近い犠牲者が出た。何のために命をもって私たちに生きることの大切さを伝えているのか。もっとしっかりと向き合う姿勢が必要だ。命の重さを風化させてはならない。今一度、避難の在り方を検証することは、一人ひとりに課せられた命題だろう。

109. 病院予算倍増                       H26.7.7

 沿岸部にあった石巻市立病院は津波被害を受け、機能を失った。すでに旧病院は解体され、今度は石巻駅前に再建される。当初の建設費は医療器機を除き、病院本体だけで70億円を想定。宮城県を通じてこの分の予算は確約され、石巻市議会は浸水した地域でもある駅前の是非をめぐって議論を繰り広げてきたが、何とか駅前に落ち着いた。しかしまだ落とし穴があった。
 「病院建設費は137億円となります」。7月4日に市が発した言葉に議員は耳を疑った。「なぜ今頃」「しかも2倍近い」。石巻市の説明では資材や人件費の高騰、新病院の機能に不可欠な床面積分の確保で67億円の増額になると示した。内訳は資材、人件費分が33億円、増床分が34億円。そもそも当初の70億円の根拠があいまいで平成11年から20年度まで供用開始した全国の公立病院238施設の平均建築単価から割り出しており、震災時の混乱もあってしっかりとした積算はできていなかった。でも市議会には25年に面積が広がる説明があったが、予算も大幅に増える話はなかった。
 市は「県の医療整備に基づいた計画。面積増加は県の了解を得たが、財源確保の確約はもらっていない」と答えた。すなわち「県の整備方針に合わせて床面積を増やしたのだから予算もくると思っていた」という解釈。でも県は他の病院の整備もあるため、石巻市に一極配分することができず、市と県は国頼みとなった。
 市は一時的に借金となる企業債と一般会計で補い、国から予算がくれば新たに組み替える考えを示し、6月の市議会定例会に議案を提出。議会は唐突な対応に戸惑いながら中3日で採決し、起立採決で可決した。ただし、「議会に逐一報告する。市長は政治責任をかけ、国に予算確保を求める」など付帯決議をつけた。
 市民の健康を守る病院であり、再建そのものに異論は聞かれないが、場所や予算をめぐっては紆余曲折。震災時の対応が今になって影響を及ぼしている状況だ。ある市職員は「確かにあの当時は混乱していた。でも今では言い訳がきかない。ほかにもなければいいが」と頭をめぐらす。
 復興には莫大な予算がつきもの。市だけでは対応できず、国や県の支援が不可欠だ。市と議会は車の両輪であり、この歯車がしっかりかみ合わないと前に進まない。内部から崩壊しては意味はない。同じ轍(てつ)は二度と踏んではならない。

108. 石日旗が開幕                       H26.6.23

 石巻日日新聞社が主催する第56回石日旗争奪少年野球大会が6月20日に開幕した。石巻地方の甲子園と呼ばれる大会。球場は復興支援で人工芝に張り替えられた石巻市民球場。今年は電光掲示板も整備され、本格的な球場となった。中学生以上が使う球場であり、小学生大会が行われるのは唯一、石日旗だけ。
 今年は26チームが参加した。震災があっても休止せず、開催してきたが、震災後はチームの統合や休止が相次いでおり、団員数の減少で出場数は激減している。「また今年も減ったか・・」と悩まずにはいられない。それでも参加してくれる選手たちには感謝、感謝だ。
 入場行進では新しくなった電光掲示板にチーム名と写真を写した。これも好評。「掲示板に見入っている間に目の前を子どもたちが行進していった」と話す母親もいるほど。アトラクションでは野球グッズや東北楽天の公式チケットが当たるゲームを開催。入場行進して主催者、来賓の話を聞き、はい終わりの開会式ではなく、2部構成にして選手が楽しめる時間を設けている。準備期間は約3か月。社内で「あーでもない、こーでもない」と議論しながら進めていく。すべては子どもたちの笑顔のためにだ。
 今年はもう一つ見せ場があった。奈良県郡山市のグラブメーカーBBAアカデミーが被災地の球児たちと一緒に作った高さ1メートル60センチの夢グラブが初披露された。大人の背丈ほどの大きさ。子どもたちをすっぽり包む。4月に被災地であったイベントでグラブの皮を球児たちが縫い合わせた。それから2か月後に完成。石日旗の会場でお披露目され、翌日は東松島市のグラウンドに寄贈された。実はこのグラブの親指の部分には1000枚を超す夢短冊が組み込まれている。「野球がうまくなりますように」「レギュラーになりたい」などのほか、「早く復興してほしい」「皆、笑顔で元気に過ごせますように」「津波が来ませんように」。子どもたちの願いが皆かないますようにとこっちも願わずにはいられない。
 石日旗は天候にも恵まれ、順調に試合が進んでおり、今週中にはベスト8がでそろい、29日は4強をかけて激突する。子どもたちのはつらつと前を向くプレーは元気をくれる。市民球場は仮設住宅に隣接しており、仮設住宅で暮らす人々も大勢応援に訪れる。「ここにくると元気がもらえる」。こんな言葉を聞くたびに開催意義と継続性を強く認識させられる。

107. ご当地キャラ                       H26.6.14

 地方自治体が町おこしの一環で始めた結果、今では大ヒットとなっているご当地キャラ。「ゆるキャラ」とも呼ばれ、47都道府県で400体以上を数えるという。毎月、全国のどこかで新しいキャラクターが生まれており、実数を把握するのは困難、いや不可能だろう。
 石巻市と東松島市、女川町のいわゆる石巻地方でも同じ。石巻市のいしぴょん、いしぴぃは石巻市の「石」の字を擬人化し、2体そろうと「いしぴょんず」という名前を持つ。東松島市はイート、イ〜ナのコンビ。こちらも東松島の「ひ」の字を擬人化しており、イート&イ〜ナは妖精という設定。アサヒ十六茶のCMにも出場しており、石巻地方では最も人気の高いキャラだ。そして女川町はシーパルちゃん。女川町から船で30分ほどいくと足島という無人島がある。ここはウミネコの繁殖地として知られ、周囲に外敵も少ないことから6月の繁殖期になると島一帯がウミネコで覆い尽くされる。シーパルちゃんはこのウミネコから象った。
 このほかヒーローものでは仮面ライダーの原作者で知られる石ノ森章太郎が生んだ「シージェッター海斗」をはじめ、女川町には「リアスの戦士イーガー」がいる。ちなみにイーガーの語源は、方言で「いいが、おめだづ」、標準語に直せば「いいですか、あなたたち」となる。人を諭すときに使う言葉だ。
 話が脱線しっぱなしだが、今回のお勧めは写真の左から2番目にいる青いサルのようなキャラ。名前は「おのくん」。最近全国区で知られるようになり、人気急上昇。仮設住宅で暮らす人たちが靴下に綿を入れて作る猿のぬいぐるみ。一つひとつ手作業で作られ、1体1000円で「里親」になることができる。口癖は「めんどくしぇ〜」。これも方言で震災からの復興に向け、さまざまな困難に立ち向かいながら「めんどくしぇ〜」(面倒だ)とぼやきつつ、前を向く人たちの言葉から生まれた。今では爆発的に里親となる人が増え、生産が追いつかないほど。それこそ嬉しいけれど「めんどくしぇ〜」と聞こえてきそうだ。そんなわけでそれを大きくしたのが「おのくん」のご当地キャラ。
 子どもたちだけでなく、大人もご当地キャラに出会えば自然に笑みがこぼれる。写真は復興マルシェの2周年記念祭だが、このマルシェも今年の秋には解体され、生鮮マーケットが設置される。被災地には今しか見られない風景がたくさんあるのだ

106. 復興モデルのビル                     H26.6.5

 復興の形が目に見えた瞬間だった。震災前、石巻工業港にあった国が管理する石巻港湾合同庁舎は海際にあり、東日本大震災の津波で7メートルの高さまで浸水した。当時の建物は2階建て。水はなかなか引かず、庁舎に入る海上保安部は歯がゆい思いをした。それから3年が過ぎ、合同庁舎は新たな姿となって再開した。
 業務開始は6月5日にあり、石巻海上保安署の署員は何度も「今度は必ず、市民を守る」と決意を込めた。建物は鉄筋コンクリート造りだが、最大の特徴は事務所機能は2階からとなり、1階部分は柱だけの構造。そして5階には石巻市が整備した防災備蓄倉庫がある。倉庫には食糧700食、500ミリリットルの飲料水約1600本、毛布、簡易トイレ、おむつ、ラジオなどを完備。最大516人を収容できる。建物の側面には屋上に上る非常階段があり、万が一の時はここを伝って逃げる。
 石巻市では、津波避難ビルの認定を行っており、認定されれば建設費の一部が補助される。今回の合同庁舎を含め、すでに7か所指定され、ほとんどは民間施設。避難ビルは外付け階段、収容スペースなどが設けられ、防災備蓄品も完備している。石巻市の市街地は平坦な場所が多く、高層ビルもない。だからまた大きな津波がくれば逃げ場もない。このため、港湾で働く市民にとっては不安材料となっていた。
 新しい合同庁舎は重厚な造りであり、屋上にある鉄製のはしご階段を使って屋根に上れば、ヘリコプターによる空からの救助も可能となる。「安心安全」の施設だ。今後、沿岸部に建設される公共施設のモデルとなるだろう。
 庁舎の屋上から市内を一望することができた。3年前に住宅街だったところは草が生い茂り、梅雨時期となって背丈ほどに育った草もある。雑草と雑草との間に道路がみえた。以前は人の息吹が感じられていた地域だ。一つ感じたことは確かに石巻市には高いビルがない。だから震災時は皆、屋根に逃げたが、滑り落ちたり、屋根の上まで水が来て流された。どんなに無念だっただろう。
 この庁舎を起点に安全安心がもっと早く広がってほしい。あの悲劇は二度と繰り返したくはない。

105. 被災地での襲撃                     H26.5.27

 社会を震撼(しんかん)させる事件が起きた。「会いにいけるアイドル」で知られるアイドルグループのAKB48。岩手県滝沢市で開かれた握手会で、突然、メンバー2人が折りたたみ式ののこぎりで切られ、骨折や裂傷のけがを負った。幸い命に別状はなく、犯人もその場で押さえられたが、警備体制が指摘されている。犯人は「誰でもよかった」「人を殺そうと思った」と供述しており、無差別的な犯行が伺える。
 AKB48は震災後、プロジェクトを立ち上げて被災した岩手、宮城、福島に足を運び、ライブや握手会などを通じて被災地の子どもたちに元気を与えている。震災直後から1年間は石巻市にも芸能人が続々訪れ、復旧支援や炊き出し支援などを行っていたが、今はほとんど見る影もない。そんな中、AKBの定期的な継続支援は唯一と言っても過言ではないだろう。私も何度か取材に行った。来場者が言うには一番の魅力はアイドルとの距離感。わずか1メートル前でヒット曲などを歌い、帰りにはハイタッチで見送る。
 震災から3年目を迎えた3月11日の夜も石巻市内でライブを開催。すでに引退が決まっている大島優子さんらが訪れ、ハイタッチしながら市民を見送った。感激して泣き出す高校生の姿もあった。「震災で辛いおもいばかりだけども少しの間でも憧れのアイドルと同じ時間を過ごせるだけで幸せ」。こんな言葉をよく聞く。心の支えとなっているのだろう。AKB48はこの5月にも再び石巻市を訪れ、仮設住宅の敷地内でライブを行ったほか、高校生が運営する喫茶店で手伝うなどして市民と触れ合った。会いにいけるアイドルは石巻市民にとって「会いに来てくれるアイドル」になっていた。だからAKB48を身近に感じている人は多い。それだけに今回の事件は同じ被災地としてもショックだ。
 岩手県の高校生は報道に対し、「東北を嫌いにならないでほしい」と訴える。事件間もないこともあり、現在は握手会は中止され、運営会社は対策などを講じている。アイドルとの距離感も指摘されているだけに何らかの形で見直しされそうだ。石巻のファンも心配しているだろう。「また来てもらえるのだろうか」「もう来ないのか」「ハイタッチはなくなるのか」などの臆測が飛ぶ。社会問題に発展した今回の襲撃事件。東北はまだまだ全国の支援を受けて復興していかなくてはならない。どんな形であれ、見放されたら心苦しい。運営会社の判断が注目される。
 

104. 将来担う市議選                     H26.5.21

 任期満了の石巻市会議員選挙が18日に告示された。21日はちょうど中盤戦。告示前の前哨戦はまったく盛り上がらず、立候補者も不安だらけだった。市議選は議員定数が今回から4人削減され、30議席を現職、元職、新人の35人が争う構図。市民からは市政不満、政治不信の声が聞かれるが、石巻市は今後4年間(平成26−29年度)が震災復興基本計画に掲げる「再生期」。言うなれば復興に向かう石巻市の将来像が固まる時期。とっても重要な期間だ。その方向性を決めるのが市議会の役目。こんな感じで市民に説明すれば「あーなるほど。重要なんだね」と共感されるが、中々全域に浸透を図るのは難しい。
 立候補者が選挙運動期間中で最も悩んでいるのが仮設住宅の訪問。屋外での街頭演説か、それとも個別訪問か。でも被災の状況を考えれば「選挙…」とは言い難い。逆に「どうしたらいいのだろう」と相談されることもしばしば。さらに地域によっても被災状況が違う。何もかもが前回(平成22年)とは異なる選挙。震災はすべてに影響していることを改めて知らされた。
 震災後、石巻市では今回の市議選を抜いて国選や県議選など5回の選挙が行われたが、軒並み低投票率。生活環境の変化が大きく、投票に行きたくても足がない(車)との声が聞かれるようになった。そこで登場したのが「期日前投票バス」。仮設住宅と最寄りの期日前投票所を結ぶシャトルバスであり、行政が運行する。初めて実施した昨年7月の参院選は13日間で66人、投票行動の分析を踏まえて後半4日間に集約した10月の宮城県知事選は44人が利用した。
 仮設住宅で暮らす約1万人の有権者からみればはるかに少ないが、あくまで投票の意思を持っていてもそこに向かう手段がない人の支援。人数は少なくても大切な1票に変わりない。今回の市議選でも運行されており、最終的には何人が利用するのだろうか。市選挙管理委員会は常に満員御礼に期待を込めていた。
 
さぁ投票まであと4日。投開票が行われるのは25日。当落線上はだいぶもつれるので、帰りは午前様、もしくは未明になるのかなぁ。せめてトラブルがなく終わってほしいとひそかに願う。

103. 青いこいのぼり                     H26.5.10

 5月の大型連休が終わった。今年は飛び石だが、新聞社で働くものにとっては連休自体、大きな影響はない。そもそも連休で何日も休刊となったら読者にお叱りを食う。5月5日は子どもの日。例年、好天に恵まれるが、今年は午後からポツポツと雨が降りだした。珍しい年もあるものだ。
 この子どもの日に向け、石巻市内でもこいのぼりを掲げる家庭が見られた。最近は住宅事情からコンパクト化され、こいのぼりよりも鎧(よろい)武者の飾りが多くなっている。首都圏などはまさに後者だろう。ただし、震災後はこいのぼりをみるとどこか寂しさを感じる。そもそもこいのぼりが揚がっていればそこに男児がいるという目安になる。
 石巻市に隣接する東松島市は、沿岸部にあった大曲浜と呼ばれる地域が壊滅被害を受けた。多くの人たちが命を落とした。もちろん幼き子どもも。がれきの中からみつかった青いこいのぼり。ここに住んでいた男児が大好きだった青いこいのぼりだ。亡き男児の兄はその年からこれを揚げるようになった。弟に対する供養を込めて。そして天国から大好きな青いこいのぼりを見てほしいという願いを込めて。

 この話は瞬く間に全国に広がり、青いこいのぼりが続々寄せられるようになった。もちろん今年もたくさんのこいのぼりが更地となった大曲浜の空を泳いだ。その真下に腰を下ろし、悠々と空になびく姿を目で追う人々がいた。どんな気持ちで何を考えているのだろう。皆、「あの日」の前に戻り、今は亡き人々の影を追い求めているようだ。
 私もこの地に立つのが正直辛い。中学のころはよく遊びに来ていたところであり、目を閉じれば更地の上に家が建ちあのときの風景がよみがえってくる。でも目を開ければそこには更地が広がる。落胆とため息しかでない。
 東松島市や石巻市、女川町をはじめ、被災地に泳ぐこいのぼりには、さまざまな人の思いが込められている。だから喜んでいいのか、手を合わすべきなのかはわからない。ただ、空の上で子どもたちが笑顔を見せてくれていることだけは分かる。
5月5日は子どもの日。「くよくよしないで笑ってよ。きょうは子どもの日でしょう。ぼくも(私も)楽しみにしている日なんだから」。そんな声が聞こえてきそうだ。

102. 雨のメーデー                       H26.5.1

 5月1日はメーデー。いわゆる労働者の祭典であり、全国で連合が主催する第85回メーデーが繰り広げられた。報道によれば安倍晋三首相は、一足早く、4月26日に東京・代々木公園であった中央大会で「企業の収益は改善している。収益が賃金につながることが大切だ」と呼び掛けたという。
 正論だが、温度差を感じる。被災地は企業収益どころか再建を断念した企業も少なくない。石巻市は水産業を基幹産業としており、震災前は約200社あった水産加工団地内の企業はほとんどが壊滅、浸水被害を受け、これまでに再建を果たせたのは約6割。現実はまだまだ厳しく、決して企業収益が改善しているとは言いがたい。加えて沿岸部で働く人たちにとっては避難路が重要。「働きたいが、避難路がないので万が一を考えると内陸部の企業に就いたほうが安全」との声も聞く。沿岸部から内陸部に伸びる道路は、国の復興予算が付き、これから整備されるが、用地買収、測量、工事とどうしても時間はかかる。それまで何もないことを祈るばかりだ。
 石巻市でも駅前の広場を使ってメーデーが開かれた。労働者の格差是正などを訴え、約800人の労働者がガンバローコールを上げた。震災前はプラカードを掲げて市内をデモ行進し、道行く市民に元気を与えていた。しかし震災後は中止し、市内の復旧、復興を見定めてきた。本来は今年からデモ行進が再開される予定だった。またあの活気が戻ってくるとちょっぴり嬉しい気持ちだったが、朝からあいにくの雨。式典の最中は大粒の雨が降り注ぎ、マイクで叫ぶ声も聞こえにくいほど。やむなくデモ行進は中止となった。
 震災後、石巻市にとって局地的な大雨は怖い存在となった。地盤沈下やかさ上げに伴う道路の変化で雨水が極端に溜まる場所が数多い。これで沿線が通行止めとなり、場合によっては陸の孤島となる地域もあるほどだ。メーデーが終了した直後から雨足はさらに強まった。社内にいてもバタバタと路面を打ち付ける音が響く。石巻日日新聞社の社屋裏には中学生が部活動で使うテニスコートがあるが、一瞬で海と化した。それだけ短時間で降ったことになる。
 来年こそは、雨も降らず、晴天の中でデモ行進が再開され、地域に活気を呼ぶことに期待したい。

101. 支援に感謝                        H26.4.25

 東日本大震災から3年目を迎える今年の3月11日に先立って東京町田市で行われた講演からまもなく2か月になろうとしている。皆さんから寄せられた義援金(寄付金)は、私の母校である東松島市立赤井小学校に寄せられた。震災後、子ども達の教育環境は大きく変わった。石巻市に隣接する東松島市も甚大な被害を受け、沿岸部に近い地域は住家が1件も残らないまで壊滅した。もちろん学校も深刻な状況であり、他校への間借りやプレハブ校舎でしのいできた。
 石巻市、東松島市、女川町からなる石巻地方ではこの春から多くがプレハブ校舎を抜け、修繕した元の学校などで授業を受けるようになった。しかし、本格的な学校再建はまだ先。幸い、赤井小学校は内陸部にあるため、学校への被害は免れたが、震災直後は周辺が水没したため、しばらくの間、避難所となった。教室では子ども達が授業を受け、体育館には市民が生活を送る。双方にとって歯がゆさはあるが、誰もこぼさず耐え抜いてきた。

 今は通常通りの学校生活に戻ったが、校内最大行事で秋に行う収穫祭では地域から餅つきで使う杵(きね)や臼(うす)、もち米を蒸かす釜、薪(まき)ストーブなどを借りている。しかし、震災後は破損や浸水でやむを得ず廃棄した家庭も少なくない。借りる家庭がなければ学校やPTAで何とかしなければならない。悩んでいたところに光が差した。
 「そうだ!3月の講演会で頂いた義援金を充てて購入してはどうか」。早速、PTAの役員会で諮り、承認された。そして届いたピカピカの薪ストーブ、小釜、木製セイロなど。納入業者からも「サイズはぴったり。かっこいくて使い勝手がありますよ」のお墨付き。
 学校長と一緒に受け取り、早速、秋の収穫祭に思いを馳せた。毎年、5年生は稲作を学ぶ体験授業を実施しており、まもなく学校近くの水田にもち米を手植えする。そして成長を見守り、秋には頭を垂れた稲穂を収穫。学校のジャングルジムで天日干しした後、脱穀、収穫祭で餅にして児童、保護者、地域住民で会食を開く。今回の義援金はこの一翼を担う備品の購入に充てることができた。5年生の児童は早速、講演会を主催した「きぼうのきずな ひとつ。」に御礼状を手書きした。読ませていただいたが、とても心がこもっており、一人ひとりの個性も見えた。
 さぁこれから田植えシーズン。海水で使った田んぼも徐々に再開されてきた。復興の足音がまた一つ聞こえるようになった。

100. 月命日の夢                        H26.4.11

 4月11日。石巻市では児童、教職員計84人が亡くなった大川小学校の近くの地域で一斉捜索が行われた。この日は月命日。震災から3年1か月が過ぎた。ここを管轄する警察署管内ではまだ185人が行方不明。津波で流されてきた汚泥などの堆積物は30センチほど積もり、警察署員はスコップで掘り起こしながら手掛かりを探した。
 市内の寺院には身元が分からず、安置されている遺骨は数多い。家族は今も待ち続ける。この月命日の未明、夢を見た。まだはっきり覚えている。私は大曲浜地区にいた。ここは津波で家々が流され、今は1件も残っていない更地。でも中学生のころは同級生が数多く住んでいたので庭のようにして遊んでいた地域だ。夢の中は震災前なのだろう。家々ははっきり残り、ブロック塀で囲まれた細い路地を友人と2人で自転車で駆け抜けていた。夢では中学生の私だが、なぜか「懐かしいね。また戻ってこられたんだ」と話す姿があった。今に思えば現実と混ぜ合わさっていたとしか言いようがない。でも本当に懐かしかった。夢から覚めてなぜかため息が出た。
 石巻市内では被災した公共施設の解体がどんどん進む。都心では空き地なんてどこにも見当たらないが、今の石巻市は空き地が目立つ。数々のコンサートや演芸を繰り広げ、市民に元気を与え続けてきた市民会館も解体され、今は更地。隣の市民プールも姿はない。目の前にはだだっ広い土地があり、関係者の車がポツポツと停まるだけ。写真だけで見てしまえば、ここに何があってどの角度から写したものかも分からない。まさに原風景が消えていく寂しさを感じた。
 増える空き地。将来像を描いた青写真(イメージ図)。市役所で取材していると空き地に立つ復興公営住宅の青写真をよく見かける。2年後、3年後にはここに大きなマンションタイプの住宅が建つのだ。今は実感がわかないが、こうして復興が徐々に進んでいるのだ。でも道はまだまだ長い。ゴールも遠い。

 でも焦らず一歩ずつ進むことが大切。だって街を1つ造るようなものだから。先人が何十年もかけて形付けてきた地域をそんな3、4年で震災前以上に発展させることはできない。1日も早い復興と言うが、どうしても時間は必要だ。大事なのは復興したまちが安全で住みやすいこと。そうすれば課題となっている定住人口の減少にも歯止めがかかり、被災地は復興モデルとして再び羽ばたける。そんな日を待ち望みたい。

99.平成26年度がスタート                    H26.4.1

 平成26年度が幕を開けた。石巻市では50人の新規採用職員を迎えたほか、空席となっていた副市長に元総務部長の菅原秀幸さんが就任した。古い付き合いでもある。温厚な性格で人の話をしっかり受け止め、的確な答えを導く。職員の信頼も厚い。まさに適任だ。市役所前では歓迎セレモニーがあり、約250人の市職員が花道を作って出迎えた。
 被災者と同じ視点を持つ副市長と言ってもよい。菅原さんは震災で妻、長女、母の3人を同時に亡くした。孫娘が届けた悲報の手紙。それでも人前で涙を見せず、指揮を振るった。私もあの時、菅原さんと同じ場所にいたから当時のことを思い起こす。菅原さんは1人で仮設住宅に暮らす。そして復興公営住宅(災害公営住宅)の入居に向けた手続きを進めるなど被災した市民と全く同じ手法で生活再建を進めていく。家族を失い、家を失い、失望の中からはい上がってきた。だから被災した市民の苦しみを一番良く知っている。
 新たに市職員となった若き力にもインタビューしてみた。「震災当時、一生懸命働く市職員の姿に感銘を受けました」「1日も早くふるさとを復興させたい」「美しい石巻市を取り戻したい」と皆ビジョンを持っていた。まだ25歳前後の若い精鋭たち。この人たちが中堅職員になるころには石巻市はどんな姿になっているのだろう。取材しながらそんなことを考えていた。
 震災から3年が過ぎた。風化は進んでいるのだろうか。あえて若い人たちにぶつけてみた。「地域によっては違うかもしれませんが、風化までは行っていません」「まだ3年ですよ」。そんな言葉が返ってきた。私はつくし野であった講演の中で「被災地では風化は進んでいない」と断言した。ただし被災地の取り方によっても違う。石巻市と政令指定都市の仙台市では状況が異なる。宮城県内では確かに温度差も生じ、被災が少ない内陸部では爪痕も残っておらず、街は平常通り。たぶん、震災を常に口にする人は少ないだろう。では沿岸部はどうか。石巻市や東松島市、女川町、気仙沼市、南三陸町。ここは沿岸部が更地のまま。内陸部でも道路の痛みがまだ残っており、水田を埋め立てて宅地の造成が進む。
 時に目をそむけたくなることも正直ある。でも目に入ってくる。何で石巻市が、何で宮城が、何で福島が、何で岩手が。考えればきりがない。そんな地域の中で人々の生活は続いている。だから風化どころか現在進行形と言っても過言ではない。推測だが、本当の風化が始まるのは更地が消えたときかもしれない。

98.去りゆく人々                        H26.3.27

 年度末を迎えた。新聞社は年末年始(とくに年末)が繁忙期だが、年度末も何かと慌しい。それは行政や教職員、警察など公務員の人事異動。とくに教職員については夕刊紙が皮切りであり、本紙が最も早く報じることができる。定期購読していない方でもこの日はコンビニエンスストアで石巻日日新聞を手にする人は多い。コンビニでも「教員人事掲載」のキャッチコピーが掲げられ、文字通り新聞が飛ぶように売れた。
 学校に子どもを通わす保護者にとっては誰がどこの学校に行くのかがとても気になる。購入するなり、車内で新聞を広げて名簿を目で追う人の姿があった。隣では子どもも関心を持ってのぞき込む。ドキドキの一瞬だろう。

 私は石巻市政を担当しており、教員人事もさることながら市の定期異動も気になる一人。あの部長は?あの課長は?とこっちも内示がでるまでヒヤヒヤだ。なぜか。記者は人から情報を得る。行政も情報公開を積極的に行う人、閉鎖的な人などさまざまであり、それに応じて情報を引き出す戦術も練らなければならない。
 もちろん石巻日日新聞社内でも人事異動を含めた内示があった。支局を持たないため、どこか別の地域に飛ばされる心配はないが、若手記者にとっては誰が昇格、昇級するのか、表情に出さなくても数日前から緊張感が漂う。結果は全員が昇格、もしくは昇級。報道部も若手が増えており、期待以上の業績を残してくれている。ただ一つ、残念なこともあった。
 5年ほど前に入社し、震災も乗り越えて取材を続けてきた水沼記者(女川町、原発担当)が本年度末で退社することになった。水沼記者から報告を受けたのは1月半ば。「外処さん。ちょっとお話があるのですが」の一言。すぐにこっちは察した。辞意を表明する人の表情はいつもとどこか違う。会議室に移動するわずかな間だが、何を言わんとするのかも予測ができた。案の定、退職の意向。家庭の都合であり、引き止めることもできない。それから2か月間、水沼記者は何事もなかったように最後まで記者職を真っ当し、26日には報道部で送別会を開いた。
 「家族のような報道部だった」。と水沼記者が口にしていたことを彼の先輩である秋山記者が話をした。家族。切っても切れない関係にあるのが家族。その一言で水沼記者にとっては充実した5年間だったことが伺えた。4月からは同じ県内であっても県南の地域に暮らすという。もちろん記者ではなく。
 水沼記者の退職と同時に報道部にも若手記者が1人入社した。送別会では歓迎会も兼ね、私から「新人ですので、と口にしている間にどんどん先輩の姿を見て吸収しろ」と告げた。記者の仕事は10年、20年経ってようやく一人前と言われるほど。さてさてこの新人がどう化けるか。一人前になるころには私も定年退職?を迎えるころだろうか。

97.つながりで育つ地域防災                   H26.3.17

 いよいよ「3.11被災地は今…知られざる復興課題」石巻日日新聞社の記者が語ると題して講演会が始まった。主催者を代表し、『きぼうのきずなひとつ。』の土肥代表があいさつ。被災地とつながることの大切さと意義を説いた。そして紹介を受け、壇上から話す機会をいただいた。まずは津波が襲来したときの様子を映像で紹介。この場面は話すよりも観たほうが効果的。津波の速さを知ってもらう場とした。
 そして時間は3月11日にさかのぼる。被災した市街地、仮埋葬(土葬)、仮設住宅建設、新市街地整備計画…。3年の歩みを振り返った。被災直後に関する話は最初の30分程度。ここだけを長く話しても震災の記憶にはつながっても防災にはならない。残り1時間は復旧、復興の歩みの中で市民は何を悩み、考え、地域はどう変化するのか。また行政課題、地域産業に及ぼす影響にも触れた。
 日本は活断層の上にあり、いつ大規模な災害が起こるか分からない。発生すれば東日本大震災と同じような時間軸をたどるはず。そこで必要なのは自助はもちろん、公助ではなく、共助。震災でも公助が届いたのは3−4日してから。それまでは地域の力、互いに支え合う気持ちが命をつないだ。もう一つ、この震災から学んだことがある。それは「想定外」という言葉。確かに今回の震災では想定外が乱発された。仕方ないことだ。その後、南海トラフ巨大地震などの研究が進んでいる。だから講演の中で次の震災では「想定外」が使えないことを強調した。
 高さのある防潮堤、堤防、住居の高台移転、内陸部の市街地造成など石巻市で進めている復興の状況も説明した。歴史の中で育まれてきたまちは震災で壊滅した。そこからの復旧、復興。本来、何百年かけてきたまちづくりをわずか10年でしなければならない。これに費やす労力は数え切れない。行政においては復興事業がかさんで人材不足に陥り、建設業界も資材、人出不足から入札に参加できない。こうして復興事業はどんどんと後ろに下がっていく。「被災地の復興は終わっていない。現在進行形である」。
 質疑では震災に対する心構えなど具体的な内容が相次いだ。講演中も皆の顔を見ながら話したが、誰もが真剣な表情でスクリーンを見つめていた。「仮に同じような災害が起きてもこの地域の結束力は固く、困難も乗り越えられるだろう」と感じた。
 大切なのは意識。いくらハードを整備してもそこで暮らす人たちの防災意識が低ければ、救える命も救えない。講演は震災の記憶を風化させないことと防災意識を高めることを狙いとしており、参加者がその気持ちを強くしてくれたことに改めて感謝したい。
 震災から3年が過ぎ、被災地を訪れるボランティアも少ない。NPOなど支援団体も限られてきており、どこか忘れ去られてしまうのではないかという不安すら覚える。町田市は震災後から石巻地方に寄り添っており、昨年も地震、津波、火災に遭遇した門脇小学校の児童の証言を集めた映画を上映した。こうした地域ぐるみ、自治会単位で継続的に心を寄せるところは少ない。町田市、町田市民を身近に感じられ、絆がそこに生まれた。

96.東日本大震災から3年                    H26.3.17

 「3月11日の近くに講演会をお願いしたいのですが」。『きぼうのきずなひとつ。』の土肥代表から突然の電話が入ったのは今年1月中旬。もちろん承諾した。新聞や石巻日記では伝えられることにも限界がある。やはり、直接、話をした方が確実に情報は伝わる。逆に私の方が機会を頂いた形だ。さてあと2か月ある、いやもう2か月しかない。どちらを取るか。答えは「もう2か月しかない」だ。電話を切ったあと、早速、資料を整理し、上映するスライドの制作に突入した。他の講演での使い回しはしたくない。その地域、その課題にあった内容にしなければ伝わらない。後援がつくし野2丁目自治会防災部と決まったため、地域防災のあり方に軸足を置き、話の順番を組み立てた。
 私自身、依頼に対する手抜きを極度に嫌うため、仕事の合間に作業はせず、休みや夜の余暇を使ってコツコツとスライド作りを始めた。1か月後にはほぼ完成。あとは数字を最新のデータにするだけとなった。
 さて肝心の話す内容はと言うと、私はペーパーを読んで話すのは苦手。簡単に言えば、文字を見るあまりに言葉がつかえてしまう。だから「これだけは話したい」という項目をキーワード化してメモに残す。あとは実体験、そのときの様子を織り交ぜて話す。そのほうが自然だ。
 気づけば3月。主催者からは講演会のチラシや「石巻日記U」が届く。出来栄えに感激しつつ、気持ちを入れなおした。そして3月7日、石巻市は横殴りの雪が降る。真冬に戻ったような気温の中、新幹線で東京に向かった。
 会場は町田市つくし野のつくし野コミュニティセンター。前泊した横浜市からは電車で30分。石巻市は震災で在来線の復旧は平成27年とまだ先。仙台市から石巻市に訪れるには電車とバスを乗り継いで1時間。電車も30分に1本の割合。都心は5分と待たず、次の電車が来る。便利さには頭が下がる。エスカレーターでは右側をどんどん駆けていくサラリーマンの姿があった。「そんなに急いでどうするのだろう。あと5分早く自宅を出れば間に合うのでは」と他人のことを心配してみたりした。
 都心を少し離れてつくし野駅に到着。コミュニティセンターは駅前にあり、利便性が良い。中に入るなり、自治会防災部の近藤部長の姿があった。何度かお会いしており、紳士的で地域の将来像を常に考えている。被災地にも思いを寄せており、石巻市にも訪れたことがある。近藤部長が声を掛けると土肥さんら自治会の関係者が次々と集まり、会場設営に向けた準備が始まった。皆さん黙々テキパキとこなす。あっという間に設営完了。入り口には事前に石巻日日新聞から送った震災直後から現在までの写真30枚が展示され、来場者の関心を集めていた。石巻市を訪れた際お世話になった学習院大学の宮川教授も海外出張を終えて駆けつけてくれた。次々と会場入りする方々。時計の針は午前9時55分。開始5分前に迫っていた。

95.東日本大震災から3年                    H26.3.12

 朝から雪が舞う石巻市。「何か、嫌だね。あの日を思い出す」。老女がつぶやいた。きょうは3月11日。未曾有の東日本大震災から3年目を迎えた。あの日も地震直後に冷たい雪が降り、低体温で亡くなる人が多かった。だからこの季節の雪はとても辛く、切ない。老女は恨めしそうに空を見上げた。
 約4千人近い死者、行方不明者を出した石巻市。午後には追悼式が開かれ、約1200人の遺族らが出席した。遺族代表の言葉を述べたのは18歳の女性。中学校の卒業式を終え、自宅にいたところに地震が起き、その後の津波で一家は流された。曽祖父と祖母、母を同時に失った。黒い波に飲み込まれる中、女性は「これで終わるんだな。もっと生きたかった」と頭に描いたと言う。幸い、がれきの上に乗ることができ、一命を取り留めたが、下から女性の呼ぶ声が聞こえた。母親だ。しかし、がれきに足を挟まれ、一人の力ではどうにもできない。そうこうしている間に水位は上がる。このままでは自分も…。
 女性は「助けるか、逃げるか。今思い出しても涙が止まらない選択」と話していた。「行かないで」と声を振り絞る母に対し、女性は「ありがとう。大好きだよ」と話しかけた。母に対する別れの言葉。女性は何とか近くの小学校まで泳ぎ、命は助かった。だが、家族を失った悲しさは決して消えることはない。
 ここで女性は顔を上げた。「これから得ていくものは自分の行動や気持ち次第でいくらでも増やせる。辛い経験があって今の自分になれた。がんばって前を向きたい」と祭壇に語りかけた。無念の思いは変わらないが、一歩、踏み出す力がそこにあった。
 震災から「まだ3年」だが、被災地では少し変化があった。家族を失った悲しみを語り継ぎ、前に向く力に変えている人が増えてきたようにみえた。歩む歩幅は違って当然。4年、5年、10年、20年…。1年ごとに笑顔が少しでも見えることを願いたい。そして被災地の4年目が始まった。

94.リクエストで天気の話題                   H26.3.5

 東京都内に住む女性からうれしい手紙をいただいた。石巻日記を楽しみにしており、励ましのメッセージも添えられていた。こうした手紙はとても元気を与えてくれる。この場をお借りして感謝申し上げます。震災や被災地のニュースは3月11日が近づくと増え、この日をピークに少なくなる。そしてまた来年も3月に入ると増え、月末には話題はだいぶ少なくなる。先日、衝撃的というか、反面、納得するアンケートを見つけた。「東日本大震災の風化は進んでいますか」の質問に約4割が「どちらかと言えば風化が進んでいると思う」と回答。「風化が進んでいる」を合わせれば7割になる。残念だが、これが現実。でも被災地では「風化は進んでいない」と言い切れる。理由は?と問われれば「復興が進んでいないから」と答える人が圧倒的に多く、第一、あれだけの被害を3年で風化させるわけにはいかないだろう。
 話は戻るが、手紙にはリクエストがあった。それは天気の話。以前、石巻日記に石巻市では震災前、臭いで天気を占えると書いた。海沿いにニワトリや魚の加工残さを原料に飼料を作る化製工場があり、風向きによって市街地にこの臭いが漂ってくる。独特の臭い。始めてかいだ人は「うっ」となるが、石巻市の人は慣れたもの。風向きの変化で雨が近いことを察するのだ。すなわち確実な天気予報。それともう一つ、五感で分かる天気といえば、市内最大企業の日本製紙石巻工場の煙突から立ち上る煙(実はこれ水蒸気ですので環境に影響ありません)。風がなければ当然真っ直ぐ、風が吹けばもちろん右か左に流れる。臭いと風向きで大体の天気は分かってしまう。う〜ん。地元に住んでいてあまり感じなかったが、良く考えれば実におもしろいことだ。
 震災後の話をすれば太陽光発電の普及が著しい。市も設置補助を出しており、家を新築する人の多くは発電パネルを取り付ける。公共施設は当然。多分、今の石巻市を上空からみれば黒いパネルがいろいろなところに並んでいるだろう。石巻市は東北地方でも比較的温かく、気候も安定している。だから2月8日の大雪は91年ぶりと大騒ぎされた。また日照時間も福島県いわき市に次いで東北2位であり、太陽光発電にはもってこいの都市。最近では石巻地方(石巻市・東松島市・女川町)に再生可能エネルギーの基幹電源と言われる「メガソーラー」も建設され、新たな産業が生まれようとしている。
 外からみれば「石巻は気候が安定していいよね」と言われてもおかしくないが、多分、この地域に住む人なら誰でも感じることがある。それはまとまった雨や雪が降った翌日はなぜか強風が吹き荒れる。
 「きょうは雨だから、あすは風が強ええ(強い)なぁ」とつぶやきつつ、今回は石巻日日新聞社内からどんよりとした雨雲と日本製紙の煙突を写した。

93.そわそわする理由                     H26.3.1

 「2、8(にっぱち)はネタが薄いから何か企画取材を考えるようにな」。記者になりたてのころ、よく先輩から言われた言葉だ。2月、8月は行政も動かず、あまり新聞ネタとなるものが少ない。だから企画取材などを書き溜め、紙面を埋めるという意味だ。ただし、今の石巻市ではこれが通用しない。震災からの復興で事業が動いているのだろうか。3月11日を間近に控えて世の中の関心が被災地に寄せられているのだろうか。1日があっという間に過ぎる。気づけば3月1日を迎えていた。
 間もなく震災から3年。なぜかこの時期になると気持ちがそわそわする。ちょうど、あのときも市議会が開会し、会社で打ち合わせがあるので一度、社内に戻ったところで被災した。市議会がある議会棟は天井が崩落、あのまま、あの場所にいたらどうなっていただろうと思うとぞっとする。どこで明暗を分けるか分からない。3年の月日を経てようやく市役所6階に議会棟が復旧した。だからよけいにそわそわする。あのときと環境が似ているのだ。

 同じような境遇は多くの人が感じる。「何か嫌だよね」「3年前のあのときの場所に居たくない」「何も起こらないよね」。何も起きないとは断定できないが、市民の間には不安が走る。あの日が近づくにつれて記憶が鮮明に蘇ってくるのだ。だから被災地では記憶は風化していない。むしろ忘れたくとも忘れられないのだ。
 私は来週末(3月8日)に東京都のつくし野コミュニティセンターで被災地の現状をお話する機会を頂いた。つくし野2丁目自治会は、地域防災のあり方を問いかけ、被災地から学ぼうと視察を行うなど精力的。主催する『きぼうのきずな ひとつ』も石巻市の出身者。離れていても思いが共有できるのが何よりも心強い。
 さて何を話すか。当初は震災を風化させないために3月11日の様子を中心にしようかと考えたが、そうでないことに気づいた。風化させないことは大事だが、同じような惨状を招かないために住民は、地域は、行政はどうあるべきか。東日本大震災から学ぶ減災とは何か。そして復興にはどんな壁が待ち受けているのかを中心に話すことにした。
 日本は活断層の上に乗っかっており、いつまた同じような災害がどこで起きるか分からない。むしろ起こる可能性が高いだろう。東日本大震災ではよく言われた「想定外」。次はこの言葉を使うことはできない。防災体制の構築が急がれる。

92.大雪とボランティア                    H26.2.19

 発達した低気圧が日本列島を縦断し、石巻市でも2月9日は記録的な大雪に見舞われた。観測史上2番目という38センチ。しかもこれだけ降ったのは91年ぶりという。91年前はもちろん生まれていないので、ほとんどの人は思い出すことはない。雪には比較的慣れている地方だが、それでも車のトラブルは相次いだ。
 困ったのは半島部の道路。震災で地形が変わり、場所によってはガードレールもなく、一歩間違えば海やがけという場所も少なくない。そこが雪で真っ白になるわけだからどこが道でどこからががけなのか見分けるのが大変。取材も命がけだ。
 追い討ちをかけたのが除雪の遅さ。行政の対応が行き届かず、市内の幹線道路はいたるところで圧雪。ハンドルをしっかりにぎっていても車がお尻を振る。市に対する苦情も相次いだ。ようやく3日、4日目になってそこそこ走れるようになったが、大雪から10日が過ぎた19日も路肩にはこんもりと雪が残る。石巻日日新聞社の駐車場にもまだ雪山がある。気温が上がらないため、まったく解けない。幸い好天が続いているが、それでもダメ。上から熱いお湯でもかけたくなるようだ。
 そんな大雪に悩まされる2月だが、感心することがあった。断続的に雪が降る中、東京都から訪れた学生ボランティア11人が急きょ、石巻駅前で雪かきを開始した。そもそも地域の拠点づくりを狙って訪れたという。「駅前は人通りが多いので雪があると通行に支障がある。作業がスムーズに進んでよかった」。何とも頼もしい言葉だ。人が歩けるように雪をかきわけて道を作る。若い力であっという間に通路ができた。歳月とともに震災ボランティアが少なくなっており、貴重な存在だった。
 震災を忘れてはならない。忘れさせてはならないという市外の人たちの心強さを感じる。いつまでも被災地に目を向けてもらうためにも私たちは情報発信が大切だ。復旧、復興の歩み、人々の苦悩や悲しみ、喜びを伝えていかなければならない。なぜか、答えは明らかだ。震災を教訓に同じような悲劇が起こらないように防災意識を高めてもらうことに他ならない。

91.仮設住宅で家屋傾斜                    H26.2.8

 正直、いつかはこんな日が来るとは思っていた。石巻市が発表した仮設住宅の家屋傾斜だ。石巻市の仮設大森第3団地(216戸)の一部で家屋に傾斜があり、めまい、頭痛、ふらつき感など健康被害が懸念される状態にあることが分かった。市内に建つ仮設住宅は約7000戸。震災後は1日も早く建設しなければならず、市有地のほか、民有地の無償賃借で次々と整備した。あんなところにも、こんなところにもプレハブ型の仮設住宅が建ち、災害の大きさが改めて実感できた。
 傾斜があった団地はかつて水田だった。傾斜が見られたのは農業用水路があった場所。ちょうど棟と棟との間の通路部分がくぼむような形となり、直線状の6棟48戸が0.5度から1度、南側に傾いた。1度と聞いてもピンと来ないだろう。しかし、住宅内に足を踏み入れれば何となく体がおかしい。そこに住む家主がゴルフボールを置くとゆっくり転がり始めた。寝ていると南側に頭が引っ張られて血が昇る感覚もあるという。今に始まったことでなく、昨年あたりからどうもめまいが起きるようになっていた。
 宮城県の基準では0.4度以上は健康被害が懸念されるレベル。1度となればもはや地盤改良が必要だ。設置主体の県では、解体して地盤を直し、再び建てる考え。期間は約2か月。それまでは他の仮設住宅に移ってもらう見通しだが、住民の思いとは乖離(かいり)がある。「どうせ、来年にはここを出て復興公営住宅(市営住宅)に移る。いまさら傾きも慣れたよ」と移転には否定的。県や市はいったん出て再び戻るという流れを説くが、住民側からすれば移転で住民がバラバラになり、せっかく築いたコミュニティーが崩れるのではないかと心配する。行政の思惑通りにはいかない。
 近く説明会を開くが、どこで着地点を見出すのか。今回、発覚したのはこの団地のみだが、震災からまもなく3年。仮設住宅の老朽化も進んでおり、どこかで同じような事象が起きてもおかしくない。今回はすぐに家屋が倒壊するという危険はないが、他の仮設住宅に住む住民にとっても「うちは大丈夫?」という懸念が渦巻く。
 一つ加えておくが、傾きに慣れたといって次に新しい住宅に移った場合、並行感覚が狂って健康被害を及ぼす可能性も否めないという。いずれにしても早い対策が必要だ。

90.時が止まったまま                     H26.1.27

 人の記憶は時間の流れとともに風化する。震災も同じ。でも被災地では後世に伝えていかなければならないことがたくさんある。被災地だけではない。ここを情報発信源に全国、全世界に広げ、有事のときにはどうやって命を守るのかを考えていく必要がある。そのシンボルとなるのが震災遺構だろう。
 被災3県(宮城、福島、岩手)では遺構の候補が次々と解体されている。地元の意向を尊重しており、確かに壊れた建物を目にすると「あの日」の情景が浮かぶ。だから残さなければならないと感じるが、遺構の周辺に住む人は毎日その姿を目にするたび、辛い思いだけがこみ上げる。遺構の周辺に住んでいるか、否かでは考え方に温度差が出ている。
 地震、津波、火災で全壊した石巻市立門脇小学校の校舎。テレビでも幾度となく取り上げられ、震災のシンボリックな存在にもなっている。先日、官民組織の震災伝承検討委員会が内部を視察した。報道機関も同席が許された。校舎の外観はシートで覆われており、外から内部を伺うことはできない。私たちも内部に立ち入るのは震災直後以来。校舎は中央階段を挟むように東側は火災で焼失、西側は津波被害を受けた。すなわち東側は焼け焦げた跡が今もそのまま残っており、西側は固まった汚泥など異物がみられるが、2階には何となく使えそうな教室も存在する。同じ建物でこうも違うのかと驚かされたのと同時に3月11日の記憶がよみがえる。

 伝承委員の多くも言葉を失った。委員長も「複雑な心境」と語るほどだ。内部を見る前は何となく流れが遺構として残す方向にあったが、視察後はニュートラル状態。それだけインパクトが強かった。床に散乱したランドセルや文房具が今でも持ち主を待つ。教室に張られた学校給食の献立も2011年3月のもの。ここだけ時が止まっているようだ。だからよけい辛くなる。
 一方、東側は天井や床も焼け焦げ、教室の机やいすはパイプ部分を残すのみ。廊下の天井からは部材が垂れ下がっており、溶けて固まったガラスもあった。どれだけの高温だったのか。震災当時、校内には約220人の児童らがいたが、校舎を出て裏山から高台に上ったため、犠牲者は出なかった。
 伝承委は今後、議論を重ねながら今年12月にも結論を出す。残すか、残さないのか。残すのであればその意義が明確でなければならない。重圧がかかる。

89.宅地区画減、公営住宅増                   H26.1.18

 当たり前のことになってきたが、ときどき考えることがある。それは「被災地では新しいまちを作っているんだな」ってことだ。家を建てる。公園を整備する。ビルを建造する。すなわち個ではなく、面として整備することだ。まちは長い歳月をかけて整うもの。被災地では復興に時間をかけてはいられない。通常、20年、30年かけて徐々に整う街並みを震災があった年から数えて10年で作ろうというのだ。これって単純に考えてもすごいこと。できるのだろうか、と疑心暗鬼に陥ることがあるが、やっていかなくては復興はありえない。
 通勤や取材で車を運転するが、日中は1分以内に大型車とすれ違わない日はない。土砂や資材を積んだ車両が復興現場に出向く。何往復するのだろう。いや何十、何百になるのだろうか。とはいえ、復興が目に見えてくるのはこれから。石巻市ではまだ雑草に覆われた更地が目立つ。新市街地と呼ばれ、沿岸部で被災し、住居を失った人が移転してくる場所では土地区画整理事業が本格化しており、重機がうなりを上げている。
 仮設住宅などで暮らす人たちは3万人近く。誰がどこに住むのかをしっかり把握し、家を建てるための宅地造成や復興公営住宅(災害公営住宅)を建てなければ土地が無駄になる。そこで石巻市が昨年実施したのが事前登録制度。これによって誰が、どこに、どんな形式で住みたいのかが分かる。その結果、土地を求めて家を建てる人より、公営住宅に暮らす人が圧倒的に多かった。
 市では1月17日、この事前登録を踏まえ、土地利用を見直した。1710区画予定していた宅地は1438区画にして272区画減らし、公営住宅は12団地432戸増やして43団地2800戸とした。新市街地全体の造成面積は変えておらず、宅地はニーズを反映させ、最大75坪から100坪まで増やした。すなわちゆとりがある暮らしができるようになるが、、その分、個人の持ち出しも増えることも忘れてはならない。
 でもこれで終わりではなく、まだどちらにも登録していない人が全体の約3割、4000世帯いるのだ。「子どもの進学先によっては家を建てるか、一時的に公営住宅に暮らすかを考えなければならない」など理由はさまざま。決めかねている人が多いのだ。宅地の場所、公営住宅の部屋(何階何号室)が決まるのは3月末。重複した場合は抽選となるなど最後まで気が抜けない。やむを得ないことだが、抽選機のガラガラポンで将来の生活が決まるのは何度見てもやるせない。多くの市民も同じことを考えているだろう。

88.高校生たちの支援                      H26.1.14

 新聞社はスポーツの主催大会が多い。石巻日日新聞でも少年野球やミニバスケ、サッカーなど一つの大会が終わればまた次の大会に向けて準備を進める。震災前はゲートボール大会や父の日の似顔絵展も実施していた。やはり子ども達や地域と関われるのは楽しい。何よりスポーツに励む子ども達の笑顔と汗は、大人たちに元気と勇気を与えてくれている。
 雪や雨にも負けない競技と言えばサッカー。昨年から東京都調布市の明治大学付属明治高等学校と共催しており、今年が2年目となった。明治高とのつながりもやはり震災が縁。東日本大震災で失ったものはあまりに多いが、その後につながりは復興の大きな支えになっている。明治高の支援は5年間。サッカー部員らが石巻市を訪れ、大会の審判を行うほか、高校では選手たちにカップや記念品もプレゼントする。本社が主催していた大会に厚みが増した形だ。しかも今年は一般公募の生徒も参加し、総勢約50人が訪れた。生徒たちは前日に被災地を視察。生徒会長の赤坂菜摘さんは「がれきが残っていると思っていたが、がれきどころか更地が広がっている状況。これはテレビでは分からない。風景が失われたことに愕然とした。私たちに何ができるか。真剣に考えたい」と話していた。他の生徒も同じ。被災地を直接見ることで現状が理解でき、復旧から復興への歩みにも触れることができる。
 サッカー大会の会場は仮設住宅団地の隣。土のグラウンドで恵まれた環境とは言えないが、そこに立地する企業が整備した。震災でスポーツ施設は解体され、そこに仮設住宅などが建った。運動施設がすべて復旧するにはまだまだ長い時間がかかるだろう。だからこうした企業支援はありがたい。  
 明治高校の生徒たちは仮設住宅の集会所前でおしるこを作り、選手や保護者、仮設住宅の入居者に手渡した。温かさと甘さが伝わるおしるこ。寒い冬にはうってつけだ。「ありがとね」。入居者からの返答に生徒たちも笑顔を見せていた。おしるこ作りを指導したのは、この仮設住宅団地に住む自治会や女性たち。仮設内での行事はあるが、外部と直に接する機会はそれほど多くない。生徒たちは気軽に声をかけ、和やかな雰囲気の中でおしるこづくりが進められた。こうしたソフト面での支援が地域に元気を与えている。

 「また来年も来たいです」。赤坂生徒会長の言葉を思い出す。忘れないこと。忘れられないこと。これこそが復興の原動力だ。

87.若い力が後押し                       H26.1.4

 平成26年(2014年)の幕が明けた。石巻地方は相変わらず寒さが厳しい年末年始となったが、年明けは比較的穏やか。大きな事故もなく、三が日が過ぎた。市内を一望できる日和山の鹿島御児神社は市内を代表する神社であり、初詣の参拝客も多い。
 境内では、笙(しょう)の音が響き渡る。家族連れに交じって若者グループも多く、受験生の姿もあった。「もうここまで来たら神頼み。何とか合格できるように残された時間を大切にしたい」と息を弾ませる。日和山の眼下には雑草が生い茂る更地が広がる。そこに生活感や人々の息吹は感じられない。神社で拍手を打った後、くるりと背を向け、更地やその奥に見える海に向かって静かに手を合わす人がいた。
 「本当に石巻市は復興するのだろうか。市長は復興が見える。実感できる年というが、本当にそうなのだろうか。この状況を見る限り、にわかに信じることはできないが、でもどうせなら実感できる年になってほしい」。
 石巻日日新聞の新年号では若い力にスポットを当てた。6年後の東京五輪を控え、スポーツに打ち込む今の中高校生らに夢を語ってもらった。誰もこの地を離れるという気持ちはなく、地域に根付きながらスポーツに取り組み、地域を元気づけたいという思いがひしひしと伝わってきた。夢を諦めたらそこでおしまい。だから生徒たちは前を向く。今の石巻地方は大人を中心に元気が今ひとつ。震災の疲労が拭えず、精神的にも肉体的にも辛い時期に入っているのも分かる。立ち上がる速度は違って当然であり、無理にとは言わないが、元気な子ども達から少しでいいのでパワーを受け取ってほしい。
 地域の将来を担う子ども達は自らも復興に携わろうとアピールしている。大人も自分たちだけで考えるのでなく、子ども達の力も借りてみることはとても重要。今の子ども達は単なる夢ではなく、その夢を実現させるためのプロセスもしっかり描いている。参考にすべきだ。その協調性が復興を後押しすると思う。

86.復興への歩み                       H25.12.26

 日中は横殴りの雪が降ったと思ったら夕方には雲の切れ間から日が差し込んだ。冬の天気は目まぐるしい。震災があった平成23年3月11日も地震発生直後から雪が降り出し、1時間後には止んだ。そして灯りを失った市街地の上空には満天の星空が輝いていた。どうも冬場の天気の移り変わりは「あの日」を連想させてしまう。
 この日、写した写真は夕日に染まる新蛇田地区の造成地。ここは大型ショッピングセンターの目の前にあり、震災前は青々とした水田が広がっていた。しかし、沿岸部は津波で壊滅被害を受け、石巻市は被災区域を規制。区域内に家を建てて住むことはできなくなった。そこで内陸部には防災集団移転促進事業で新市街地が形成されることになった。新蛇田地区は市内では最も広い。事業面積は87.6ヘクタール。東京ドームが約4.7ヘクタールと言われており、実にドームの18.6倍。ここに2000戸以上の戸建て住宅(宅地供給)や復興住宅(公営住宅)が整備される。完成は平成32年度だが、来年度には一部で宅地供給が開始される。
 今は造成地に雪が積もっており、その上を重機が音をたてて進む。復興の槌(つち)音と言うのだろうか。今はまだ何もない更地。「ほんとうにここに街ができるの?」「石巻はほんとうに復興できるの?」「何を持って復興と言うの?亡くなった人たちは戻ってこないのに」。この1年。多くの市民の声を聞いた。即答できないものも多かった。それだけ被災の状況は異なる。記事で復興という言葉を書かない日はないが、この復興に乗っかることができない人たちだってまだまだいる。
 歩む幅や立ち上がる速度は違っていい。それだけ大変な日々を送っているのだ。でも皆が異口同音するのは「風化が進んでいるのではないだろうか。それが一番寂しい」。テレビ番組を見ても被災地、震災の言葉はめっきり少なくなった。都心では都知事選の動向が注目されている。「被災地は復興半ば」と言われるが、本当に半ばを迎えるのは平成26、27年ごろ。今年も3万人近い市民が仮設住宅などで年を越す。
 当たり前の生活が当たり前でなくなった「あの日」。私たち報道に携わる人間にとって一番大切なことは、今の被災地の状況を的確に素早く報じていくこと。そして石巻日日新聞社のような地方紙は地元に密着し、市民が一歩でも前に踏み出せるようなニュースを届けていくこと。さらに苦しみや悲しみ、喜びを共有できる取材に徹するしかない。
 平成25年も間もなく終わる。来年こそは復興が実感できる年になってほしい。でも歩幅は一人一人違って当然だ。

85.クロスカントリー                     H25.12.13

 第46回やもとクロスカントリー大会が12月8日に行われた。もうすぐ半世紀を迎える歴史ある大会。市内外の健脚自慢が集まっており、最近は陸上スポーツ少年団などの参加でレベルが上がっている。私も昨年から次男とファミリーの部(1.5キロ)に参加しており、今年が2年目。とは言ってもファミリーは小学3年生以下であり、実質、この部門で走るのは今年が最後となった。
 昨年は2部に分かれて行っており、6位の成績だったが、トータルでは14位。今年は77組(152人)がファミリーの部に出場した。この日に向けて平日は午後8時ごろから近所を約2キロ走るなど通年を通して練習してきたつもりだ。夏場はダイエットをかねてあえて厚着、冬場はいくら走っても汗がかきにくく、その上寒い。次男も走るとなると表情を曇らせるが、走り始めればスピードに勢いがつく。校内の学年別マラソン大会では今年が2位。1位との差は1秒差であり、来年の4年生では悲願の1位を取りたいという。
 さぁ、いよいよクロスカントリー当日。集まったのは9種目に約800人。昨年は受け付けが遅れて最後の方に並んだが、今年はスタートラインを取ることができた。1.5キロは短距離であり、駆け引きは難しい。よってほとんど最初からダッシュ状態。ただし、相手のペースに巻き込まれると途中から失速する。何組かの家族はスタートダッシュで先行したが、500メートル当たりからスピードがどんどん落ち始めた。私たちは一定のペースを保って走り、何とか上位集団につけた。1キロを過ぎれば越すこともなければ、越されることもない。ただしペースを落とせば抜かれる。体力を少し温存しながら最後の数百メートルでラストスパート。1−2組程度は越しただろうか。タイムは6分29秒。昨年よりはだいぶ早くなったが、全体的なレベルは上がっており、順位は微妙。この次点では自分が何位だったのか分からなかったが、12日に集計票が自宅に届いた。結果は14位。んっ?昨年と同じ順位だ。
 劣ってなければ伸びてもいない。いや、まてよ。今年のレベルを考えたら上がったとみていいのだろうか。と勝手に解釈することにした。結果はともかく、やはりスポーツは楽しい。新聞社は師走に入り、新年号の準備で繁忙期を迎えている。でも時間は自分で作るもの。仕事とプライベートを割り切ることが、効率性を生むと思う。今年もあと3週間程度。風邪を引かず、新年号をしっかり仕上げ、仕事も生活も大切にしながら新年を迎えたい。


84.スポーツこの1年                      H25.12.6

 母校であった開校記念集会の講師依頼の通知直後、今度は会社で通知を受け取った。「今度は何だ?」とびくびくしながら開封したら、ラジオ石巻年末特別番組の出演依頼だった。今年の夏、石巻日日新聞社が主催する石日旗少年野球大会の決勝戦は地元FM局「ラジオ石巻」の協力を受け、実況生中継を行った。折りしもその生番組で解説者として出演させていただいた。通知には野球大会を振り返り、今年の石巻地方のスポーツはどうだったのかを話してほしいという内容だった。
 スポーツは好きだが、新聞社内での担当は政治。仕事上は本紙主催のスポーツ行事以外に携わる機会は少ない。今年1年のスポーツはどうだったろうか、と自分なりに振り返ったところ、野球以外にも柔道、陸上、サッカー、ラグビーなどで大きな活躍があった。地域の復興に伴ってスポーツも徐々に活気を取り戻してきた。まさに今年は「復興スポーツ元年」といってもよいほど。スポーツを通じた笑顔、元気、躍動感が復興を後押ししていることを強く感じた年でもあった。
 ラジオ石巻での収録は12月6日に行われた。収録の半分は石日旗大会。開会式や試合の様子を振り返り、僅差の勝負が多かったことを伝えた。すなわち力の差はほとんどない。どこにでも優勝のチャンスはあるのだ。ここでは課題も提起した。団員不足である。震災後はとくにスポーツ少年団への入団をためらう保護者が多い。なるべく子どもをそばにおいて置きたいという表れだろうか。でも子ども達は団員の前に地域の一員。団や保護者だけの問題ではなく、地域の課題として取り組むことが大切。スポ少は「人材を育てる地域組織」であることを忘れてはならない。という話も加えさせてもらった。
 スポーツが盛んになれば地域に活力が生まれる。復興のバロメーターともなっていることを収録の合間に感じた。ちなみに放送は大みそ日の午後2時から1時間半(3人が話すので私の分は30分)です。
 

83.開校記念集会                        H25.11.30

 母校の開校記念集会で講演することになった。ことの発端は今年4月。教職員歓迎式で学校長と杯を交わし、学校教育について語り合っていたとき、「11月に集会がありますのでそのときぜひ話して下さい」と言われたことを覚えている。社交辞令かなって思っていたら10月に入って改めて呼びかけられ、11月には依頼通知が届いた。
 これまで中学生や一般向けに講演したことはあるが、どちらかといえば震災関連。今回のお相手は小学4−6年生の児童。時間は45分間。限られた時間、低い対象年齢の中でいかに話しを分かりやすくし、記憶に残るようにすべきか。悩んだ末のタイトルは「夢を追う」。これまでの取材活動を通じ、夢を追う、すなわち目標に向かって努力することの大切さを訴えた。
 スライドを使った講話。出だしの文字は「3分間」。児童も「何これ?」と思っただろう。ウルトラマン、カップラーメン、キューピー3分クッキング。3分にはそれぞれ意味があることを伝え、次に45分間(小学校の授業時間)、そして15分間とスライドを進めた。人間が短時間で集中できる限界は15分。だからここからの話は15分でまとめますという、いわゆる前座の話。その後の本題では、夢は実現するだけでなく、夢を持ち続けていることが大切であり、それには小さな目標を持って達成感を積み重ねる。たゆまぬ努力をする。周囲の人と支え合いながらあすを楽しむと話しかけました。字で見るとちょっと小難しい感じですが、実際はもっと柔らかく話したつもりです。
 これを15分でまとめた後は震災後に石巻地方を訪れた芸能人や有名人を写真で紹介。15分間でしたが、これは盛り上がりました。そして最後の5分は「さようならドラえもん」がテーマ。ドラえもんが未来の国に帰る前夜。ジャイアンとけんかしたのび太は逃げることなく立ち向かいます。「ぼくが勝たないとドラえもんが安心して未来に帰れないんだ」。と声を絞り、ついにジャイアンに勝ちます。のび太は勝利することでドラえもんを安心させる夢をかなえました。だから皆も自分の力を信じて前を向き、助け合いながら進んでほしいと呼びかけ、最後の8分は質疑応答。2分余して終えることができました。
 復興した地域を背負うのは今の子ども達。被災地は雑草が生い茂る更地ばかりが目立ちますが、この更地にも必ず復興の槌音は響いてくる。だからこの街を捨てず、夢を見出してほしい。この気持ちが伝わればいいなと感じた講演だった。

82.比台風30号被害                      H25.11.19

 ニュースをみて驚いた。11月8日にフィリピンを襲った台風30号。今年発生した中では最も勢力の強い台風と言われ、上陸前から被害が懸念されていたが、19日現在、死者は4000人に達しようとしている。東日本大震災か、それ以上の自然災害になりそうだ。同じ被災地として1日も早い復旧、復興を願うばかりだ。
 被害を大きくしたのは「段波」と呼ばれる現象という。海面に高さ約3メートルの切り立った波が発生していた可能性が高く、この段波が沿岸を襲ったことで被害が拡大した。いわゆる高潮災害だ。また一つ自然の脅威を知った。
 都市タクロバンのあるレイテ湾は家々がつぶされ、至るところに水溜りができ、まるで震災直後の映像を見ているようであり、あの日を思い出さずにはいられない。路頭に迷う住民、両親を求めてさまよう子ども達、横たわる無数の遺体、人々の表情からは絶望感だけが読み取ることができる。まったくもってあの日と同じ状況だ。
 日を重ねるごとに増える死者。水も食料もない。フィリピンでは略奪もおき、銃撃もあったという。石巻市でもコンビニが荒らされたり、ATMが壊される被害が一部であったが、それよりも助け合いの心が目立った。泳いで逃げ、知らない住家に飛び込んだ人も多かった。あまりの寒さにそこにあった衣類に手を伸ばし、一夜を過ごした人もいた。その部屋には知らない人も数人おり、皆、申し訳なさそうな顔をしていた。あの日、あのとき、あの行動が間違っていたのか、正しかったのかは誰も分からない。ただ生きるために必死だった。
 「店が閉まっていたらドアを破ってメモを残し、中からゴムボートを持ってきてほしい。責任は取る」。浸水する市役所の中で幹部職員が発した言葉だ。本来、行政マンが発する言葉でないのは分かるが、市民のために何とかしなければならないという表れ。誰からも叱責されることはなかっただろう。幸い、浸水を免れた釣具店には店員がおり、理由を話してボートを持ち帰ることができたという。このように石巻市では自分のためだけではなく、皆のために行動を起こす人が目についた。
 フィリピンは今後、石巻地方と同じような復興路線を歩む。大規模災害に見舞われれば課題はどこも共通していることが分かった。東日本大震災の被災地は復興へのモデル。防災も含め、得るものは大きい。

81.もちつきペッタン                       H25.11.5

 前回からの続き。田んぼの学校で収穫した米を使って11月1日には小学校で「収穫祭」が開かれた。学校にとってもPTAにとっても大きな行事である。私はPTA役員の手前上、前日から準備に没頭。早朝から畑に入って大根を55本抜き、葉を切り落としてきれいに洗い、まだ誰も来ていない学校の昇降口に置いた。
 これで終わりではない。今度は夕方から借り物競争のように地域をめぐり、収穫祭のもちつきで使う杵(きね)と臼(うす)、もち米を蒸かすための薪ストーブ、雑煮を作る大釜などを借りに歩いた。東松島市赤井地区は農業地域だが、それでも杵、臼を持っている家庭は激減した。これも震災の影響である。
 話はちょっと横道に反れるが、震災後は当面の間、市内の一区画が廃棄物集積場になり、大量の震災ごみ(ごみといっても元は家財です)が集まった。その中には杵と臼も数多くみられた。海水を吸ってカビが付着したものもあり、再利用は不可能。「毎年、借りるのに不自由しているが、市内にはこんなにあったんだなぁ」と感じるほどだった。
 そのため、地域の公民館(東松島市では市民センターと呼びます)を含めて7セットをそろえることができた。貸してくれた方々には本当に感謝。電動もちつき機も4台集まった。これらをトラックに積んで学校までピストン輸送。日没ごろには終わったが、前日から結構な重労働となった。
 そしていよいよ当日。昨年は寒波の影響で最高気温が10度を下回り、12月中旬ぐらいの寒さだったが、今年は風もなく穏やか。児童がマラソン大会をやっている間に、私たちは収穫祭に向けて薪で火をおこし、小釜の上に蒸し器を乗せて米を蒸かした後、電動もちつき機でもちを作りながら、杵、臼用に米を残した。使用したもち米は約70`。これを児童、保護者、地域住民約200人で食べる。雑煮は大釜2つ分、それにあんこもちをそろえた。
 もちつきでは学年ごとに1臼ずつ(5年生は人数が多いので2臼)使ってもちをついた。大人が手本を見せ、米をよくつぶした後、ペッタン、ペッタンとつく。じっと見つめる子ども達。次に大人が手を添えながら全校児童が杵でもちをついた。2年生以上は恒例行事だが、1年生は初めて。歓喜が響いていた。やはり、杵でついたもちは違う。コシが強く機械では絶対に出せない味。雑煮、あんこもちの列に何度も並ぶ児童もいた。「俺5杯目。まだまだ大丈夫」。こんな声も聞かれる。
 学校行事は徐々に震災前の状態に戻りつつあるが、これも地域や被災状況によって違う。当たり前の生活、普段の暮らし、何気ない行事がどれほど大切かを考えさせられた。 

80.田んぼの学校                        H25.10.29

 石巻地方は石巻市、東松島市、女川町の2市1町で構成される。行政とのつながりが深く、兄弟みたいなものだ。基幹産業は石巻市が農漁業、女川町は漁業、東松島市は農業。最近では生産から加工販売までの6次産業も進んでいる。
 東松島市には小学校が9校、中学校は3校ある。震災前は14小、中学校があったが、被災に伴って本年度から統合新設された小、中学校がそれぞれ1校ずつあり、実質は2校減となった。このうち赤井小学校がある赤井地区は農業が盛んな地域であり、田んぼの学校と呼ばれる田植えから収穫までの一連を体験する授業は県のモデル的存在でもある。農業地域だからといって児童全員が農作業に詳しいわけではない。サラリーマン世帯も多く、田んぼに入って田植えを行ったことがある児童は一握りもいない。でも1年間、こうした授業を通じて学ぶことで食に対する感謝の気持ちが生まれる。学校給食の食べ残しも少ないという。
 収穫期を迎えると恒例の風物詩が見られる。校庭のジャングルジムを使って天日干しされていた稲だ。ジャングルジムが毛むくじゃらのように稲で覆われ、もちろん3週間ぐらいは児童も使えない。知らない人がみれば、巨大な稲の山だろう。この稲の脱穀が先日あり、児童は昔ながらの足踏み式脱穀機と現在の機械式(ハーベスター)の2つを体験して農作業の効率化と先人の知恵を学んだ。足踏み式はペダルを漕ぎ続けることでドラムが回転する。このドラムにはU字型の針金が埋め込まれており、ここに稲を当てるとポロポロともみが落ちる仕組みだ。昭和の時代に使われていたものだ。
 稲の束をしっかり持っていないとドラムに引き込まれそうになる。児童は「力が必要だったけど慣れてくれば結構おもしろい」と話していた。中には「うちにまだあるよ」と語り、慣れた手つきでもみを落とす児童も。これには驚いた。この米はみやこがねという品質のもち米。11月にはこの米をふかして学校行事で収穫祭を行う。きねとうすでもちをつくのだ。赤井小学校の年間行事の中でも学校、地域、保護者が一体となって成し遂げる行事。地域は震災で田んぼに塩水が入る塩害被害を受けたが、少しずつ復旧の道を歩んでいる。毎年、黄金色の稲の数が増えるとそれだけ復旧を感じる。地域が前を向いていることを実感できる場面だ。 

79.地域の祭り復活                       H25.10.14

 東日本大震災から2年7か月が過ぎた。皆の記憶はどうなっているだろう。被災地と首都圏、関西ではどのぐらい開きがあるのだろうか。震災を口にする人はどのぐらいいるのだろうか。宮城、岩手、福島は忘れられてはいないだろうか。震災を教訓に防災への備えはしっかりできているのだろうか。日ごろ、他県の人と話しをすると脳裏にこんなことが過ぎる。先日も外国人と話をしたとき、「復興できたことを祝います」と言われて私は苦笑い。
 それと「前の状況がどうだったのか、分からないので復興しているのか、どうかも分かりません」と言われたときもあった。これには納得。震災前の市街地の写真はあまり残っておらず、市民ならどう変化したのか一目瞭然だが、他県の人がみれば荒地は分かるが、前はどうだったのかを知る術がない。何気ない街中の風景を写真で残しておくべきだったが、まさか地域を壊滅させるほどの震災が来るとは想像できず、それを見越して写真を撮っていた人はいないだろう。
 震災は人命や街並み以外にも歴史や文化にも爪あとを残した。10月13日、震災後初めて「牡鹿鯨まつり復活祭」が行われた。石巻市の市街地から車で約1時間。半島の先にある牡鹿鮎川地区は捕鯨を中心に栄えた町。毎年、8月になると「牡鹿鯨まつり」が開かれ、ツチクジラの焼肉などが振る舞われた。石巻の人にとってはクジラは比較的楽に手に入る。すなわち口にする機会も多いのだ。ミンククジラの刺し身は食べたという人は結構多いと思うが、ツチクジラの焼肉はどうだろう?そんなに多くはないはず。でもあの香ばしさは独特。それを楽しみにするファンも多い。
 まつりの復活は焼肉の復活であると同時に、会場では地域に伝わる伝統芸能も披露され、活気と笑顔を呼び込んだ。震災前に行っていた古式捕鯨(海の中でクジラの模型に人がまたがり、仕留める様子)ショーや花火大会はなく、規模は縮小されたが、それでも地域復活に向けた起爆剤になったに違いない。今年はこうした復活祭が多い。まだまだ時間はかかるだろうが、失われた行事や祭りが復興とともに再開されることを願いたい。

78.西高東低                          H25.10.5

 「西高東低。」この言葉を聞いて何を連想するだろうか?「冬型の気圧配置」と答える人も多いのではないか。
 私ならこう答える。「今の石巻市」。市内では仮設住宅から次のステップになる復興公営住宅の整備が少しずつ進んでいる。入居のピークは平成27年から28年ごろ。石巻市は旧北上川をはさんで東部、西部に分けられる。東部は魚市場や水産加工団地、風光明美な牡鹿半島があり、水産業が盛んなエリア。西部は大型店舗を含めた商業地と農地が広がり、農業、商業エリアといったところだ。
 東部、西部それぞれには新市街地と呼ばれ、震災で住宅を失った人が新たに暮らす土地が整備される。広大な面積であり、公営住宅は西部がマンション型、東部は戸建て、長屋住宅を予定している。ここで西高東低の意味がでてくるのだ。西部は大型ショッピングセンターが立ち並ぶ商業地が目の前。何をするのにも便利だ。一方の東部は田園地域の中にあり、近くは住宅街。市が行った事前調査では移転希望地域は西部9、東部1の割合となったのだ。
 このままでは市域のバランスが崩れる。そう踏んで東部地区の新市街地には学校や消防、医療などを集積させ、公営住宅もゆったり感のある戸建て、長屋住宅を建てることにした。機能性を高め、公共施設を集約させたコンパクトシティーを創造することで定住化を図ろうという仕組みだ。石巻市では現在、どこの公営住宅に住みたいか、またはどこの新市街地に住宅を再建したいかを問う事前登録制度を行っている。締め切りは11月29日。窓口は毎日満杯だ。これで偏りがみられれば再考、もしくは抽選になる。希望する公営住宅が決まれば今度は部屋割り。階層も含めて先着というわけには行かない。まずは高齢、障害世帯、子育て世代など優先者から決め、最終的には抽選機で部屋が決まる。
 
正直つらい。被災してなおも復興公営住宅で抽選。被災者にとっては落ち着かないというのが本音だろう。土地が限られているだけにどうしようもできない。国内では消費税増税だ、東京五輪だという話題が多いが、くれぐれもこれだけは伝えたい。復興はまだまだ途中だ。
 

77.復興と東京五輪                       H25.9.25

 石巻市議会は9月定例会の真っ只中。毎年、この時期は前年度の決算議会であり、お金がどのように使われたのかを議会がチェックする。震災前の石巻市の年間予算は約600億円。人口16万人の地方都市とすれば、だいたいこんな感じだろう。しかし、震災後は国や県からの復興予算がどんどん投下されている。平成24年度の歳入決算額は3696億円。震災前予算の6倍であり、県予算に匹敵する。
 復興予算は27年度まで確約されているが、それ以降はどの程度が被災地に届くのかは分からない。石巻市では現在、被災した土地の買取りに向けた個別相談、防災集団移転促進事業で新たな居住地となる新市街地などの造成工事が始まっている。土や資材をたっぷり積み込んだ大型トラックとすれ違わない日はない。むしろ、乗用車よりもトラックの方が多いかも。造成地では重機の音が鳴り響く。来年になれば公営住宅が整備され、27年度以降は次々と入居が始まるころ。スケジュールは決まっているが、人の動きが見られないだけにまだ実感は沸かない。多くの市民がそう感じているだろう。
 そんな中、国内が歓喜に沸いた。日本での夏季五輪とパラリンピック開催が決まった。2020年。奇しくも復興が概ね完了する年だ。五輪の話題は市議会の議員一般質問でも取り上げられた。しかし内容はちょっと違う。開催を喜ぶと同時に被災地には懸念もあるのだ。石巻市長は答弁で「7年後のオリンピック開催の年は、復興の総仕上げの年であり、最大の被災地である石巻市が震災から立ち上がった姿を見せ、世界中からの支援に感謝を示すことができる絶好の機会」と期待。その一方で「建設ラッシュが始まる中、復興事業への影響も懸念される。国や県と連携をとりながら悪影響がないように対応し、復興と五輪が世界中の人々に喜びを与えるようにしたい」と述べた。
 「復興予算が五輪に回るのではないか」。五輪は大歓迎だが、市内ではこうした不安の声も聞く。たしかにテレビでは五輪の話題が連日にぎわす。首都圏や西日本では被災地との温度差はどうなのだろう。たまにこんなことも考える。同じ日本。喜びも、楽しみも、苦しみも、悲しみも差がないようにしてほしい。それが石巻市、いや宮城、岩手、福島の願いだろう。

76.かんけい丸が歴史文化施設に                H25.9.13

 石巻市は港を起点に栄えたまちだが、長い歴史の中でこれを物語る建造物はあまり残されていない。北上川と太平洋を経由してコメを江戸に運んだ千石船が往来していたころは、米蔵もたくさんあったというが、今はその跡形もない。東日本大震災の津波で流出した歴史的建造物もあるが、それ以前にこうした建物が現存している事自体が少なかった。
 そんな中、唯一と言ってもいいだろう。まちなかに現存する観慶丸商店(かんけい丸)を石巻市が所有し、保存しながら歴史文化博物館として平成27年秋にオープンさせる計画を打ち出した。かんけい丸は昭和5年に建築された石巻市初の百貨店。木造3階建てだが、外壁には色とりどりのタイルが用いられた洋風建築物であり、その重厚感や存在感はほかではお目にかかれない。昔は3階がレストランだったといい、石巻市で初めてカレーライスを提供したのがここだ。今年はNPO団体が当時の味を再現してかんけい丸内で振る舞うなどした。
 この建物の所有者から市に対して寄付の申し出があり、10月には市の所有になることが決まった。今後は市議会12月定例会に関係予算を計上し、議決されれば店内の補修などを行っていく。今の計画では1階はインフォメーションとして震災に関する映像や写真などのアーカイブとかんけい丸の歴史を振り返る。2階は江戸時代の生活文化を知る民族・考古資料の毛利コレクションを展示する考え。3階は倉庫で一般の立ち入りはできない。
 市は国の登録文化財に申請して歴史的価値を高めるほか、被災した石巻文化センター、老朽化で使用できなくなった石巻市民会館の代替となる複合文化施設のサテライト機能も担う公共施設にしていく。この複合文化施設は博物館を併設したもので、平成23年に建設場所を含めた基本構想が発表される予定だったが、その直前、東日本大震災が発生して計画はとん挫した。施設は公共用地に建てると思われるが、現在は応急仮設住宅が建っており、余っている市有地はどこにもない。だから建設となれば仮設住宅を撤去したあとの話。先は長い。
 市が所有する歴史、考古学資料は県内外の博物館などで保管されているが、かんけい丸が新たな公共施設として生まれ変われば、再び市内の文化財を市民が目にすることができる。地元のものが地元に戻ってくる。これも復興だろう。
 

75.住宅再建へ事前登録                     H25.9.7

 石巻市は震災で沿岸部が壊滅被害を受け、4000人を超す犠牲者が出た。現在は法で規制され、沿岸部に住宅を再建することはできない。すなわち、生まれ育った地域にもう一度、家を建てて住むことができない。この辛さは計り知れない。
 石巻市は2つの考えを示した。1つは防災集団移転団地。内陸部で津波の被害がない土地を買取り、そこに新たな市街地を形成する。平たく言えば田んぼが造成され、そこに家々が建つことだ。もう1つは復興公営住宅。石巻市ではこう呼ぶが、いわゆる市営住宅(県営、都営住宅などと一緒)。マンションのような高層型の建物に暮らす。
 現在は応急仮設住宅などに約3万人が暮らしているが、来年以降は少しずつ生活に変化がでてくる。流れを説明すると市街地に5か所整備する防災集団移転団地内に家を建てるか、そこに整備される復興公営住宅に住むかが1つ。または防災集団移転団地外でも市内各所に復興公営住宅が建つのでそこに住むか。最後は自力でどこかに住宅を再建するか。概ねこの3つに分かれるだろう。
 防災集団移転団地、復興公営住宅もやはり場所によって人気が違う。例えば商業地が集積し、交通の便が良いところに人は集まる。誰もが望みの場所に暮らすことができればよいが、現実はそうもいかない。こうして考案されたのが事前登録制度だ。
 まず今月17日からの受付開始後に5団地の中からどこに住みたいかを選んで登録。そして12月にはその団地内のどの区画に住みたいかを登録する二段階。復興公営住宅はどこの住宅かと型別(LDK)を選ぶ。その後、どのフロアになるかは抽選機で決めるという仕組み。マンション型などはどこもそうだが、角部屋が人気であり、そこに集中してしまうため、部屋割りは後日、がらがらポンの抽選機で決めるというわけだ。
 団地も人気に偏りがあれば他の団地も考えなければならない。まさに高校でいう予備登録と同じ。それだけ大規模な災害で多くの市民が被災し、生活再建にこんなに悩みがあることを知ってほしい。仮設住宅から次のステップとなり、多くの市民が移動を始めるのは平成26年以降。たぶん28−29年がピークだろう。いまは25年。先は長い。一瞬の災害はこんなにも尾を引く。震災報道が減っているが、被災地は何も変わっていない。
 

74. 消える思い出の地                    H25.8.28

 震災前の話だ。会社から石巻文化センターまでは車で5分。商店や住宅が立ち並ぶ門脇地区や南浜町を通り抜ける。人の息遣いが聞こえる生活感たっぷりの地域。奥手に日和大橋が見える。駐車場に車を止めて入り口を目指す。噴水からは勢いよく水が噴出しており、その下で子ども達が水遊びを楽しむ。よく、夏の暑さを表現する取材のときは、ここで遊ぶ子ども達にカメラのレンズを向けた経験がある。
 入り口の自動ドアが開くと冷気がドッとあふれ、汗ばむ体を冷やしてくれる。美術品が並ぶ建物だけに中は静か。ロビーを抜けると右手に長く幅が広い階段が表れる。ここにも子ども達の姿があった。ジャンケンに勝つと小さな声で「グリコ」「チョコレート」「パイナップル」と言いながら階段を下りる。昔からある遊びだ。
 2階は常設展と企画展。よく文化担当のときや日曜日の当番では、ここの取材が多かった。石巻市の歴史と文化に触れることができる。私は絵心がないが、それでもこれはすごいと思う作品が並ぶことが多い。文化を肌で感じられるのが石巻文化センターだった。
 最上階の展望棟からは眼下に太平洋が広がる。道路を挟んだ先は海。抜群のロケーション。まさか、この海がキバをむくとは想像もできなかった。東日本大震災で文化センターは建物が残ったが、1階部分は水没。背後にあった住宅街はすべて流され、しばらくの間、荒野の中に文化センターと隣接する市立病院の建物だけが目に付いた。2つの公共施設は見た目はそのまま使えそうだが、周辺は1メートル以上地盤沈下しており、いずれにしても改修だけではどうにもならない。石巻市は解体を選択し、建物に大型重機が入った。ガラガラと音を建てて崩れる。思い出が走馬灯のようによみがえってくる。「震災さえなければ」。ここに限らず、いつも頭の中にある言葉だ。
 市立病院はすでに解体され、重機は文化センターにシャベルを向けた。はがれ落ちる外壁。鉄筋がむき出しになる。見守る側、解体する側。どっちにとっても切ない。この建物がなくなれば南浜地区には目立った建造物がなくなる。ここには復興祈念公園が予定されているが、国の判断待ち。まだ概要は見えてこない。被災地と国の温度差が感じられるようになってきた。 
 

73. 20年ぶりに旧友そろう                 H25.8.20

 20年ぶりに中学校の同窓会が開かれた。前回は二十歳のとき。中学を卒業してわずか5年。ほとんど姿が変わらず、あまり新鮮味がなかったが、今回は違う。同窓生は約200人。当日は約80人が参加した。北は青森県、南は長野県。地元に残っているのは約半分。盆時期に開催したので帰省に合わせて参加した人が多い。
 「え〜と誰だっけ?」「○○だよね!」「太った?」「やせた?」「いまどこにいるの?」。第一声は大体こんな感じ。学生のころはたくましく太っていた人が今ではほっそり。逆にほっそりだった人は面影がなくなっているなど人それぞれ。女性陣はほとんど容姿が変わっており、名前を聞いてようやくピンとくるほど。「名札があればよかったのに」との声も聞かれるほど、誰が誰だか分からなくなっていた。だから当時の顔を思い出し、今と比較すると驚きが渦巻く。これこそが同窓会の醍醐味だろう。
 実行委員会から事前に頼まれていたことがあった。それは写真撮影。結婚式や各種イベント、学校行事、子ども会育成会、スポーツ少年団など関わるところからは依頼を受けるケースが多い。写真も技術職。よく職業はカメラマンと勘違いされるが、実際は記者。地方紙だけに自分で写真も撮れば記事も書く。写真だけではないのだ。
 同窓会の撮影はもちろん快諾。でも集合写真を撮ってしまうと私が写らないので、少しの間、本社のカメラマンに撮影をお願いした。同じ社内にいるが、さすがプロ。写りもバッチリで写真の下段に同窓生の卒業年度や場所を入れるサービス付き。さすがに80人が一度に写れば何人か目を閉じる人がいる。でも写真にはそれが一枚もない。
 「実は2人ほど目を閉じている人がいたので開眼しました」。何だそれは?つまり、パソコンを使って目の部分を加工し、目を開けることだ。ちなみにアップの写真であれば顔のしみやそばかすも取れてしまう。何という技術。間近でみてもコンピューター加工されたことは分からない。プロの仕事だねと改めて関心した。
 さて話しは戻って同窓会。あっという間に時間が過ぎ、「またな」で分かれた。「またな」がいつになるのか分からない。ただ、元気でいればまた会える。震災で亡くなった同級生もいた。家族を失って一人になった人もいた。それぞれの都合で同窓会に顔を出せない人もたくさんいた。
 中学校時代もその時は何気ないが、過ぎてしまえばかけがえのない時間。今の時間もそうだろう。だから1日、1分、1秒を大切にしたい。そう感じた。

 

72. 灯籠に込めた思い                    H25.8.14

 石巻地方(石巻市、東松島市、女川町)は夏祭りシーズン真っ盛りだ。仮設住宅団地でも交流を深めるイベントが開かれ、子ども達が笑顔で駆け回る。日常的な生活がそこにある。このような光景を目にすると徐々に復興に向かって進んでいることが実感できる。やはり、復興とはハードだけでなく、人の心を動かすソフト面が重要だ。そう認識させられる。
 夏祭りといえば花火。水に囲まれた石巻市は花火の前に灯籠流しを行う地域が多い。もともとは水難供養から始まったものだが、震災後は犠牲者を弔う意味合いが強い。そして灯籠の数も増えている。7月31日と8月1日に行われた石巻川開き祭りでは約1万個の灯籠が静かに旧北上川を流れた。きれいというより、心静かに手を合わせて物故者の冥福を祈る姿が見られた。
 会場からは僧侶の読経も聞かれる。人々は深く頭を下げ、流れ行く灯籠に語りかけているようだった。「元気ですか?私達をしっかり見守って下さい」「ずっと家族だよ」「もう一度だけ会いたいです」。メッセージを込めた灯籠もあり、一言一言が重く、辛さだけがこみ上げてくる。
 13日には町の中心部が壊滅した女川町で迎え火が行われた。家はないが、家が建っていた場所にそれぞれの家族が集い、火をたいて故人に語りかけていた。
 「いってきます」と「ただいま」は一対だと思っていた。でもあの日はそれがかなわなかった。震災から2年5か月が過ぎ、国内では徐々に記憶の風化が始まっているが、被災地では何も変わっていない。むしろ時間が止まったままの人もいる。それだけ人の命は重いのだ。
 震災から3度目の盆を迎えた。墓地には花が手向けられ、紫煙が漂う。手を合わす家族連れ。幼き子は何を思うのだろうか。あんな思いはもうしたくない。させたくない。南海トラフ巨大地震や富士山の火山活動など不安要素は拭えない。有事に備えて今何ができるか。そして万が一のとき、どう行動するか。1分1秒が生死を分ける。被災地からのメッセージを心に刻んでほしい。
 

71. 石巻の夏「川開き祭り」                   H25.8.2

 石巻市を代表する夏祭りが「石巻川開き祭り」だ。震災前は7月31日を前夜祭、当日祭は8月1日、2日と計3日間だったが、震災後は短縮し、31日から2日間となった。今年で90回を迎える歴史ある祭り。東日本大震災が発生した平成23年度は中止も検討されたが、市民に元気を届けようと開催。鎮魂の色を濃くして行った。24年と今年も初日は鎮魂、2日目は前進や飛躍を願う構成とした。
 川開きは伊達政宗の命をうけ、長い歳月をかけて北上川を開削し、この地に港を築いた川村孫兵衛重吉翁に対する報恩感謝の祭り。石巻市が熱く燃える日だ。今年の人出は2日間で16万9000人。震災前は34万人であり、比較はできないが、見物客は毎年増えている。いや、回復しているというべきか。
 毎年のことだが、若者の数の多さに驚く。いったいどこにいるのだろう。普段、まちなかを取材していても若者が歩いている姿はほとんどない。だが、川開きとなれば比率は若者8、年配2の割合。浴衣や甚平姿でかっ歩し、元気のよい声を響かす。派手な若者もいるが、それもまた活気の一つ。祭りだからそこ許される一面もある。
 震災後は人口流出が懸念され、このままでは地域は衰退するのではないかと懸念されているが、祭りを見る限りでは若者はまだこのまちを捨ててはいない。だからこそ、魅力ある地域を作り、定住と職を確保しなければならない。大人の課題だ。
 きょうは8月2日。祭りの後の静けさというが、まさにその通り。あのにぎわい、あの人たち、あの活気、あの笑顔はどこに消えたのか。「祭りだから集まってきたんだよ」。それだけではもう済まされない。いつも活気を呼び込む中心市街地を目指さなければ真の復興とは言えないだろう。祭りのあとにまた一つ、大きな課題が見えてきた。

70. 復興の実感は?                      H25.7.30

 安倍晋三首相が7月29日に石巻市を訪問した。参院選後に被災地を訪れるのは初めて。首相になってからは2回目だ。市内では復興公営住宅と包括ケアセンターを視察した。公営住宅は4000戸整備するが、現在入居できているのは40戸。どうみても少ない。この数がどんどん増えてくれば復興も実感できるだろう。包括ケアセンターは医療と介護、福祉、保健を一体的に行う機関。県内では初めての取り組みであり、開設するのは8月2日。市内最大の仮設住宅団地が立ち並ぶ開成・南境地区にモデル事業として置き、仮設に入居する高齢者の健康状態を総合的にみていく。国が進める包括ケアシステムの前段と言えるのだ。
 包括ケアセンターは仮設住宅内にある。安倍首相の具体的な訪問先はぎりぎりまで内密だったが、首相到着1時間前ごろからマスメディアや国、県、市の関係者が続々集まり、それを察して市民も集まってきた。気づけば100人は超していたのだろうか。参院選で圧勝した自民党。国会のねじれも解消され、安倍内閣は安泰路線に入っただけに熱烈な歓迎を受け、握手攻めにあっていた。
 亀山紘石巻市長らから説明を受けた安倍首相。「復興が実感できる」と話していたが、市民はどう感じたのだろうか。同感か、それとも。
 首相が黒塗りの車に乗るのを手を振って見守っていた市民。遠ざかる車両に「首相さんお願いしますね」と声をかける女性もいた。「私達も本当に復興が実感できるようになりたい」という思いが込められているような気がした。隣にいた男性は「そういえばもうすぐ川開きだっちゃな(川開きだな)。なじょすっか決めでねぇが、ことすはいってみっが(どうするか決めていないが、今年は行ってみようか)」と夫婦で交わす言葉が聞かれた。川開き祭りは7月31日ー8月1日の2日間開催される石巻地方で最も大きなイベントだ。梅雨はまだ明けていないが、市民が熱くなる夏祭りはすぐそこに迫っている。

69. 復興グルメF−1大会                    H25.7.23

 石巻市の半島部の突端にあるのが鮎川地区。平成17年に広域合併するまでは牡鹿町と呼ばれ、昭和30年代ごろは捕鯨が盛んだった。今でも鮎川はクジラの町と言われるが、この地域は震災による大津波で町の中心部が壊滅被害を受けた。先日は町の観光施設だった「おしかホエールランド」が解体され、更地となった。街のシンボルが消える姿は何度見てもさびしい。そんな牡鹿地区に活気を呼び込んだのが、7月21日に行われた「第3回復興グルメF−1大会」だ。
 Fは復興を意味する頭文字。被災3県(宮城、岩手、福島)では多くの小売店が流され、そこの店主らが手を組んで長屋の仮設商店街を形成。大会はそこで考案されているご当地グルメを集めてグランプリを決めるイベント。B級グルメの全国祭典「B−1グランプリ」と形式は同じ。来場者が1品300円の創作料理を食べて「これがおいしい!」と思った箱に割り箸を投じる。その数が多いところが勝ち。
 エントリーしたのは全12品。石巻市からは4品が出され、地元開催の強みをアピール。売り子たちは大きな声を出して客を呼び込んだほか、行列を成す店舗が続出。中には「実はこれ、まだ店舗で出していないの。でも自信作だからきょうの反応を見て決めたいの」という人も。「美味しかったよ!どこで食べられるの?」という客の問いかけに「うん。近く食べられるようにするから。またこっちに来てね」とさりげなくリピーターを狙う姿が実にたくましかった。
 そして最高賞のグランプリを射止めたのは開催地の復興商店街おしかのれん街が出した「おしかモビードック」。ふわふわのロールパンに竜田揚げにしたモビーディック(白鯨)をはさむ。決め手はしょう油ベースでピリ辛の特製タレ。秘伝というので、何度もしつこく取材したが、やっぱり秘伝。絶対に教えてくれなかった。パンと鯨肉の絶妙な味わいに虜になった来場者は数多い。この「おしかモビードック」は週末限定、しかも数量限定(15−20個)でおしかのれん街で販売されているという。でも地元の子ども達も皆大好きで競争は激しい。幻の惣菜パンといってもいいのだろうか。

 でもグランプリになった以上、生産個数を増やしてもっともっと販路を拡大してほしい。それにもう一つ。F−1開催の意義は食だけではない。大会を通じ「そこにある復興商店街を知ってもらうこと」にある。この大会は3か月に1回開かれ、今回で3回目。ずっと継続し、全国から足を運ぶ人が増えてくれればうれしい。

68. 人生初の解説者                      H25.7.9

 一度きりの人生。何を体験するか分からない。本業は記者だが、この日はラジオの解説者。ヘッドホンを付け、石巻日日新聞社主催の第55回記念石日旗争奪少年野球大会の実況中継に参加した。実況担当は東京都在住のフリーアナウンサー。私は当日の試合をみてその場、その場で解説しなければならず、事前に原稿を考えておくわけにもいかない。ラジオ局から依頼を受けて二つ返事で承諾したが、果たして上手くできるのだろうか。ちょっとは悩んだが、悩んでも前には進まないのでやめた。当日、何とかなるだろう。そんな気持ちで挑んだ。
 実況は決勝戦。午後6時がプレーボールであり、生中継は午後5時45分から始まった。アナウンサーが球場の様子を紹介したあと、私に話を振ってきた。「今大会は震災後にリニューアルされた石巻市民球場で6月14日に開会しました。アトラクションでは・・・・」。おっ!結構いけるんじゃないか。あまり緊張はしないタイプだけに言葉だけは口から出てきた。準決勝までの様子を話した後、時計をみると6時。ちょうど良く、サイレンが球場内に鳴り響き、投手が一球目を投じた。さすが、アナウンサー。「ピッチャー振りかぶって第一球投げた。ボール。外れました。ピッチャー外野に声をかけた後、第二球。入ったストライク!いい立ち上がりですね」と聞き入ってしまうほどいい声だ。
 こっちも負けてはいられない。チームの特徴やこぼれ話を入れながら解説を進めていく。少年野球であり、あまり技術的な話をしてもしかたがない。子ども達は動揺や緊張感、興奮状態などで普段打てる人が打てなくなり、打てない人が打てるなどさまざま。平均値を割り出すのは困難だ。「楽しい話のほうが絶対盛り上がる」と勝手に解釈。事前にインタビューをした成果を出すときが、ついにきた。
 アナウンサー「さぁ打順が一番に戻りました」
 解説者「一番の菊地君ですね。あだなは『きくりん』。好きな食べ物は肉です。焼肉ですかね」
 解説者「次は葛西君ですね。あだなは『しんた』。好きな食べ物はおっと!マグロです。初めて魚介類きましたね」
 アナウンサー「ほうほう!魚も食べないと丈夫な体はできませんからね」
 さすが、アナウンサー。どんどん食いついてくる。そんな掛け合いをしながら約2時間、解説を進めた。もちろんしっかりと要所は抑えたつもりだ。解説者もいざやってみると面白い。あっという間に試合が終わり、閉会式に続いた。ここでトラブルが発生。賞状がまだ完成していない。3-4分の穴が開きそうだ。アナウンサーは地域のことはあまり分からないので、ここは私がしゃべるしかない。少年野球の課題や選手の今の表情などを伝え、何とか場をしのぎ、リスナーには裏方のトラブルが伝わらないようにした。ちょっとヒヤヒヤしたが、解説者は実にやりがいがあった。また機会があったらぜひ!

67. どうなる?引越し費用                   H25.6.28

 震災から間もなく2年4か月を迎えようとしている。被災地では復興課題はトップニュースとして新聞、テレビで報じられているが、全国ニュースではあまり語られず、最近では参院選の話がほとんど。中央では関心は高いが、被災地では口に出す市民はほとんどいない。石巻地域から立候補予定者がいないのも一つだろう。
 宮城の場合、選挙の大票田は政令指定都市の仙台市。立候補予定者も仙台市に力を注ぐ。よって石巻地域に選挙の話が届くことはほとんどない。関心が薄いまま、投票日を迎えてしまうのだろうか。
 では、石巻地域の今の課題とは何だろう。それは被災の状況によっても異なっているが、もっぱら多いのが応急仮設住宅から次のステップになる復興公営住宅の話題。すなわちこの公営住宅に入ることができる。または高台や内陸部への防災集団移転用地内に宅地を建設し、生活再建を行うことが被災した市民にとっての一つの区切りだろう。市の試算では平成27年度末には多くの人が復興公営住宅で生活している青写真を描く。
 でも気になることがある。引越し費用の負担と人手だ。若い世代なら何とかなるだろう。しかし、一人暮らしの高齢者にとっては可能だろうか。市内には約7000戸の仮設住宅があり、このうち65歳以上の一人暮らしの高齢世帯は637戸。女性は400人を超しており、男性の2倍。到底、一人で引越しは困難だ。引越し費用は原則、自己負担となるようだが、支援が必要な人に対し、市は何らかの手立てを講じていく。費用負担になるか、人的支援になるかは分からない。「ボランティア・・・・集まってくれればいいな」とつぶやいた職員の一声に同感した。
 引越しにはどうしても人手は必要。避難所から仮設住宅に移るときは全国から集まったボランティアが市民と荷物を車に乗せ、仮設住宅まで案内してくれた。あのときの光景が目に焼きついているが、ボランティアの数は徐々に減っており、最近では長期支援を行う団体の姿以外はあまり見られないようになった。
 歳月は過ぎても被災地が抱える苦悩は消えることはない。引越しは26−27年度がピーク。再び多くの関心と支援の目が石巻市に向けられることに期待したい。 

66. 趣向こらした石日旗                     H25.6.15

 第55回石日旗争奪少年野球大会が開幕した。石巻日日新聞社が主催するスポーツ事業の中でも大きな大会であり、石日旗(せきじつき)は石巻日日新聞社旗の略。スポーツ人口の減少や震災に伴うスポーツ離れで少年野球の数も年々減っており、今年は昨年より2チーム少ない30チーム。石日旗は昔から石巻地方の甲子園、または梅雨時にかけてアジサイ大会とも呼ばれている。
 今年は節目でもあり、何か大きなことをしたかった。というよりは、マンネリ化を打破したかった。早くに社内で実行委員会組織を形成。全権委任の中で若者たちが互いに意見を出し合った。その結果、協賛品が続々集まり、入場行進チーム賞や優秀行進個人賞を新設。これまでの開会式は通り一変のセレモニー形式だったが、ここにアトラクションをはさんだ。石巻市の観光キャラクター「いしぴょんず」、東松島市の「イート&イ〜ナ」、女川町のリアスの戦士「イーガー」がそろって参加。石巻地方を構成する2市1町の公式キャラクターが1か所にそろうことはほとんどない。まさにキャラクター好きにはたまらない一夜になっただろう。ちなみに開会式は午後6時30分からでした。
 ジャンケン大会ではプロ野球の東北楽天ゴールデンイーグルスからいただいたレギュラー選手の直筆サインボールなどが当たるとあり、会場はヒートアップ。イーガーの始球式では子どもたちが間近でみようと押すな押すなの大盛況。厳かな雰囲気とは一転、子どもらしさが感じられる開会式となった。
 石巻市民球場は震災時に自衛隊の野営地となり、グラウンドは荒れ果てた。その後、米大リーグや選手会の支援を受け、人工芝の真新しい球場に生まれ変わった。地元の子ども達が大会で使うのは石日旗が初めて。15日は予定されていた8試合が雨で延期となり、実際の試合開始は16日から。さてさて今年はどのチームが優勝するのだろうか。実は我が子も出場しており、親として応援したいところだが、新聞は公平でなければならない。カメラのレンズを向けつつも心で応援したい。

65. 教壇に立つ                          H25.6.8

  皆さんも一度は感じたことがないだろうか?小学校の先生になる夢。私も小学生時代によく感じた。それもそのはず、子どもにとっては一番身近な職業であり、どんなことをするのが小学校教諭か分かる。夢や憧れを抱いても当然だろう。
 先日、私の母校で教壇に立つ機会を与えてもらった。学校長から「子ども達に作文を教えてほしい」という依頼を受けていた。母校では伝統行事の一つに田植え体験がある。地域から借りた水田にもち米の苗を手植えし、秋には手刈りで収穫。稲穂は校庭の遊具(ジャングルジム)にかけてしばらく乾燥させた後、脱穀、そして11月には午前にマラソン大会、午後から児童と地域、PTAの協同で杵(きね)と臼(うす)を使ってもちをつく。1年を通じて食の大切さ知る授業だ。
 私は田植え体験が行われた2日後、学校に出向き、給食をはさんで2時間の授業を受け持った。「国語が好きな人」…2人ぐらい。「作文が好きな人」…0人。いきなり子ども達に聞いてみたらお約束の答えが返ってきた。それもそのはず、私だって小学校のころは作文が大の苦手。そんな話を子ども達にしながら「最初から作文の得意な人はまずいない」。でも文章の書き方(構成)を学べば「作文大嫌い」から「作文がちょっと好きな人」に変わることを最初に伝えた。子ども達の表情も少し和らいだようだ。
 作文は大きく分けて二つの構成がある。前半は体験、後半は考察(具体的にこの体験を生かして私はどうしたいかなど)をいれれば上出来。私が教えたのは小学5年生であり、具体例を示しながら映像などを使って親しみやすい授業にしたつもりだ。実際に作文を書かせたところ、普段は題名と名前を書いて終わりという児童が原稿用紙の半分ぐらいまで書けていた。感想では「今までで一番行数を多く書けた」という声が聞かれたときは嬉しかった。国語は算数と違って答えは一つではない。だから難しくもあり、楽しくもあり、個性もでる。
 最後に「文章を書くことは今もそうだけど、大人になっても何らかの形で書かなければならない(企画書、報告書などで)。だから今のうちに書くことの基礎を学んでおけば、近い将来、必ずプラスになる」と結んだ。機会があればまた教えたい。憧れの先生にちょっとだけ近づけた1日だった。

64. 英語版DVDで情報発信                    H25.5.30

 「英語版のDVDがついにできました。震災で石巻市は国内に限らず、海外からも多くの支援を受けました。DVDは感謝の意味を込めて発信していきます」。映画の製作委員会代表で元石巻市教育長の阿部和夫さんの声が弾んだ。英語版DVDは、震災被害を受けた石巻市立門脇小学校を舞台としたドキュメンタリー映画「3月11日を生きて」(青池憲司監督)。子ども達や地域の大人が震災当時の様子を語っており、言葉を読む映画とも言われる。
 この映画は石巻市で先行上映されたあと、国内を駆け巡り、大きな反響を呼んだ。英語版は児童らの証言に英訳した字幕をつけ、ナレーションも英語。また海外向けに石巻市の位置情報や被害状況なども新たに加えたのが特徴だ。製作委員会は約1000本作り、すでに350本を関係自治体の教育委員会を通じて学校などに届けた。
 石巻市でも贈呈式があり、阿部代表から境直彦教育長に75本が手渡された。境教育長は「まずは教職員が鑑賞し、そこから防災教育に役立てていく」と感謝を込めた。
 英語版DVDはすでに海を渡り、南米のチリやペルー、キューバなど8か国の大使館から返礼があった。どれも感謝と感動を伝えており、震災を風化させてはならないという思いが大使館を通じて国内に発信されたことを願いたい。
 港町、石巻市も震災前は外国人労働者が多かった。とくに中国からの水産技術研修生、大型貨物船が入港すると外国人が荷物を積みおろしする。市内では「楽しい日本語教室」なども開かれ、結婚して日本に永住した外国人の女性を対象に毎月集まっては楽しくおしゃべりしたり、日本語を学んだり、ときには花見、料理教室など幅広く活動している。そうすることで孤立感を解消しているのだ。
 震災では防災行政無線で避難を呼び掛けているが、何と言っているのか分からず、津波の犠牲になった外国人も少なくない。災害はそのとき、どこにいたかによって生死が分かれる。この英語版DVDが広く伝わり、全世界に防災意識が高まることを期待したい。

63. 石日旗(せきじつき)の季節                  H25.5.16

 第55回記念石日旗争奪少年野球大会の季節がやってきた。石日旗とは石巻日日新聞社旗を縮めた言葉であり、石巻地方では「せきじつき」と呼ばれる。半世紀を過ぎた本社主催行事の中では最も大きい大会。石巻市と隣接する東松島市、女川町の少年野球チームが参加し、トーナメント戦で優勝旗を目指す。大会は6月14日に開会式、翌日から1回戦を行い、優勝が決まるのは6月27日。ただし雨天の場合はどんどん延期されるので季節柄ちょっと不安なところもある。
 昨年は震災の影響で東松島市をメーン会場に実施したが、今年は石巻市の野球の聖地「石巻市民球場」で全試合を行う。ここは震災後、自衛隊の駐屯地となり、球場内に資材や車両が置かれ、グラウンドはデコボコになるなど2年近くは使えない状況だった。それが米大リーグや同選手会の寄付を受けて全面人工芝に張り替えられ、今年は石巻市が負担して電光掲示板も整備される。この生まれ変わった球場で少年野球大会が開かれるのは石日旗が最初。だから子ども達の期待感も高い。
 15日夜には大会1か月前の恒例行事となる組み合わせ抽選会が行われた。今年は30チームが出場。震災前はもっと多くのチームがあったが、転出やスポーツ人口の減少、運動場の激減などで選手層はどのチームも薄くなり、野球ができる9人が揃わず、合併したチームもある。野球に限らず、震災は少年スポーツにも大きな影響を与えているのだ。抽選会では選手宣誓する選手の抽選もあり、当選した主将は本社のインタビューに「野球ができる喜びと感謝を大きな声で伝えたい」と話していた。このチームも市街地で被災し、震災でチームメートが犠牲となった。昨年の優勝チームでもあり、閉会式で球場のダイヤモンドを一周するビクトリーランでは遺影を掲げて元気に歩いた。天国から応援し続け、そしてピンチのときには助けてくれたのだろう。優勝の大きな原動力となってくれたことは間違いない。
 数多くの歴史を刻んできた大会まであと1か月。今年は開会式の内容をグレードアップし、入場行進賞も設ける。だから元気に両手を振り、足を上げて、声を出して入場してきてほしい。地域の復興と心の復興には子ども達の笑顔は欠かせない。そして10年、20年後の石巻市を背負っていくのもこの子たちだ。

62. ふじ丸フォーエバー                      H25.5.9

 風のない穏やかな1日。絶好の行楽日和だが、私は仕事であり、そうもいかない。普段は市役所内での取材が多く、お堅い話ばかり聞いているが、きょうは大型客船の入港取材。春風も心地よく気分がよい。午前8時過ぎには石巻港に大型外航客船「ふじ丸」(定員600人)の姿が見えた。石巻市の職員は大漁旗を手に入港を歓迎。船が段々と近づくにつれ、スケールの大きさに圧巻。タラップが降ろされ、たくさんの乗客が降りてきた。首都圏からの人々がほとんど。
 ある男性にインタビューしてみた。「石巻市は初めて。震災で最も被害を受けた都市であり、あれから2年以上が過ぎてどの程度、復興しているのかを自分の目で確かめたい」と語り、市内を巡る復興応援ツアーのバスに乗り込んでいった。ツアーに参加した人たちはどんな思いを抱いたのだろう。復興は進んでいると思ったか、それともまだまだかと感じたのか。その間、私は「ふじ丸」の船内を見学することができた。平成元年に就航した船。時折、時の流れを感じさせる場所もあるが、見た目も豪華で引退するには実に惜しい。
 船の中を歩いていると船旅をしている気分になれる。石巻港に大型客船が入港したときは、ほとんど私が取材しており、船に乗せてもらえることも多い。唯一の特権だ。だから船内にいるこの瞬間がとても楽しい。だって時間とお金がなければ到底、長い船旅はできない。そう考えれば、私は行くことができるのだろうかと…たぶん無理だ。
 夕方には出港セレモニーがあり、石巻地方の伝統芸能が披露された後、ふじ丸は少しずつ岸壁を離れ、船首を次の寄港地である函館に向けた。日本一周のラストラン。石巻市にきてもらっただけでも感謝だ。湾内では花火も打ち上げられ、去り行く勇姿を惜しんだ。
 先ほど話した通り、船旅は時間とお金が必要。忙しい日本人にはなかなか厳しいかもしれないが、働きすぎもよいものではない。たまにはアメリカンスタイルになってのんびりとリフレッシュする。せっかちな日本人にはそんな余裕がもっと必要だろう。

61. つるし飾り                          H25.5.2

 プレハブ施設の中に無数のつるし飾りがある。1つ、2つ、3つ…。と言うわけにはいかない。「いったい何個あるのですか」と尋ねたら何と約2300個。しかも2年かけて1人で作り上げたそうだ。
 石巻市に住む女性(64)は、震災前、沿岸部で美容室を営んでいたが、津波で建物は全壊。美容室にはたくさんのつるし飾りが下げられていたが、すべて失った。「60歳の還暦を節目に孫の健康を願って作り始めたの。たくさんあったのに残念。でもね、あきらめなかった。また1から作り始めればそれでいいから」。前向きな考えだ。
 初めてこの女性を取材したのは平成24年。震災からわずか1年で1600個のつるし飾りを作った。病院の待合室でもチクチク生地を縫いつなぐ。忙しいように思えてならないが、これが生きがいだ。今年はさらに700個増えて計2300個になった。しかも新作、意欲作そろい。ほとんどは寄贈を受けた着物などであり、今年の目玉は花嫁衣裳の振り袖帯から作った千羽鶴。「千羽鶴って言っても600個なのよ。だから来年までにあと400個作らないとね」。向上心は尽きることない。桃太郎、金太郎、浦島太郎など昔話のキャラクターをつないだ飾りもある。四季を表現したタペストリーも掲げられ、春は桜や兜、夏は金魚、秋は紅葉、冬は正月といった季節を感じる飾りもあり、もちろんすべて手づくり。細部にこだわり、妥協はしない。
 被災地には団地数で130を超す仮設住宅がある。約1万6000人が暮らし、団地内には集会所もある。主婦たちが集まって手作業を行いながら収入を得たり、コミュニケーションを深めたりしている。つるし飾りは余暇活動の筆頭であり、どこの集会所でも人気高い。震災後に初めて作ったという人も多く、ちょっとしたブームだ。
 以前、別の仮設住宅団地でこんな話しを聞いた。「つるし飾りが楽しくなるとどんどん新しいのを作りたくなるの。でもアイデアが浮かばないから皆で出張して近隣の展示会も見にいくのよ。そこでアイデアを参考に私達も作る。ここが醍醐味ね」。
 趣味を持つことはいいことだ。美容室の女性も来年は確実に3000個は超しているだろう。インフラの復興はなかなか進まないが、一人ひとりの心境には少しずつ日差しが差し込んできているようだ。

60. 町田市からの来訪                      H25.4.30

 私が担当する取材部門は石巻市政。細かく分ければ市議会、広域行政事務組合、水道企業団などに分類される。とくに石巻市役所には毎日足を運び、ニュースの匂いをかぎ分け、これだと思ったものを記事にする。石巻市政担当者は比較的多く、トップニュースを書かなければならない。きょうはどうしようか、あすは何にしようか。頭の中は常に先々のことでいっぱい。見通しの立たない日もある。それでも何とかなるから不思議だ。自分ひとりではなく、仲間(先輩、後輩記者)がいることが頼もしく感じる。
 新年度からはデスクとして若手が書いた原稿をチェックする日もある。今年3月に東京都町田市であったドキュメンタリー映画「3月11日を生きて」(青池憲司監督)の上映会に招待され、町田市民ホールの楽屋でしばし話をした上映委員会の近藤泰三委員長が石巻市を訪れてくれた。この日は4月19日。くしくも石巻市は市長選真っ只中であり、現地でお世話になった私個人としても会いに行きたかったが、どうしても日程調整がつかず、若手記者にお願いした。
 近藤委員長は石阪丈一町田市長のメッセージを携え、石巻市の教育委員会を通じて石巻市長に届けた。その後、取材した記者の原稿によれば元石巻市教育委員会教育長で映画製作委員会の阿部和夫代表と一緒に門脇小学校を視察した。門小は「3月11日を生きて」のメインロケ地。映画そのものも門小に通う児童の声をつないでおり、被災体験が語られている。門脇小学校校舎の存続、解体はまだ決まっていない。校舎の正面には荒野が広がっているが、震災前は住家がびっしりとあり、活気があった。今ではその面影もなく、あたりはひっそりとしている。
 近藤委員長は「被災地ではまだまだ辛い思いをされている方々がたくさんいると思う。震災の事実を忘れないことが、私達の役目。今後も何らかの形で支援を行っていきたい」と話していた。上映委員会では収益金と上映会当日の募金を合わせ、52万円を門脇小学校に寄付。あえてセレモニーなどは行わず、そっと善意を届けていた。そこに真の優しさを感じた。
 お会いできなかったのは残念だったが、私も何らかの形で感謝を伝えていきたいと強く感じた。近藤委員長が言った「震災の事実を忘れない」ため、地元の私達には後世に伝えていく使命がある。

59. 舵取り役                          H25.4.24

 1週間に及ぶ短期決戦となった石巻市長選は現職の亀山紘氏(70)が再選を果たした。立候補表明や前哨戦を含めれば4−5か月ほどになるだろうか。私の頭の中からは離れることはなかった。選挙1週間前から連日、1面トップは市長選の話題、選挙戦になっても同じ。次は何を書こうか。どうしたら盛り上がるだろうか。候補者を知ってもらうにはどうしたらよいのだろうか。選挙の良さと重さを知ってもらうには何を載せたらよいか。布団に入りながら毎日考えていた。投票日を過ぎ、選挙戦を振り返った紙面企画を書き終えたとき、ホッとすると同時に肩の力が抜けた。
 一つの仕事をやりきった達成感。平成17年に広域合併して新たな石巻市が誕生してから今回を含めて3回、市長選を行ったが、44.16%という投票率は最低。「有権者に声は届いたのだろうか」と自問した。石巻市震災復興基本計画は23年度から32年度までの10年間で構成し、最初の3年は復旧期、次の4年は再生期、そして最後の3年は発展期に位置付けている。現職2期目は復旧期から再生期への移行期が任期中にあり、この4年間で復興に向かう石巻市の姿が明確になってくるだろう。こうした重要な時期に50%を割り込む投票率は残念でならない。
 棄権はすなわち、結果がどうであれ、それに従わなければならないということ。候補者の誰が良い悪いじゃなく、市民一人ひとりの声を票に込める重要な選挙だったはずだ。とくに市長選と同時に行われた市議会議員補欠選挙は無効票が4695票。このうち何も書かれていない白票は2959票にも及んだ。補欠選挙であり、市民に馴染みが薄いのも分かる。各々の公約も震災復興という大テーマの中ではかすんでしまうだろう。有権者は悩んだ末の白票だったと考えられる。
 さまざまな思惑が渦巻いた春の陣は終わった。ここからはノーサイド。復興に向けて市長、市議会議員は全力を注いでほしい。

58. サクラ便り                          H25.4.12

 石巻市の桜の開花はもうすぐだ。通常、政令指定都市の仙台市が開花してから概ね5日後ぐらいに石巻でも桜(染井吉野)の花が少しずつ広がってくる。今年は9日が仙台の開花と言われたため、あと2−3日だろうか。石巻日日新聞では「サクラ便り」と銘打って勝手に標準木を定め、毎日正午に撮影した桜のアップ写真を掲載している。すなわち、この標準木にあるつぼみがいつ花開くかを毎日の紙面で紹介しているのだ。今年は4月10日から始めた。
 過去にもう少し早く始めたところ、低気圧の通過で気温が低く、つぼみに変化が見られない日があまりにも多く続いた。思い起こせばそのときの担当者は私。さすがに5日間もつぼみに変化がないと何と原稿を書いたら良いのか迷う。まさか「昨日と同じ」と書き残すわけにもいかない。でも花には何の変化もない。そこでその日の気温を入れて早く咲くのを待ち遠しいように書き上げた。さすがに苦しい原稿だったのを覚えている。
 だが、ある日、突風によって私が決めていた標準木のつぼみが飛ばされていた。さすがにこれには打つ手なし。かと言って「サクラ便り」はつぼみが飛ばされたので終了します。ではかっこ悪い。しかたなく、同じ木から似たような枝ぶりとつぼみを見つけて翌日から何食わぬ顔でそのつぼみを撮り続けた。この話も今だから言えることだろう。
 それから2日ぐらいたち、再び正午に訪れると昨日は硬く閉じていたつぼみがパカッと開いているではないか。開花だ。心から安堵すると同時に、できればつぼみがちょっと膨らむ、または花びらがちょっと見えるなどの変化が前日にあればもっとよかったのにとも感じた。自然相手のこと。上手くいかないことはわかっているが、幾分、悔しさを覚えた。
 これは震災前の話。3・11から今年で3回目の桜の季節を迎えたが、石巻市では桜の名所で知られる日和山公園でのライトアップを今年も取りやめた。被災者感情への配慮だ。いつの日か市民の心の中に美しい花が咲き広がる日を期待したい。その時が被災地の満開宣言だ。

57. 新年度が幕開け                        H25.4.4

 平成25年度がスタートした。桜の便りはまだ先だが、石巻にも春は確実に近づいている。駅周辺でぎこちないスーツ姿で歩く若者を見つけた。どうやら新入社員のようだ。着慣れないスーツに違和感があるのだろうか。しきりに自分の姿を気にしている。もう一人、今度は若い女性の姿だ。髪を束ねて背筋を伸ばし、きびきびと歩く。着こなすすべてが真新しくこちらも新入社員だろう。何となく駅前も人の流れが多く混雑しており、新しい年度が始まったことを告げているようだった。
 石巻日日新聞社にも営業部に若い男性が入った。社会人サッカーをやっており、がっしりとした体型。これからはスポーツマンらしく、ハキハキと元気に仕事をこなしてほしい。とくに営業部は広告、購読収入など新聞社の生命線であり、大いに期待したい部署だ。それから我が報道部でも異動があった。と言ってもどこかに支局があるわけでもない。いわゆる担当代えだ。全国紙の記者は政治部、文化部、スポーツ部、社会部などに分かれ、各部に多くの人材を置くが、地方紙はそんなに人はいない。よって一人で部門をこなす。
 本紙の場合、市政担当(石巻市・東松島市・女川町に各1人)、経済担当、スポーツ担当、文化担当、警察消防担当と大きく分ければこんなところだろうか。例えば、私の場合は石巻市政、市議会、市立病院、広域行政事務組合、水道企業団を1人で受け持つ。ただし時には内勤のデスク業務(各記者が書いた原稿を校正、校閲する)があるため、市政担当者の下に置くサブ担当が、その記者が抜けた分をフォローする仕組みだ。
 25年度最初の大仕事は4月14日告示、21日投開票を迎える石巻市長選。現職、新人合わせて4人が立候補を表明しており、今週末には全陣営が事務所を構えて本格的な舌戦に向けて臨戦態勢に入る。本紙も各候補者に担当記者を配置し、つぶさに情報を拾っていく。今回の市長選は情勢が混とんとしており、現段階ではふたを開けてみないと分からない状態。でも誰かが頭一つ抜け出すのだろうか。震災からの本格的な復興を目指す石巻市の舵取り役を決める重要な選挙だけに力が入る。

56. 桜咲く結婚式                        H25.3.27

 私が石巻日日新聞社に入社したのは今から8年ほど前。以来、社員の何人かは結婚したが、最近の傾向だろうか、挙式は開かず、入籍だけで済ます人が多い。「式にお金をかけるよりも新生活に費やしたほうが良い」という話を雑誌で見たことがある。確かにそんな考えもあるが、やはり一度きりの人生であり、結婚式(披露宴)は人間にとって記念すべきセレモニーの一つではないだろうか。
 そんなわけで本社の女性職員が晴れて結婚することになり、声がかかった。実に早いものだ。年明けに「結婚することになりました。ぜひ式に来て下さい」と言われてからあっという間に時間が過ぎ去り、その日を迎えた。場所は政令指定都市の仙台市。石巻市から車で約1時間。式場のホテルは駅前に隣接しており、とても便利だ。
 社内からは社長以下、10人が呼ばれた。社員だけでテーブルが埋まる。映像やライティングなどにこだわっており、まるで映画を観ているような披露宴。一昔前は宮城の祝い唄「長持ち唄」から始まり、カラオケ、新郎新婦が入場してもカラオケ、またまた親せきがカラオケというのが定番だったが、今ではその影もない。
 でも新郎新婦の両親に対する思い、そして招待者に対するもてなしの心はとても強く伝わり、和やかなうちに時間が過ぎた。ここにいる皆が2年前の震災を乗り越えてきた人たち。ここで命が終わってしまうのではないかと感じた人もたくさんいたはずだ。だから笑顔でいられることがとてもありがたく、亡くなった人の分も精いっぱい生きていかなければならない。
 話は変わるが、新聞記者は出会いが多いのではという声を聞くが、決してそうではない。一期一会が多く、行政であれば話を聞く人は課長や部長など役職者。部署にもよるだろうが、若い人との関わりはそんなに多くはない。まして時間に不規則な仕事。呼び出しがかかれば休みだってままならない。だからだろうか、石巻日日新聞の報道部も独身が多い。今度、結婚式に呼ばれるのはいつになるのだろうか、仙台市の式場から帰る途中、そんなことを考えていた。
 

55. 最後の卒業生                        H25.3.19

 石巻市をはじめ、隣接する女川町、東松島市では3月19日、平成24年度の卒業式が行われた。新聞社も当然取材に行く。震災前は「卒業生が1人の学校はないか」「何か式の中でイベントは起きないか」など話題性を探した。とくに話題がなければ一般的に見る卒業式の記事になって紙面に紹介していた。でも今年は違った。「最後」という言葉が乱発している。正直、複雑な気持ちだ。
 震災で沿岸部の学校は使えなくなり、内陸部や高台の学校の校舎を間借り、もしくは敷地内にプレハブ校舎を建てて授業を行っている。慣れ親しんだ地域が津波によって失われ、転居を余儀なくされた児童も多い。300人いた学校が半分になったというところも少なくない。逆に内陸部の学校は小規模校から中規模に膨れ上がるという現象も起きた。それだけ人口が激しく動いたのだ。
 石巻市に隣接する女川町は俳優中村雅俊さんの生まれ故郷。サンマ水揚げが本州一位になったことでも知られ、地元から見ても女川町=活気ある水産の町だった。震災前の人口はほぼ1万人だったが、津波で市街地が壊滅。今や町内居住者は約5000人と半減しているという。19日にあった町内小学校の卒業式は学校再編で3つの小学校が合わさり、4月から1つになる。3校合わせても児童数は68人。卒業生が1人だけという学校に本紙で取材した。
 間借りしている別の小学校の体育館で卒業式があり、4人の在校生が見守る中、最後の卒業生となった男児が堂々とした姿で卒業証書を受け取った。PTA会長は彼の父親。「入学から6年間。同級生がいない中で本当によくがんばった。新たな中学校では伝統と友達をたくさん作ってほしい」と励ました。
 地域を愛していたからこそ1人でもがんばってきた。それを支える保護者、教職員も一丸となって学校を守り抜いてきた。そして在校生とは兄弟のように接してきた。同級生がいないことは寂しかったかもしれないが、それ以上に素晴らしい「学校の中での家族」に恵まれていたのではないか。
 春からは同じく再編されて誕生する新たな中学校に通う。小学校で出来なかったことを中学校で実現し、進学で町内を一時的に離れることがあっても数年後はまた女川町に戻ってきてほしい。切なる願いだ。

54. 「あの日」から丸2年                    H25.3.11

 東日本大震災から丸2年を迎えた2013年3月11日。石巻市はところによってうっすらと雪が積もっていた。「あの日のようだね」。皆が口にする。2年前も震災直後、晴れていた空が急に曇り、吹雪のあとにはうっすらと雪が残った。気温もぐっと下がり、何となく「あの日」を思い出させる。朝からそんな思いをしていた。
 4000人近い犠牲者を出した石巻市。追悼式には約1300人の遺族らが出席した。追悼歌が唱和されると目頭をハンカチで押さえる遺族の姿があった。両手にはしっかりと額に納められた写真がある。優しそうな旦那さんがほほ笑んでいる顔だ。また別の遺族はずっと下を向いたまま思いを巡らせているようだった。2年過ぎても悲しみは消えることはない。いや何年経っても同じだろう。最愛の家族を失った傷みは生涯消すことはできない。
 妻が今も行方不明となっている男性が遺族代表で言葉を述べた。夫婦喧嘩し、仲直りで夫婦の写真を写真館で撮った。震災が起きるわずか4時間前のことだ。今はその写真を仮設住宅で見て過ごす日が続く。「寂しい。私一人だけ生き残ってしまった」。男性の言葉が胸に刺さる。遺族の境遇を代弁していた。
 でも男性は前を向くことを決めた。それは全国から集まったボランティアによる協力。今も手紙のやり取りは続き、励みになっている。被災地は多くの人に支えられ、つながっていることを強調した。男性は最後にこう述べた。「いつか差し伸べられた手を笑顔で握り返せるようにしたい」と。
 3月11日の前後はマスメディアが一斉に被災地の今を報じた。御覧になった皆さんはどう考えているのだろう。復興は進んでいると思ったのだろうか。それともまだ復旧段階と感じただろうか。捉え方は人それぞれだが、一つ伝えたいことは「被災地を見つめていてほしい」の一言。報道も11日が過ぎればまた減るだろう。報道が減ったからといって復興が進んだとはつながらない。被災3県では毎日を必死に生き抜く人たちがたくさんいる。まだまだこれから。本当にこれから。復興は始まったばかりだ。

53. 真のボランティア精神                    H25.3.6

  地震、津波、火災に遭遇した石巻市立門脇小学校。児童と地域住民の証言でつないだ映画「3月11日を生きて」の上映会が東京都町田市の町田市民ホールで開かれた。上映委員会の近藤泰三委員長らがあいさつした後、スクリーンに子ども達の姿が映し出され、震災当日の様子を語った。
 音楽や特殊効果、キャストなどで魅せる映画とは違う。ドキュメンタリーであり、言葉をつないだ作品だ。97分という時間はあっという間に過ぎ、会場からは拍手が沸き上がった。製作委員会の代表としてあいさつした阿部和夫さんは、元石巻市教育委員会の教育長。「津波に対する認識とその時、どこにいたかによって市民の運命は大きく分かれた。言葉のリレーで映画ができ、たくさんの思いが詰まっている」と語っていた。
 ロビーでは石巻市の特産品である笹かまぼこや味噌、しょう油を使ったチョコレート、被災した主婦たちが作ったブレスレットを販売。石巻日日新聞社も報道写真集、石巻弁で表現したラジオ体操のCDなどを売り出した。写真集をパラパラとめくっていた初老の男性は「風化させてはいけないからね」と語り、1冊買い求めてくれた。この言葉は一番うれしかった。「石巻から来てくれたの。わざわざありがとうね」という女性も。逆にこちらこそありがたい気持ちでいっぱいだった。また会場に置かれた募金箱にさりげなくお金を入れていく町田市民の心の温かさも感じることができた。収益の一部と募金箱の全額は近く門脇小学校に寄付される。
 上映委員会は旧石巻女子高校(現在の好文館高校)OGで構成する『きぼうのきずな ひとつ。』と地元自治会などで構成。行政も支援しており、官民一体で上映会を支えた。上映委の中には被災地を訪れたことがない人も多いが、それでも親身になって物販や来場者の対応に取り組んでいた。このバイタリティはどこから来るのか。本当に疑問でならない。自分ならできるのだろうか。何度も自問したが、答えはでない。一つ分かったことは「真のボランティア精神」。そして「震災は忘れてはならない」という強い思いだ。
 震災直後は多くのボランティアが被災地を目指したが、2年目を迎える今は激減している現状。離れていても寄り添う町田市民の姿がとても印象的だった。映画はこの1本ではない。続編で「津波のあとの時間割」がある。125分の長編だが、いつかまた、町田市民ホールで上映され、多くの市民に観てもらえたらうれしい。そんなことを考えながら帰路についた。
 余談だが、帰りのタクシーで、運転手さんが「ここで下りますか」と尋ねてきたので、「駅はここですか」というと「いやぁ反対側なんですよ。ここUターン禁止なので」と運転手さん。続けて「いやでも、迷うと大変ですからね」って車が来ないのを見計らってくるっと回転。とても助かりました。「お釣りはいいです」と運転手さんに手渡したのがせめてもの感謝。本当に心の温かい人が住む街だと感じた。

52. 町田市民ホール                       H25.3.5

  人口42万5762人。神奈川県に近く、東京都の南端。面積は71平方キロメートル。商業都市圏であり、多くの老若男女が行き交う。さてここはどこか?答えは東京都町田市。3月2日、町田市民ホールで映画の上映会があり、旧石巻女子高(現在の好文館高校)OGで石巻市と町田市をつなぐボランティアグループ『きぼうのきずな ひとつ。』から招待を受けた。
 本来、石巻市から仙台市に向かうにはJR仙石線で1時間だが、現在は震災で線路が流出し、一定区間が不通。電車からバスそして電車と乗り継がなければ仙台市にたどり着けない。だから車で仙台市より北部の古川市に行き、ここから新幹線に乗って東京に向かった。石巻市から町田市までは神奈川県経由で3時間半というところ。古川駅では横殴りの雪が降り、寒さで足をバタつかせていたが、町田市につくころには風も穏やか。何といっても気温は倍の9度。北から来るとこの気温でも十分温かく感じてしまう。
 町田市民ホールは収容人数862席。石巻市では震災前、石巻市民会館があり、約1400人を収容できる会館だったが、震災前の耐震診断で使用不可となり、新たなホール建設に向けて基本構想を策定中、震災に見舞われた。よって現在復旧した別の施設でも収容規模は300人程度。800人以上が入るホールは久々だ。整備が行き届き、思わず「いいなぁ」と声を上げた。
 上映された映画は、震災被害を受けた門脇小学校の児童や地域住民を軸にインタビュー形式で言葉をつないだ「3月11日を生きて」(青池憲司監督)。私は石巻日日新聞社が出版した震災記録集の販売を兼ねながら取材をした。ホールは別の団体が使っており、譲り受けてから開場まで1時間半しかなかったが、ここで発揮されたのが町田市のチームワーク。『きぼうのきずな ひとつ。』と自治会などで構成される上映委員会はすばやく状況を把握し、物産品を並べ、来場者を迎える準備を整えた。テキパキとした対応。午後6時の開場だが、階段には多くの観客が並んでおり、15分ほど早めてゲートを開いた。極力客を待たせない心意気が伝わった。
 ホールには次々と人が流れ込む。そしてついに午後6時半の上映開始を迎えた。(後半に続く)

51. 近づく「あの日」                       H25.2.26

 「あの日」が近づいている。東日本大震災からもうすぐ2年。よく、節目という言葉が使われるが、私はそうは思わない。被災の状況はそれぞれ違う。まだ行方が分かっていない人も多い。節目は与えられるものではなく、一人ひとりが決めるものだと感じる。だから私は節目とは言わない。
 被災地では「一日も早い復興、復興を加速、復興にスピード感」というフレーズが使われるが、市民にとってはこれが実感できていない。まちの中心部も更地、シャッターを下ろした店、営業を再開した店舗が入り交じる。仮設商店街もあるが、人通りは今ひとつ。中心商店街を歩いていると地震による段差や今にも崩れ落ちそうなアーケードが目に付く。復興以前に復旧すらままならないところも多い。
 市街地から外れて沿岸部や半島方面に赴くと1階部分が突き抜けて斜めになった住宅、畑の中には漁船や商業看板が見える。「あの日」のまま時間が止まった地域があるのも現実だ。「被災地は復興した」と勘違いされることも多いが、このような現状を目にすればとてもこんな言葉は出てこない。県外から来た人も「いったい2年間、どうなっていたんだ」と目を丸くする。それだけ被災地域が広いことを意味しているのだ。復旧、復興のスピードは地域によってまったく異なっており、一概に線引きすることはできない。
 東日本大震災からまもなく2年。国内外のテレビ局は被災地に目を向け、取材を進めている。3月11日の放送分だ。あるディレクターはいう。「確かにうちも震災取材は減りました。3月11日は鎮魂に包まれても翌日からは普段通りに戻ると思います。でも被災地は2年の節目を迎えても厳しい状況には何ら変わりない。全国、全世界に目がこっちに向くようにしたいです」。
 石巻日日新聞も3月11日に向けて特集の取材を進めている。市民がほしいのは希望と夢。将来をしっかり見据えるためにも道しるべになるような紙面にしたい。

50. 私達の使命                          H25.2.13

 沿岸部で被害が大きかった地域は防災集団移転促進事業の対象となる。すなわち線引きされた区域には人が住むことはできない。こうした人たちは現在、仮設住宅などで生活しているが、数年先には行政や民間が整備する復興公営住宅(市営住宅)や復興市街地の中で住宅再建などの道を歩む。いわゆる「防集」と訳されるのがこの区域だ。市内では6618世帯が対象。市内中心部に住んでいた人は海が遠い内陸部に形成される新市街地、半島・沿岸部などの集落に住んでいた人は、その集落内の高台に整備される防集移転地に新たな家を構える。
 ここまでは行政の考えだが、あの日からもうすぐ2年。半島・沿岸部を中心に「復興が目に見えない」と言われる中、すんなり、この通りに行くのだろうか。疑問を感じていた矢先、市が実施した住まいに関する意向調査の結果が公表された。半島・沿岸部に住んでいた人たちの約7割が「従来の場所に戻らない」と答えていた。この中には市外転出という考えも広がっており、まちづくりが進んでもそこに住む人はいないという状況も招きかねない。市は危機感を募らせた。亀山市長も「早急に何らかの施策を打ち出さなければならない」と言葉を強めた。
 被災地では、いまだに「あの日」のまま時が止まった場所が数多く残る。住家もそのまま手付かずのところもある。復興は進んでいるのか?石巻を訪れた多くの人に聞かれるが、一概に復興と言っても住宅再建や雇用、産業、教育、文化、インフラなどそれぞれ進捗状況は異なる。横一直線ではないということだ。
 「復興はあきらめたら終わり」。先日、石巻日日新聞と慶応義塾大学大学院の共同プロジェクトで公開討論会を行ったとき、慶大の岸教授はこう語っていた。首都圏や西日本では震災に関するニュースが少しずつ減っている。中にはもう復興したと勘違いしている人もいるのではないだろうか。被災地はようやくスタートラインにたったばかり。本当の復興はこれからだ。一番大切なのは震災の記憶を風化させずに語り継ぎ、そして防災に生かすこと。石巻市だけで4000人近くの犠牲者が出た。御霊の想いに応えるためにも生かされた私達が背負う使命だ。

49. 津波注意報発令                        H25.2.6

 「ウ〜ウ〜」。午後2時45分。石巻市内に突然、防災行政無線のサイレンが流れた。市民にとっては耳から離れられないあの音。報道部内は一気に緊張感が高まった。南太平洋のソロモン沖で発生した地震により、日本の太平洋沿岸部に津波注意報が出された。石巻市への津波到達予想時刻は午後5時30分。津波高は最大50センチ。石巻市では昭和35年に大きな被害を出したチリ地震津波、そして震災1年前の22年2月27日には平成チリ地震津波と海外で起きた津波の影響を受けた経験があり、正直「またか」という思いが強くなった。
 石巻市は東日本大震災で市街地が70センチ以上地盤沈下しており、仮に50センチの津波が襲えば、事実上1・2メートルの津波が街に入り込む計算になる。だから市民にとっては50センチでも侮れない。石巻市の防災対策課に連絡を入れた。「今のところ被害の情報は入っていませんが、場合によっては避難勧告の可能性もありえます」とのこと。お隣の東松島市では自主避難者に向けて学校施設の一部を開放した。
 しかし一番慎重を期したのは教育機関だった。石巻市では沿岸部や一部内陸の小中学校で校舎内に児童生徒を待機させた。東松島市、女川町でも同様の措置を取り、保護者が迎えに来ても危険が回避されるまでは引き渡さず、子ども達の保護に力を入れた。午後6時を過ぎても明かりがついた校舎の中では不安な表情を浮かべる子ども達、開き直って廊下を元気に走る姿もあった。東日本大震災では下校した児童生徒の中で津波に巻き込まれ、無念のうちに生涯を閉じた子もいた。保護者に引き渡したあとで学校管理下ではなかったとはいえ、とても悔やまれる。
 今回、児童生徒の待機は学校判断に委ねられ、慎重な学校の対応に保護者の中にはいらだちや安心などさまざまな思いが交錯しただろう。注意報が継続されている以上、学校側も解除の判断に迷う。どういった手法が良いのかは今後の検討課題になるだろうが、学校側の命を守る意識は強く感じた。

48. 未来の公園像                        H25.2.2

 津波被害を受けて沿岸部の市街地だった南浜町、旧北上川中洲の中瀬地区はほとんどの住家や事業所が流され、壊滅被害を受けた。現在は地震、津波、火災に見舞われた門脇小学校から南浜町を望むと広大な更地が広がる。いつもそうだが、この景色を見るたび、ため息しかでない。石巻市と宮城県は南浜町に国営祈念公園の整備を求め、かねてから国に要望してきた。国は被災した1県1か所に国営公園を検討しているが、具体的な回答はいつまでたってもなく、月日だけが流れていた。
 そこに舞い込んだ朗報。復興庁は来年度予算の中に復興祈念施設の整備に向けた基本構想検討調査費5000万円を盛り込んだ。宮城、岩手両県に整備を計画し、このうち宮城県は石巻市が候補地となる見通し。石巻市は「ようやく事業のレールに乗ることができた。これからは県と連携しながら具現化に向けたい」と喜んだ。
 ひと口に公園といっても以前は1000棟を超す家や事業所が立ち並んでいた地域。いくら国営化されてもすべての地域を国が買い取るのは難しいだろう。まぁその話はさておき、この公園化に向けては子ども達も強い関心を寄せており、市が主催したワークショップを通じてどんな公園を望みたいのかを一人ひとりが考えた。「津波がきたら海底トンネルで山に逃げる」「絶対壊れない避難機能を持ったビル」「海が怖くて近づけない人のために水族館を置く」「防災グッズを備蓄した公園」などアイデアは尽きない。それを市長ら市当局の前で発表し、子ども達からの宣言書として市に手渡した。
 そういえば、どの子ども達にも共通している言葉があった。それは「子どもからお年寄りまで誰もが楽しめる公園」。我々大人はいろいろなしがらみを考えるあまり、無垢な気持ちを忘れてしまう。でも誰もが楽しめる公園こそが、本当の公園だ。子ども達に気づかされた。

47. 進むホテル整備                       H25.1.30

 石巻市は宮城県で仙台市に次ぐ県下第二の都市。平成17年に旧石巻市をマザーシティに周辺の旧6町と合併。新たな石巻市としてスタートを切った。面積は555平方キロ。当時の人口は16万9000人。震災による死者、行方不明者は約3800人を数え、圏域外への流出などで人口は約1万人減少している。
 復旧、復興で連日、石巻市内にはたくさんの工事車両が入っているが、困ったことがある。それは宿泊施設がないこと。石巻市には震災前からホテルなどの宿泊施設は少なく、胸を張って人を呼べる状況ではなかった。加えて震災で老舗旅館などが営業再開できず、泊れる場所がなくなっていた。
 よって復興工事関係者は仙台市や温泉街の鳴子町など石巻市から車で1−2時間離れた場所に宿泊し、そこから三陸縦貫自動車道路を経由して市内に入る。多くが圏域外から通うため、三陸道は朝から大渋滞。単純に1時間の道のりも2時間かかってしまう。これでは工事を請け負っても労働時間との調整が難しい。復興事業者にとっては悩みどころだ。
 だか、それも改善傾向にある。ここ数ヶ月でホテルが次々と建っているのだ。最近では全国でホテル業を手掛ける企業が石巻市に進出し、「バリュー・ザ・ホテル石巻」として82室をオープン。すべてシングルサイズだが、まちなかであり、アクセスは便利。6月には同じ企業が三陸道のインター周辺に455室のホテルを整備する。
 被災で土地が限られているだけにリゾートホテルや大手ビジネスホテルのようなゆったり感を創出することはできない。それでもベッドを高くして下に収納スペースを設けるなど至るところに工夫が見られる。ホテルの整備によって周辺道路の渋滞緩和につながり、さらには迅速な復旧復興事業に拍車がかかることを願いたい。

46. 校舎解体始まる                       H25.1.22

 重機のツメがコンクリートに突き刺さり、メキメキ音を立てながら白壁をはがす。渡り廊下があらわになり、思い出がすっと消えていくような気がした。石巻市内では津波によって小中、高校、幼稚園の計16校(園)で校舎、園舎が使えなくなり、本年度内に8校が解体される。学び舎がなくなるのは、言葉にできない寂しさがある。市内では最も早く解体が始まったのは市立女子商業高校。55年の歴史ある校舎は3月には解体を終え、がれき置き場に搬出される。
 女子商は27年春に市立女子高校と統合し、石巻市立桜坂高校として生まれ変わる。どこかで聞いたような名前。福山雅治さんが歌うあの名曲「桜坂」と同じ。春を感じさせるいい名前だ。よって女子商は消えるのではなく、新たな息吹の中で生まれ変わると言ったほうが適切だろう。

 解体の前提には統廃合があり、建物はなくなっても機能は維持されるのが原則。一方では、被災地のシンボリックになっている門脇小学校、多くの児童、教職員が亡くなった大川小学校のように判断を決めかねている学校があるのも事実だ。
 「見るのは辛い解体してほしい」「いや震災遺構として残し、後世に伝えるべきだ」。互いの意見が拮抗しており、市教委も明確な判断が出せない。地域の中にあり、地域の中で発展してきた学校。住民の思いもそれぞれ異なるが、決断の時期は少しずつ迫っているが、一度壊したものはもう二度と元には戻らない。慎重な判断が求められる。

45. コミュニティビジネス                    H25.1.10

 被災した石巻市で住居を失った人たちは仮設住宅や民間借り上げ住宅(みなし仮設)で暮らしている。仮設住宅は7297戸あり、入居戸数は7094戸。入居者数は16,523人。市内に立地する団地数は134団地を数える。みなし仮設住宅は利用世帯が5651戸、人数にして14,964人となり、計3万人強が慣れ親しんだ自宅を奪われた。この数字は平成24年9月現在だが、25年1月となった今でも大きな変化はない。
 仮設住宅の多くは公有地に建設されており、更地だけでは数が足らず、運動公園内や地域公園の中、さらには野球場の中にも建つ。「最初は抵抗があったけど、何となく慣れてきた」。入居から1年半以上過ぎればあまり苦にならないというが、本格的な復興となるしっかりとした住宅に住みたい願いは日ごとに増すばかり。
 先日、壊滅的被害を受けた雄勝地区に住んでいた女性たちと話す機会があった。震災前は主婦や水産業、自営業などで財布のひもを握っていたが、生業が失われ、しばらくは仮設住宅に閉じこもる日が続いた。「このままではだめだ」。そう考えた女性たちは創作活動に励み、「つるし雛(びな)」作りをはじめ、今では国内に広く販売するまで成長した。針を持つのはしばらく振りという人もいたが、仲間の輪を広げながら心を通わすうちに自然と手に職をつけた。
 震災1年目は全国、全世界から訪れたボランティアが先頭に立って被災者を支援した。2年目はその数もぐっと減り、自立という言葉が目立つようになった。雄勝の女性たちが仮設住宅で行っているのはコミュニティビジネスであり、被災者自らが生きがいを見つけ、生計を立てるために考え出した答えの一つだ。
 石巻地方ではこうしたコミュニティビジネスの芽がどんどん増えている。市民が少しずつだが、立ち上がっていく姿が見える。両足でしっかりと大地を踏み、そこから一歩を踏み出したとき、本当の復興は始まるだろう。

44. 発展の年へ                         H25.1.4

 平成25年の幕が明けた。例年、三が日は事故や火事があり、有事を知らせる携帯電話のメール情報が音を立てるのだが、今年はこのようなこともなく、平穏で落ち着いた年明けとなった。何よりである。日本海側では大雪に見舞われたが、太平洋側は晴天が続き、初日の出に手を合わす姿が多くあった。
 石巻市では平成24年を復興元年。2年目となる25年は「復興の姿が実感できる年」に位置付けた。震災から間もなく2年。被災地では新年を迎えても率直に喜べない人、喜ぶ気分になれない人は数多い。「生活の先行きが見えない中、何を頼りにしたらいいのか、どう判断したらよいのか迷う」。こう話す初老男性がいた。震災後、無気力になり、仕事をする気も起きず、外出するのも気が向かない。周りが少しずつ、生活を取り戻していく姿を見ると気持ちが焦る。でもどうすることもできない。決してお金がないわけでもない。では何がないのか。「目標がもてない」という。
 同じような気持ちのままで年を越した人は数え切れないほど多いのではないか。なおさら行政の決め細やかな対応、スピード感と実行力を持った施策が求められる。正直、復興の実感はなかなか沸かない。むしろ時間が止まっているように思うときもある.
 広大な更地に目を向けるたび、道のりの長さを痛感する。昨日より今日、今日より明日と一歩ずつでも確実に前に進んでいることを肌で感じたい。それが願いでもある。そして被災した市町民の表情も1日、1日柔らかくなっていってほしい。
 平成25年は巳年。ヘビが脱皮するように発展の年であってほしい。

43. 実りの年へ                        H24.12.28

 2012年も残りわずか。この時期になると1年とはあっという間に過ぎ去っていくことを痛感する。東日本大震災の被災地となった石巻市。3・11という言葉が定着し、この日で1年と数える人も多い。区切りが二つあるようだ。
 今年は「復興元年」と言われた。復旧から復興にシフトする時期。言葉の響きはいいが、実際はどうだったろうか。住める土地、住めない土地が線引きされ、住めない土地にいた市民は防災集団移転促進事業として高台や安全な内陸部に新たな住まいを設ける。今年はその土台となる計画が固まり、秋には被災地最大の移転地となる石巻市蛇田地区で新市街地の造成工事が始まった。重機がうなりを上げて土を掘り起こす。46・5ヘクタールの広い土地はほとんどが田んぼ。来年にはここが整地され、26年度からは災害公営住宅への入居や土地の販売が進み、まちが出来上がる。

 石巻専修大学のゼミ生が行った仮設住宅入居者に対するアンケートでは、ほぼ半数が早期に公営住宅の入居を望んでいることが分かった。しかも多くは戸建て住宅を望んでいる。首都圏ではアパート暮らしやマンション暮らしは当たり前であり、隣の部屋とは壁一枚というのが普通にあるが、元々人口密度が高くない石巻市では戸建て住宅が主流。仮設住宅では近隣に対する物音に気を配りすぎてそれをストレスに感じる人が多い。だから震災前と同じように戸建てでゆったりとした生活を早期に望んでいるのだろう。
 ただし、こうした暮らしを手に入れるにはタダというわけにはいかない。仮設住宅では家賃は発生していないが、公営住宅は別。収入や世帯規模に応じて価格も異なる。「早く仮設を出てゆったりと暮らしたいが、先立つもの(お金)が心配」という声は少なくない。
 平成25年は一部で民間借り上げ型の災害公営住宅への入居が始まり、いよいよ新たな生活を求めて仮設住宅を出る市民もいそうだ。徐々に人が抜けてくれば、必然と焦りが生じる。それがストレスや不安を生み、よくない方向に傾く場合もある。心のケアが必要な時期はまさにこれからだ。来年は巳年であり、その名の通りすべての人々に「実り」ある年になってほしい。

 

42. あなたが選ぶ10大ニュース                 H24.12.18

 石巻日日新聞社の年末恒例企画「あなたが選ぶ10大ニュース」。震災で昨年は中止しており、今年は2年ぶりに復活した。石巻市は平成24年を「復興元年」と位置づけ、復旧から復興にシフトさせた。生活再建、産業再生など課題は山積しているが、企業が息を吹き返し、海の玄関口となる港も整備が進むなど少しずつだが、復興の道を歩み始めた1年だった。
 本社では記者が選んだ20項目のニュースを紙面で紹介。この中から10項目を読者に決めてもらうという10大ニュースを実施したところ、今年も多くの声が寄せられた。集計の結果、1位に選ばれたのは石巻工業高校のセンバツ初出場。石巻市からは60年ぶりの甲子園出場であり、1回戦で九州王者に敗れはしたが、仮設住宅の集会所では多くの市民がテレビ越しに応援。選手たちのあきらめないプレーは被災地に勇気と元気を届けた。震災以来、笑顔の花が咲いた1日だった。
 2位は観光のシンボルである石ノ森萬画館の再開。1年8か月ぶりに旧北上川の中洲にある萬画館がオープンした。初日は4000人が訪れ、歴代仮面ライダーも応援に駆けつけた。3位は津波で被災した市立病院の石巻駅前再建、4位には震災がれきの広域処理が進んだことが上げられた。5位は石巻市の筆頭企業、日本製紙石巻工場の完全復活。6位は師走総選挙、7位は震災で基準地価が日本一高騰、8位は防災集団移転地となる市街地の造成着手、9位はJR石巻駅が100周年、そして10位には三陸道の北インターチェンジ着工が入った。
 やはり
明るい話題が多い。そして物事が動き出した年だったことが分かる。と、ここまで書いているとなんとなくまちは元通りに戻ったのではと思われがちだが、沿岸部に目を向ければ更地が広がり、解体を待つ被災住家が並ぶ。復興の道のりは長い。被災地が歩みを進めるには全国、全世界からの継続的な支援が必要。そして新政権には被災地に寄り添った施策を求めたい。 

41. 津波警報                           H24.12.12

 12月7日午後5時18分。石巻日日新聞社には全記者がおり、ミーティングを終えて新年号の準備を始めていた矢先、ガタガタと長い揺れが襲い掛かってきた。横揺れが続く。途端、携帯電話の緊急地震速報が鳴り出した。「あの日」のようにどこで強くなるのか。身構えていたが、揺れは少しずつ弱くなっていった。
 「これは津波が来るかもしれん」。各記者に指示は出すが、あの日のように沿岸部に行かせるわけにはいかない。とりあえず防寒着を羽織り、カメラ片手に皆で会社の外に出た。防災無線がけたたましく鳴り、やや強い口調で避難を呼び掛ける。本社の目の前が高台の日和山に続く市道。ここにいれば仮に波が見えても数メートル上れば回避は出来そうだ。時折、海側に目をやりながら、若手記者に「写真と一緒に動画も回せ」と指示を出す。
 上り坂にはすぐに車が大挙した。次々と坂道を登り、あっという間に渋滞が発生した。それでも山の中腹にある幼稚園や学校が校庭を開放したため、車の列は徐々に減り、津波到達時刻の午後6時には沿岸部の道路を走る車はなかった。
 幸い、市街地では津波は観測されず、津波警報は発生から2時間後に解除されたが、多くの課題も残した。帰宅ラッシュと重なったこともあり、車での避難が多かった。被災地では震災で車が流され、新たに購入した人が多い。また流されたくないという思いは強く、十分理解できる。大事なのは車で移動中でもスムーズに避難できるような津波避難タワーやビル、立体駐車場の整備。テレビでは「車を使うのはどうか」という指摘もあるが、実際問題、早く逃げようと考えるとどうしてもハンドルを握ってしまう。季節が冬であればその数は増えるだろう。
 このような地震はまたいつ起こるか分からない。市民、行政の備えを急がねばならないと強く感じた。 

40. 最後の対話                           H24.12.5

 千葉県に住んでいた叔父に続き、祖父が11月30日に他界した。享年95歳。11人兄弟の4男として生まれ、一番の長生きとなった。私にとっては物心がついたときから「じいさん」。そして今も「じいさん」。両親が共働きだったため、じいさんっ子で育てられた。よくご飯を食べるのが遅いと「空襲が来るから早く食べろ」とせかされたものだ。そのせいか、早食いだけは今も抜けていない。
 じいさんの自慢は歯。入れ歯ではなく、自分の歯だ。最後まで入れ歯とは無縁の人生を送ることができたようだ。棺の中で眠る顔からは白い大きな歯が少し顔を出す。最後まで見てほしいという本人の願いだったと思う。
 先にあった千葉県での葬儀のとき、住職が話していた言葉を思い出した。「亡くなっても5日間は耳だけは聞こえているという。だから話しかけて下さい」と。そういえばここ数年、時間をかけてゆっくり祖父と話すことはなかった。遅いかもしれないが、今を逃せばもう二度とないと感じ、通夜の晩、皆が帰った深夜、小さいころの思い出話や感謝の言葉を伝えた。話を終えると何となく胸の奥につかえていたものが落ちるような気がした。一方通行だったかもしれないが、祖父とゆっくり対話した最後の夜が過ぎ、翌日、荼毘に付した。
 石巻地方では震災で4000人以上の命が一瞬で奪われた。最後の別れもすることなく、自分がどんな状況で亡くなったのかも分からない人も多い。残された遺族の気持ちを察するだけで苦しくなる。祖父は長寿を全うし、皆に見送られて旅立った。ある意味、幸せだろう。誰しも納得できる死を迎えられるように震災後の新たなまちづくりは、災害に強い地域を作らなくてはならない。もう目の前で尊い命が一度に奪われるのはたくさんだ。

39. 近くて遠いものとは                       H24.11.24

 身内で不幸があり、急遽、千葉県に向かうことになった。新幹線で向かう場合、石巻市と仙台市を結ぶJR仙石線に乗り、仙台駅から東北新幹線、そして京葉線というのがルートだが、仙石線は震災の影響で途中区間が復旧しておらず、電車とバスの乗り継ぎ。完全復旧までにはあと3年近くかかりそうだ。
 そんなわけで仙台市よりも県北側の古川市まで車で向かった。ここにも新幹線の駅があり、何と言っても駐車場が安い。1日500円。しかも駅前。さらに車で石巻市から古川市までは1時間弱という距離感。古川から新幹線に乗り込んで東京、そして千葉を目指した。毎度のことながら東京駅の混雑には圧倒される。皆、早歩き。動く歩道の上もスタスタと歩く。エスカレーターも皆左側に寄り、その隣をまたスタスタを駆け上がる人々。わずかなエスカレーターでも右側をスタスタ歩く。そんなに急いでどうするのと思うが、理由は人それぞれ。談笑する声は聞かれず、雑踏だけがこだまする朝の都会の風景を見た。
 泊ったホテルで新聞を手にした。総選挙の記事が多く、被災地関連はどこか片隅に追いやられているようだ。千葉から石巻市までは新幹線と在来線で約3時間。近いように見えて新聞上では遠くに感じられた。しかし今回の衆院選。争点はTPPなどに置かれているが、被災地対応については「復興」の言葉だけが踊り、漠然なイメージしかない。復興は当たり前。なら具体的にどうしていくのかを明確に示してほしい。震災からの復興が泥沼化した政治の中で埋没されるのだけはご免だ。

38. 追う記者へ                           H24.11.13

 自室のカレンダーは2か月で1枚ものであり、11月に入ったことで残すは1枚限り。絵柄も雪とクリスマスツリー。ちょっと前までは「今年は暑いね。いつになったら涼しくなるのか」と言っていたばかり。月日が経つのは早いものだと感じた。
 新聞社も9月の慌しさを過ぎたと思ったら次の山場がもう控えている。12月の「師走」。1年のうちで最もバタバタする時期ではなかろうか。新聞社は11月中に新年号(1月1日発行)の構想を練り始め、月末から12月中旬までかけて取材、執筆を行う。もちろん、これだけに固執しているわけにもいかず、常日頃の新聞発行を終えてから取り組まなければならない。12月になれば市議会定例会も開会し、行政担当は議場に入り浸り。よっていかに前倒しで仕事を進められるかが、カギ。とくに今年は衆議院の解散風が吹き荒れており、とんでもない年末になるのでは・・・と考えてしまう。
 よく若い記者に言う言葉がある。「記者は追う仕事。追われたら記者ではない」。記者には2パターンあるようだ。例えば「10日締め切りね。それまで原稿出すように」と言ったとする。ある記者は言われたその日、または翌日に取材を済ませ、原稿を仕上げる。「だって締め切り日に何か事件が起きて、原稿仕上げていないから現場行けませんでは話しにならないですよ」という。別の記者は「10日ね。じゃ9日に取材して10日に書けば十分。締切りってそんなもんでしょ」と話す。
 どっちが追う記者でどっちが追われる記者かはお分かりだろう。であるのなら今月が勝負。新年号は12月になってからやるものじゃない。今から手をつけなければ。と考え、焦り始めた自分がいた。

37. 被災地の医療機関                        H24.11.7

 父親が持病の悪化などで石巻赤十字病院に入院した。面会時間は午後8時まで。仕事を早めに終えても病院につくころには午後7時を楽に越す。駐車場から病院に向かう途中、わずか100メートルほどの距離だが、多くの面会者とすれ違う。院内も大勢の人。救命救急センターには救急車が何度も往来し、待合室は患者も含めて座る場所もないほど。看護師が慌しく動き、まさに眠れぬ病院だ。
 震災前はこんなにでもなかったと思う。津波で民間医療機関の多くが被害を受け、石巻市だけでも400床を超す病床がいまだ足りない。JR石巻駅前には石巻市立病院が移転新築するが、これも開院は3−4年先。新たな市立病院と石巻赤十字病院は機能分担をうたっているが、市立病院が出来上がるまでは石巻赤十字病院の負担は絶えない。
 沿岸部にあって被災した市立の夜間急患センターは、旧市役所跡地で石巻のシンボルとも言える日和山の中腹に仮設で開設されているが、ここは利用率が上がらない。震災前は夜間といえば急患センターであり、いつでも混雑していた。察するに震災後に開設した場所が分からず、認知度が低いのが要因と思われる。そのしわ寄せが石巻赤十字病院にきているといっても過言ではないだろう。
 一刻を争うような場合は2次医療などを備えた病院だが、風邪と思われる症状は夜間急患センターのほうが時間的にも早く、効率が良い。まずは症状からどの病院に向かうかを判断することも必要ではないかと率直に感じた。

36. ハエの生態                           H24.11.1

 震災があった年の夏。石巻市内には大量のハエに襲われた。以前、石巻日記にも書いたことはあるが、それだけ被災地にとっては悩みとなった。あれから1年7か月が過ぎ、先日、公衆衛生講演会で北海道酪農学園大学酪農学科の教授が「ハエ」をテーマに生態と防除を語った。
 全世界で昆虫は100万種類と言われているが、このうちハエだけで15万種類。日本だけでも6300種類いるという。ハエが昆虫の中で占める割合だけでも驚きだ。しかも前脚をスリスリこすり合せる行為。どうみても「いただきま〜す」にしか見えないが、実は脚の先端には細かい毛があり、これが味覚をつかさどるという。だからこすり合わせてきれいにしないと味が鈍るというわけだ。意外ときれい好きに見えるが、スリスリによって脚についたごみを払い落としており、それが食べ物の上に落ちる。人間にとっては迷惑な話にしかない。
 ハエの一生は幼虫、さなぎ、成虫、卵のサイクルで形成され、一生涯を終えるまでは1−3週間。年間に換算すれば10−30世代になるという。1年で随分と長い家計図ができるものだとちょっぴり関心した。
 昨年は震災で流出した飼料(魚などのエサ)や被災家屋の食材などに大量のハエが群がり、繁殖を繰り返して爆発的に増えた。網を振り回せばごっそり取れるほど。でも行政や地域の連携した駆除作業の結果、被害は徐々に抑えられていった。あれから1年が過ぎた今年の夏は、ほとんどハエの姿は見られなかった。背景にはがれき処理や環境衛生が進んだことが挙げられる。
 ところでハエの防除だが、まずは生ゴミの処理を適切にして発生源を絶つこと。これが第一。次は網戸などを設けて物理的に防ぐ。それでもだめなら、殺虫剤でプシューっと攻撃。やはり行き着くところは化学的な対応のようだ。

35. 男女共同参画                          H24.10.25

 本年度から小学校のPTA副会長を担っており、毎月、学校でPTA行事や地域の状況を確認している。毎回、1時間半程度の話し合いだが、話題は尽きることない。今に始まったことではないが、役員の担い手はどんどん減っており、人選に苦慮する。
 私も推薦されたときは自分の中で抵抗感はあったが、実際に務めてみるとなかなか楽しいものだ。慣例でPTA役員は2年。私の場合は来年も副会長、その次は多分、会長を2年務める可能性が高いようだ。「特に男性の方がいなくて。本当に助かります」。教頭先生は度々こう話す。私の小学校では歴代、男性が会長職を担う。現在も会長は男性。副会長は私を含めて2人いるが、もう1人は女性であり、白羽の矢が向けられたのだろう。
 男女共同参画社会が形成される中、地方はどうしても遅れがち。とくに石巻市では浸透率が著しく低い。小学校でPTA会長が女性なのは1・6%。すなわち60数校ある中、女性会長は1人ということになる。あとは全部男性。副会長は34%、役員は47・5%と会長を除いてはほぼ県平均だが、会長だけはまったく違う。ちなみに県平均でみた女性の会長率は16・7%。宮城県内では仙台空港がある名取市が63・2%と女性登用が50%を超えている。石巻市とは比較にならない。
 PTA活動で本当に頑張っているのはお母さん達。だから会長職も男性に譲る必要がないのではというのが私の持論だ。行政の会議でも女性登用は著しく低い。だとすれば受け皿体制に問題があるのだろうか。いや、でも石巻市の女性は謙虚なのだろうか。答えはすぐに出ない。震災直後は避難所運営などで女性のプライバシー保護が浮き彫りになった。男女共同参画。行政も学校も地域も真剣になって考える時代にきている。

34. 消えゆく学び舎                         H24.10.18

 石巻市は震災による津波で沿岸部の地域が壊滅。1年7か月が過ぎた現在は流出を免れた鉄筋造りの建物や大型の公共施設が点在し、周囲には雑草が覆い茂っている。このような施設も解体補助金の関係上、本年度内には取り壊さなければならない。石巻市は道路と排水処理施設を除く507施設中、著しく被災を受けた131施設を解体する。公民館や文化センター、市民会館など市民に馴染み深い施設も消えることになった。機能は新たな施設整備や統合などで維持されるというが、やはりそこにあったものがなくなるのは寂しい。
 教育施設も同様だが、映画の舞台ともなった門脇小学校や多くの犠牲者が出た大川小学校を含め、湊第二小学校、大川中学校の4校は方針が決まっていない。とくに門脇小、大川小は「残してほしい」「取り壊してほしい」の意見があり、即決するわけにはいかない。石巻市は学校の整備計画や市民意見を踏まえて今後、判断していくという。
 一方で沿岸部にあった石巻女子商業高校は、教育施設では最も早く取り壊されることが決まった。学校側は今月26日にお別れ会を開き、最後のホームルームと記念撮影を行う。解体は11月中旬から始まる。学校がなくなる。それも老朽化ではない。生徒たちやOGにとっては複雑だ。市内では女子商を皮切りに解体が決まった学校が徐々に姿を消す。学校は地域の中で地域とともに育ってきた宝でもある。震災の爪あとは今も被災地に深く掘り刻まれている。

33. 故郷(ふるさと)への思い                     H24.10.10

 石巻市の市街地から車で約1時間。つづら折りの山道を抜け、海を右手にひた走る。「鹿出没注意」の看板の付近には、夜になるとニホンジカが親子、または群れで出没する。車に当たったらひとたまりもないが、毎年、結構な数で車とシカとの衝突事故は後を絶たない。最後の坂道を駆け上がり、左カーブを曲がると牡鹿地区(旧牡鹿町)が見えてきた。
 かつては捕鯨基地として栄え、金華山に向かうにもここからが一番近い。観光を産業としていたが、震災で町の中心部は壊滅的被害を受けた。宮城県では津波が最も早く到達したとみられ、大きな揺れからわずか30分で第一波が到達。午後3時30分ごろには多くの家屋が押し波、引き波によって崩壊した。あれから1年7か月が過ぎようとするが、中心部は青々とした雑草が伸び、更地になったまま。
 でもこの地域に多くの若者や若年層世代が集まったのは3連休最終日の10月8日だ。人気アイドルグループAKB48の被災地支援ライブがあることを知った若者たちが市内から集まった。その数約800人。牡鹿地区は高齢化率が高く若者の姿は年々少なくなっている。でもこの日だけは違っていた。
 AKBでトップを走る大島優子さんをはじめ、6人が訪れた。約40分のライブ、そして握手会のサービス。首都圏では見たくてもなかなかお目にかかれないだけに、わずか数メートルのところで歌う姿に皆が感動していた。
 被災地ライブは県外からの追っかけを阻止するため、事前告知は行わず、牡鹿地区では2日前から防災行政無線で地域に知らせた。もちろんインターネットやツイッターなどへの書き込みも厳禁。行政職員は徹底した管理の下、地元限定を貫いた。だから集まった人たちは口コミなどで知ったすべて石巻市民だった。
 若者の中には震災で牡鹿地区を離れた人もいた。青年は「いまは働く場所がなく、ここにいても何もできないが、いつか復興したら戻ってきたい。やっぱり鮎川(牡鹿)はいいですね。落ち着きます」と話していた。アイドルのライブが若者の心を故郷に向ける切っ掛けにもなっていた。

32. 東北絆枠                            H24.10.4

  全国センバツ大会で昨年は石巻工業が初出場した。9−5で九州王者の神村学園を相手に敗れはしたが、石巻工業に連打が生まれたときは地元は大いに沸いた。あの興奮がまた味わえる可能性が出てきたのだ。
 県大会でベスト3に入り、東北大会に出場した石巻商業。東北大会の切符を手にしたときは市内から歓喜が上がった。それもそのはず、センバツ大会は85回の記念大会として今回に限り、東北絆枠が1つ設けられるのだ。すなわち東北からは例年通り1−2校が出場するほか、運が良ければ21世紀枠、さらに東北絆枠が与えられる。最大4校。そこまではさすがに難しいが、地元では「絆枠」は石巻商業しかないという気運が盛り上がっている。
 石巻商業は震災で校舎の一部が浸水。在校生10人が命を落とした。学校の前には市内から集められたがれきが山積みとなり、「がれきの中の高校」とも言われたほど。野球部員は全員、マスクをつけて練習したほか、授業中も窓を開けることすら出来ず、高校生たちは不便な生活が強いられた。
 周囲は悪臭が立ち込め、粉じんも舞う。夏は大量のハエに悩まされた。石巻商業の生徒、野球部はこうした過酷な状況を乗り越え、実力で東北大会の出場権を得たのだ。
 試合は5日。午前10時30分から福島市内で行われる。1試合でも勝つことができれば絆枠に入る可能性がさらに広がるだろう。いや、違う。生徒たちはこの枠を狙っているのではない。目指すは実力での東北大会制覇だ!

31. 洋上の楽園                           H24.9.27

 近くで見るとまるで巨大な壁のようだ。距離を置くことでそれが客船だと分かる。多くの市民が岸壁で首を持ち上げるようにして写真を撮っていた。
 大型客船の「にっぽん丸」は9月24日、「ぱしふぃっくびいなす」は26日、と相次いで石巻港に入港した。本来は平成23年に接岸する予定だったが、震災で先送り。2年ぶりに約束が果たされた格好だ。復旧が進む岸壁に大型客船がつながれ、埠頭では歓迎セレモニーが開かれた。降り立った乗船客は被災地を視察。津波の破壊力を肌で感じ、防災に対する考え方を改めた。新聞やテレビでは伝えることができない生の被災地を目にすることで得るものは大きかっ

たはず。

 その間、事前の抽選で当選した市民は大型客船内を見学。私も記者の立場で同行。いつも市役所内でお堅い取材が多いだけにこれは楽しみにしていた。船内にはシアターやラウンジ、ホール、ショップ、カジノ、バー、プール…など何でもそろう。さすがは外洋クルーズ船。乗船客を飽きさせない工夫が随所に見られる。でも一番驚いたのがここが「船内」であること。揺れもほとんど感じられず、まるで高級ホテルの中にいるようだ。市民も豪華な内装にうっとりと目を細め、口々に「いつかこの船で旅をしたいね」と話していた。
 船内では食事も楽しみの一つ。ただし、乗務員はこんなことを言っていた。「私も乗船前は50`でしたが、今は太りました。食事がおいしく、夜食など最大1日で7食が出ます」。そうか。だからどちらの客船にもトレーニングジムが備えられている。
 乗客の大半は60歳を過ぎた年配者。ゆっくり船旅を楽しんでいるのだろう。私も退職したら時が経つのも忘れるほどゆっくり洋上生活を送ってみたい。と、夢だけは持っている。あっ、それにはお金も貯めておかないと…と感じた1日だった。

30. 風化させない。風化できない                   H24.9.21

 石巻市では9月議会が佳境を迎えている。週刊誌報道から始まった震災がれき処理の不適切な会計処理問題で市議会は伝家の宝刀と呼ばれる100条委員会を設置し、疑惑を追及。このがれき処理の予算が23年度決算に含まれており、残念ながら決算は不認定となる公算が高い。不認定となっても予算の返還義務などは生じないが、市長にとっては黒星であり、いわゆる不名誉となる。
 議会では震災が語られない日はない。いや市内でもそうだろう。あれから1年半が過ぎても昨日のことのようによみがえる。ところが、同じ国内でも風化がどんどん進んでいることが分かる。まず新聞広告に載っている週刊誌のタイトル。スキャンダルや最近では尖閣諸島を取り巻く問題が多く、どこをみても被災地の話はない。次にテレビ。民主党の代表選挙が行われ、消費税の話が取りざたされていた。沖縄ではオスプレイの配置問題で住民が反発。お隣の中国では反日デモ。それぞれに諸事情が違うことも分かる。
 県外での風化はやむを得ないが、南海トラフ地震巨大地震が騒がれるなど日本は地震国。有事の対策だけは家族間で話し合っていてもらいたい。そう強く思う。石巻市では「いってきます」と玄関を出て、「ただいま」を言えなかった人が4000人以上いた。そんな悲劇はもう繰り返してほしくはない。
 震災直後、火葬場の対応が追いつかず、断腸の思いで仮埋葬(土葬)が行われた。情報、科学が発達した現代でまさか土葬を目にするとは思いもよらず、それだけショックだった。遺族は胸が張り裂けそうな思いだったろう。土葬に使われた公園は現状復旧され、来月にはフットサル場として再オープンする。毎日、その前を車で通るが、とても土葬が行われたところとは思えないくらいしっかりと復旧していた。
 復旧、復興で街並みは変わってもあの日は光景は目に焼きついたまま。我々は風化させない。風化できない。

29. 宙に浮く再建計画                        H24.9.14

 石巻市立病院は沿岸部に位置し、東日本大震災の津波で1階が水没。診療機能を失った。市立病院は石巻赤十字病院に次ぐ市内では2番目に大きな病院。市はいち早く高台に仮診療所を設けて対応したほか、再建方針を示した。ここまでは比較的順調だった。
 市立病院の再建候補地は市内8か所から段階的にしぼり込まれ、ここから綱引き合戦が始まった。石巻市は旧北上川を挟んで牡鹿半島を有す東部、仙台市寄りの西部、そして中心市街地(市役所がある周辺)に分けられるが、しぼり込みでこの3か所(なんとなく予想はできていた)になり、最終的には石巻駅前に決まった。理由は交通弱者に配慮し、利便性が高い地域とした。
 市議会は病院が建設されることで駅周辺の渋滞対策を指摘。4月には附帯決議が議決され、市は病院基本設計費を執行保留とした。そして先日、駅前の渋滞緩和と周辺の土地利用計画が示されたが、これに対して議会は唐突と指摘。市が提案した基本設計、実施設計費を盛り込んだ予算案を継続審査とした。
 これは何を意味するか。病院は平成28年1月の開院を見込んでいるが、事実上、不可能となった。さらに県が病院職員(医師ら)をとどめるため、27年度まで人件費を賄っているが、開院がずれ込めば28年度以降は市の負担。年間約5億円必要とされ、これでは財政を圧迫してしまう。ではどうなるか。最悪の場合、再建計画がとん挫することだってありえる。
 誰のための病院か。もちろん市民のためである。場所も大事だが、もっと市民目線での議論をしてほしい。救える命が救えなくなったらどうなるか。市、議会はもっとひざを交えた議論を早急に行い、建設的な結論を導き出してほしい。

28. 脱線                              H24.9.8

 毎年のことだが、9月はなぜか忙しい。まず担当でもある市議会は決算議会であり、ボリュームはいつもの2倍。しかも街が復興に動き出せばそれだけ課題、命題は多くなる。よって議論も白熱するというシナリオが必然的に生まれてくる。朝に議場に入って出てくるのは夜というのは日常だ。
 ただ、議会だけを取材しているわけでもない。地元紙で記者の人数が限られている以上、2つのことを同時にこなすことも多い。例えば議場で議員と市当局のやり取りを聞きながら右手でメモし、合間に左手を使ってパソコンに原稿を打ち込む。この原稿は議会とはまったく関係ないものもあり、コンサートのお知らせや行政の統計、イベント記事などさまざま。
 記者によって時間の使い方は異なるだろうが、私は1時間を1時間10分、いや20分、いやいや30分…とどうしたら効率良く使えるかを考えてしまう。「せっかちだな」と思うときもあるが、入社以来、ずっと守り続けてきたものもある。それは家に仕事を持ち込まないこと。オンとオフの切り替えだけはしっかり出来ているつもりだ。でないと正直、記者はやってられないだろう。
 後輩にもよく言っているのがメリハリを持った生活。記者という仕事が楽しくなると公私混同するケースもある。気づけば体を休めておらず、いざ、大きな事件が起きたときに「疲れて動けません」となったらどうだろう。だからメリハリのある暮らしを強調したくなる。平たく言えば休むときは休む。やるときはやる。これしかないだろう。
 もうすぐ震災から1年半。本紙でもこの間にどこまで復興が進み、市民は何を考え、何を望んでいるのかをシリーズで紹介していく。その取材も9月が勝負。忙しさは当面続く。今回はここまで話を持ってくるのにだいぶ脱線してしまったのでタイトルもそのまま「脱線」にします。
 

27. 蒼き翼再び                           H24.8.25

 「キーーーーン」と轟音が響いてきたと思ったら社屋の上空を航空自衛隊松島基地のブルーインパルスが駆け抜けた。一瞬の出来事。社内では「きた!」と皆が叫び、窓の外に目を向けた。8月25日は東松島市の夏祭り。このイベントでブルーが編隊飛行を行うのだ。2年ぶりにホーム(東松島市)の空を飛んだ。
 海岸線沿いに面した松島基地は震災被害で数多くの戦闘機と支援機が被害を受け、損失額は791億に及ぶという。震災当日、幸いブルーは基地を離れていたため無事だったが、基地が使用できなくなってからは福岡県芦屋基地に滞在している。防衛省は津波と地震対策を施してから訓練再開を求めているが、まだ復旧の目途は立っていない。基地も復旧と補強に努めており、1日も早い復興が望まれている。
 そんなわけでブルーはここにはおらず、祭りが終わればまた芦屋基地に戻っていく。何となく嫁に出した気分というのだろうか。寂しさを覚えた。帰ってきてほしいというのが本音だろう。
 東松島市の夏祭りは本日1日のみ。地域の伝統芸能や沖縄県のエイサー、大阪USJのショーなど今年も全国の支援を受けてにぎやかさを演出している。夜には7000発の花火も打ち上がる。私も気分はそわそわ。早く祭りに行きたいという思いが強い。それだけ愛着のある地域行事なのだ。
 石巻地方(石巻市、東松島市、女川町)は今夏からイベントを再開させた自治体も多い。完全復活はまだまだ先だが、この夏は「地域が動いている」ことを実感できた。

26. 充電期間                            H24.8.21

 新聞記者はまともに休みが取れないと言われるが、そうかもしれない。事件が起きれば昼夜も関係ない。駆け出しのころは朝から夜中まで取材、入稿を繰り返したものだ。石巻日日新聞に入って5連休は初めて。2日間の休刊日を挟んでだが、この5日間を利用して沖縄に飛んだ。
 震災以来、被災地では海を怖がる人が多い。あれだけの恐怖を体験したのだから無理もない。けど石巻市は港を中心に栄えた街。海とは切っても切れない関係にあるのだ。目をそむけてばかりはいられない。海と共存しなければならない。沖縄の海は波もなく穏やか。青く透き通っており、人にキバを剥くことはなかった。ビーチは多くの観光客であふれており、海に親しむ姿があった。
 沖縄の歴史を紹介する「琉球村」でハブ酒を売る店員と話をした。「どこから来ました?」「東松島市です。石巻市の隣です」「まぁそれは大変でしたね」。震災前までは石巻市や東松島市の名前が沖縄まで届くことはまずなかっただろう。あえて宮城県を外してみたが、店員はすぐに被災地だと分かった。でも今は全国ニュースで見る程度で地元でも話は少なくなってきているという。風化が進んでいることを実感した。
 「放射能は大丈夫なんですか」。次に言われたフレーズがこれだ。やはり原発問題が気になるのだろう。がれきから放出される放射線量は日常とほぼ変わりがないことを説明したが、それまでは常に放射線がどんどん出ていると勘違いしていたようだ。噂は怖い。
 でも嬉しいことがあった。沖縄の観光施設や土産店には被災者支援として募金箱が置かれていた。大ビンの半分ぐらいまで溜まったところもある。何気に私自身も募金した
。3泊4日のリフレッシュだったが、風土や人の優しさに触れることができた。充電完了。また明日から被災地で頑張ろうと決意した。

25. 2度目のお盆                         H24.8.14

 盆の入り初日の13日。今年入ったばかりの新人記者が電話してきた。「すみません。道路があまりに混んでいて帰社時刻が30分遅れます」「今どのあたり?」「まだ石巻霊園の坂を下りた辺りです」。
 石巻霊園は市内最大級の市営墓地。市街地に続く道は1本しかなく、どうしても盆や彼岸は込み合う。知り尽くした人は早朝や午後にしぼってお墓参りに訪れているが、帰省客も一緒とあればどうしても午前9時、10時台前後は一番込み合う時間帯。覚悟は決めていかなければならない。
 そんなことを考えながら会社で原稿を書いていると、新人記者が息を切らせて帰ってきた。「あんなに混むとは思いませんでした」。彼は石巻市出身だが、都内の大学を卒業したばかりであり、あまり地元のことは知らない。「拝んでいるようすの写真を撮らせていただいたら、ほとんどの人から『これ食べていけ』ってミカンやお菓子をいただきました。それで喉が渇いて・・・。それと車に乗る前に食べていけって言われました」。
 親切にされたようだ。お供えは持ち帰られない。その場で食べていけってことをうちの若手に教えてくれたのだろう。ちょっとぽってりとした新人のお腹が、また少し膨らんでいるようにも見えた。
 被災地は2度目の盆を迎えた。昨年はがれきの中から墓石を探し出す人が多く、今年は建て直した墓の前で手を合わせる姿もあった。突如、襲った地震。そして大津波。石巻市だけでも3000人以上が命を落とした。悲しみは癒えることない。1年5か月を過ぎても海を見ることを強く拒む遺族もいる。自然災害だけにやり場のない思いが募る。誰にぶつければ良いのか、どうしたらいいのか。被災地はまだ迷いの中にいる。
 復興への足並みを揃えるのはできないだろう。けどそれでもいい。自分のペースで自分の足で再び一歩を踏み出してほしい。その日を待っています。

24. 消えたハエの大群                      H24.8.9

 食事中であれば大変申し訳ない話です。「いや〜今年の夏も暑いっちゃね」「んだ。んでも去年よりはましだ。あのハエがいねぇがらさぁ」。こんな会話を何度か聞いた。確かに今年はハエの姿が見当たらない。どこにいったんだろう。話を1年前に戻してみよう。
 平成23年7月。学校の避難所では「ビタン、ビタン」とハエたたきを振り回す姿が多く見られた。昔懐かしいハエ取り紙が天井から無数にぶら下がり、茶色の紙が真っ黒になるほどハエが付着していた。それだけではない。アイデアを生かし、酢で誘ったビンにも無数のハエ。避難所以外でもコンビニエンスストア、企業などあらゆるところでハエに遭遇。「ブ〜ン、ブ〜ン」と羽音を聞かない日はない。
 よく車に乗り込むとき、ドアを開けた瞬間に1匹入ってくることがあった。さて、皆さんならどうします。@車窓を開けて外に逃がすAそのままにしておく。たぶん@と答える人が多いと思うが、昨年の石巻市ではそれは間違い。窓を開ければ逃げるどころか新たなハエが車内に入り込んでくる。よって答えはAであり、慣れてくればそれほど気にならない。たかが1匹って程度だ。あとは被災エリアから外れたところで窓を開ければ自然と外に逃げていく。
 がれき処理が進まない中で気温がメキメキ上がり、いつしかハエが大量発生した。しかもコバエではなく、銀バエ。あれから1年。銀バエの姿はほとんど見ない。市内には仮置き場にがれきがうず高く積もっているが、適切に処理されているため、衛生的。今年の夏はハエがいない分、感覚的に復旧、復興を感じることができた。

23. 石巻川開き祭り                       H24.8.2

 石巻市を代表する祭りといえば「石巻川開き祭り」。今年で89回目を数え、長い歴史を持つ。震災前は前夜祭、2日間の本祭で行われていたが、震災後は規模を縮小。今年は小学生の鼓笛隊が2年ぶりに復活となったが、水上行事でいわゆるボートレースの孫兵衛船競争は、今年も見送られ、来年に期待が込められた。本祭は毎年8月1日と決まっており、今年は平日。さて人出はどうかと思ったが、市内17校が参加した鼓笛隊効果はやはりすごい。沿道には昼間にも関わらず多くの保護者が訪れ、ビデオカメラを構えながら我が子の姿を写していた。
 花火大会は震災前が1万発を超え、尺玉と呼ばれ、地鳴りがするような大型の花火も打ち上げられていたが、今は会場の都合で花火の大きさは半減。打ち上げ数も5千発となった。それでも新潟県中越沖地震の復興のシンボルとして打ち上げられた「復興祈願花火フェニックス」のミニ版は圧巻。天に昇るように連発で花火が上がり、彩りもカラフル。不死鳥が羽ばたくイメージであり、復興に向けた元気を届けていた。
 2日間にわたった祭りの来場者数は14万人。昨年より3万8千人増えた。街を歩くとこんなに多くの市民がいたことに気づく。しかも若者や子どもの声が圧倒的に多い。衰退が見られる中心商店街にも活気がみなぎっていた。
 祭りの後の静けさとはこのようなことを言うのだろうか。2日の朝、市内を歩いてみたが、若者の姿はどこにもない。街行く人もほとんどなく、静かな商店街がそこにあった。昨夜の現実がまるで夢のようだ。石巻市にはまだまだ多くの市民がいる。祭りのように一体感が生まれれば、もっと復興の速度は上がるだろう。若い力に期待したい。
  

22. 津波のあとの時間割                      H24.7.24

 被災の跡が生々しく残る石巻市立門脇小学校。地震、津波、火災の被害を受け、校舎の半分が焼失した。鉄筋コンクリートの建物は現在も残っているが、中は焼けたままの状態。校舎から一望できる地域は荒廃し、目を凝らせば海が臨める。この門脇小にカメラを向け、児童、大人、地域を撮り続けてきたドキュメンタリー映画「津波のあとの時間割〜石巻・門脇小・1年の記録〜」がついに完成した。
 上映時間は125分(2時間5分)。2月に発表した学校証言編「3月11日を生きて」に続く第2弾であり、石巻市の四季とともに子ども達の姿を1年間追い続けた長編映画だ。門脇小の児童は高台にある門脇中学校の一角を間借りして授業を行っており、3年生の総合「よみがえれ石巻」では自分たちが暮らす地域の将来、新たな防災の備えを1人ひとりが考えた。また、地域は行政との意見交換会を今も続けている。
 被災地からの映像は徐々に減っており、首都圏では風化も始まったと聞く。でも青池憲司監督は石巻市に腰を据え、ずっとメガホンを握ってきた。だから地域の実情は良く分かる。それをわずか2時間にまとめるのは大変な作業だったはず。映画にはメディアが目を向けない普段の暮らしや日常が描かれていると思う(まだ見ていないの思うという表現です)。そこから子どもが、大人が、何を考えて地域で暮らしているのかが分かるはず。地元以上に被災地以外の人々にぜひ見てほしい映画だ。
  

21. 昨年と違う夏                        H24.7.17

 暑い!うだるような暑さだと思っていたら関東以南が梅雨明け(7月17日)した。社内の温度計はぐんぐん上がる。エアコンをつけても追いつかないくらいだ。「これは日本列島一気に梅雨明けだな」って思っていたが、残念。石巻市がある東北南部は18日以降に持ち越された。仙台管区気象台によれば20日ごろに気温が一時的に下がるため、南部の梅雨明けはもう少し先のようだ。でも暑い夏はもう目の前。学校も今週末から夏休みに入る。子ども達もソワソワしていることだろう。
 震災後の石巻市で夏と言えば思い出すのが「ハエとの戦い」。昨年は異常発生し、報道部には昔ながらのハエ取りリボンを吊るした。向かいにあるコンビニでも同様の対策を取ったが、コンビニは出入が多く、ドアの開閉がひっきりなしにあるため、多くのハエが入り、リボンやペットボトルを加工したハエ取り器は真っ黒(お食事中の方はごめんなさい)。しかも1匹当たりが普段の倍以上あり、羽音がいつも聞こえていた。車もドアを開けた途端、ピューと車内に入り込む。1匹を出そうと窓を開けっぱなしにしたときは減るどころか次々と入り込み、増える一方。本当に堪えた夏だった。
 そういえば、あのハエたちも気温が下がり、秋になればパタリと消えた。どこに行ったのだろうと思うほど。あれから1年。またハエのシーズンかと思ったら今年は姿が見えない。と言うか、例年並みの小柄なハエがたま〜に飛んでいる程度。がれきも飛散防止対策がなされ、市内では消毒も行われた。まずもってがれきや津波で被災し、腐敗した食べ物などがなくなったことが要因だ。環境面で一歩だけ、復興を感じた。

20. 命の重さ痛感                         H24.7.10

 学校管理下で児童74人が死亡、行方不明となった石巻市立大川小学校。ほぼ4か月ぶりとなる遺族側と石巻市教育委員会との話し合いが8日に行われた。「誰も処分されないのはおかしい。責任をとってほしい」。責任問題への追求が初めて遺族側から出された。教育長は今のところ処分は考えておらず、誠心誠意の対応で話し合いを継続していく考えを示した。
 市教委は児童から聞き取ったメモを破棄したり、説明にも一貫性がないなど不手際が目立ち、何度か陳謝する場面もあった。話し合いは午後1時30分から始まり、終了したのは午後7時過ぎ。それでも互いの理解が深まったとは思えない。だから市教委は継続的な話し合いを強調した。
 「もう子どもは帰ってこない。最後がどうだったのか、真実を知ることが産んだ私の責任」。涙ながらに訴える女性の言葉は重い。
 「これでいいのか、悪いのかも分からない。亡くなった娘に『とうちゃん喧嘩しないで』って怒られるかも知れない。日々迷っている。だから市教委とは矛盾点の話ばかりでなく、命の話がしたい」と声を絞る父親の姿もあった。
 そばで話を聞く自分もやるせない思いになった。そして命の重さを改めて痛感した。もし、一つだけ願いが叶うなら皆の記憶をこのままに震災がくる1分前に時間を戻してほしい。東日本大震災ではほとんどが津波被害で亡くなっており、こうなることが分かっていれば絶対、命は助かったはず。現実離れした話だが、自分の中の本音。いや被災地に住む皆の本音だろう。

19. 12人でつかんだ勝利                      H24.7.4

 石巻日日新聞社の主催事業である創刊100周年記念第54回石日旗争奪少年野球大会の決勝戦が2日に行われ、団員わずか11人の釜小ヤンキースが14年ぶりに優勝。出場32チームの頂点に輝いた。チームでは開会式から片時も離さない写真があった。試合中も監督の隣に置かれ、閉会式でもキャプテンが大事に抱えていた。
 チームメイトの松川空捕手(当時4年生)は震災で犠牲となった。キャプテンでエースの澤田佑投手とバッテリーを組み、どんな局面も二人三脚で乗り切ってきた仲だ。本大会でMVPと打撃賞をダブル受賞した澤田投手は、インタビューでこう答えた。
 「投球や打撃で何度も苦しい時があったけど、そのたびに空が『佑、負けんな』と背中を押してくれた。だから優勝することができた」。空君は常にチームメイトを見守っていた。いや一緒に戦っていたのだ。だからこの優勝は11人で手にしたものではない。12人でつかんだてっぺんだ。私にはそうとしか思えない。だから当然、本社から渡した金メダルも12人全員に行き渡った。
 写真の空君はバッターボックスに立って今にも打ちそうなスタイル。球児の意気込みが伝わってくる。きっと天国でも喜んでいるだろう。俺たちの勝利だ!と。
 今大会を振り返れば、昨年もそうだが、遺影を手にスタンドで応援する姿があった。震災で犠牲になったのだろう。いたたまれない思いだ。まちの復興と速度は違うかもしれないが、一人ひとりのペースで心の復興を図ってほしい。ゆっくり、ゆっくりでいいから焦らず。

18. マンガの国再出発!                      H24.6.29

 石巻市の田代島。まだピンッとこないかな。ではマンガの島。最後は猫の島!。石巻市ではここまで言えばだいたい結びつく。離島の田代島は石巻市から定期船で約40分。海底が見えるほど透明度の高い海。震災前はよくここでクロダイ釣りをしていた。田代島は別名、マンガアイランドと呼ばれ、漫画家の里中満智子さん、ちばてつやさんらがイメージした猫型ロッジが5棟並ぶ。島の中腹に位置しているため、津波被害は受けなかったが、震災で建物の改修が必要となり、今夏から営業再開する。
 田代島の人口は約100人。昭和30年代は約1000人が暮らしていたが、少子高齢化が徐々に進み、今では大半が65歳以上の高齢者。基幹産業の漁業を受け継ぐ後継者も少なく、先細りが懸念されている。そこでこの島をマンガアイランドとして観光振興を進めていこうと石巻市は平成12年にアウトドア施設を整備。今や猫とマンガの島として全国から観光客が集まるスポットになった。
 夏は海水浴客で定期船は満杯となるが、昨年に続き、石巻地方では海開きは行わない。観光業にとっては打撃であり、田代島も同じ。ただし猫型ロッジはただの修復ではなく、三菱商事の支援を受け、太陽光発電システムと蓄電池を兼ねそろえたエコなロッジとして復活した。管理棟には太陽光発電の流れが分かるパネルもあり、電力がどのように供給されているのかが分かる。キャンプを楽しみ、エコに触れる。そんな願いをこめたマンガアイランドとして生まれ変わったのだ。復興というのは単に現状復旧ではなく、このようなことを言うのだろう。

17. スポーツと生活の共存                     H24.6.24

 32チームが参加した第54回石日旗争奪少年野球大会が22日に開幕し、23日と24日は1回戦から準々決勝まで計28試合が4球場で行われた。石巻日日新聞社の主催事業であり、報道部も全員体制(全員といっても多い数ではありませが)で各球場に分かれ、グラウンドをかける子ども達の姿を写した。
 「この時期に石日旗があるとだいぶ復興が進んだのかぁって思えるね」。ある監督の言葉だ。昨年は震災の影響で季節感も感じられず、通年行事も軒並み中止となった。いつもの季節にいつもの行事が行われることは地域にとっても徐々に平常を取り戻していると言えるのだろう。ただ、それが復興に結びつくかどうかの判断は自分でも分からず、監督の質問に「そうだといいですね」としか言えない自分がいた。

 球場の隣には仮設住宅が建っており、被災した市民が生活を送る。たまに野球を見に来る人もいれば、鳴り物はうるさいからやめてくれと憤る人も。スポーツ施設の中に仮設住宅があることが、子ども達には不思議でならない。もっとほかに場所はなかったのか?今になってみれば別の市有地もあったのでは?と考えてしまう。
 「僕たちは野球が大好きです。野球ができる喜びと、支えてくれるすべての人に感謝して一生懸命プレーすることを誓います」。
石日旗開会式での選手宣誓の一文だ。石巻地方で現存している野球場は震災前の半分以下。思わず「ごめんな。何とか早く復興させて伸び伸びと野球ができる地域を作っていくからな」と心の中でつぶやく自分がいた。

16. とにかく にげっぺ                      H24.6.19

 「とにかく にげっぺ」。石巻地方の方言であり、標準語にすれば「とにかく逃げよう」となる。これが震災後初めて行われる石巻市の防災訓練のスローガンだ。ちょっとふざけすぎでは?と思ったが、市の担当者は「もっとも分かりやすく伝わりやすい言葉」という。そう言われればそうかもしれない。
 震災前、石巻市では宮城県沖地震(1978年)を教訓に発災日の6月12日を県民防災の日としてさまざまな避難訓練を繰り広げてきた。しかし、昨年3月11日の東日本大震災により、今年の県民防災の日は石巻市での訓練は見送られた。今年の7月8日に行う防災訓練はあくまで暫定的。とくにこの日に何かがあったわけではなく、日にちも他の事業との兼ね合いで決まったそうだ。
 当日は午前7時から8時までの間で防災無線が鳴り、避難を呼び掛ける。想定は東日本大震災と同規模。もはや従来からある「はい次は消火訓練!次は煙道通過訓練です」という劇場型訓練では意味がない。とくかく逃げること。今回、津波被害を受けた地域は高台(山など)や浸水区域外に、津波被害を受けなかった地域は火の元の確認と指定避難所への避難とした。訓練時間はわずか1時間程度。だらだらやっても仕方ない。いかに早く逃げられるか。大津波から生きるのはそれしかないのだ。15万人市民の多くが参加し、自主避難で有事に備えてほしい。震災はいつ、どこで、発生するのか誰も分からない。

15. 野球シーズンでも球場不足                   H24.6.14

 今年で創刊100周年を迎える石巻日日新聞社は石巻市周辺を購読エリアとした地元紙。主催事業で最も大きいのが小学生のスポーツ少年団を対象とした野球大会だ。「石日旗」(せきじつき)と呼ばれる深紅の優勝旗を目指し、石巻地方の野球少年たちが一投一打に魂を込める。震災前は40チーム以上が参加し、スタンドでは保護者が声援を送る。大会は石巻地方の甲子園とされ、「今年こそは優勝を」と子ども達は気合を入れる。
 昨年は震災の影響があり、中止も検討したが、保護者の要望を受け、秋口に開いた。今年は例年通り6月開催となり、22日が開会式。翌日から熱戦が展開される。今年は32チームの参加。いつもよりぐっと少ない。震災で子ども達が離散し、チームが編成できないところもある。悔しい思いだ。同時にスポーツどころではないと野球を辞めた子どももいる。震災は日常の何気ない光景も奪い去っていたのだ。
 「日日新聞社さんが主催する今年の夏、秋の大会には出られないけど、野球をやりたいって言う子ども達も少しずつ増えてきた。来年、また参加できるように団員を増やしていくよ」。ある親の会の役員が言っていた。石巻地方では被災で球場が不足しており、私たちも確保が大変。もし試合が集中する来週末が雨となれば、振替日は未定。8月ごろまで伸びる可能性もあるという。そうなっては一大事!今から「てるてる坊主」を吊るそうか。

14. 燃えた都市対抗野球                      H24.6.8

 日本製紙石巻野球部は一昨年、初めて都市対抗野球に出場し、ドーム球場のマウンドを踏んだ。石巻市からも大応援団がスタンドを埋め、電光掲示板に「石巻市」と表示されると大きな歓声が沸き起こった。
 昨年は震災で流れたが、今年はぜひ被災地から都市対抗野球に。という思いは強かった。野球部は予選を勝ち上がり、盛岡市内であった第一代表決定戦でTDK(秋田)と対決。延長11回裏にサヨナラ打を受け、日本製紙石巻は3−2で敗れた。8日には全国大会の出場権残り1枠を懸け、七十七銀行(宮城)と対戦。本紙からも記者を派遣し、携帯のメールでイニング結果が送られてくるたびに一喜一憂した。
 結果は4−1で敗れた。本戦出場は夢と消えたが、確実に日本製紙石巻は全国レベルに達していることが証明された。正直、今年はドームで大暴れしてほしかった。首都圏に石巻市の名を刻み、復興に向かって一歩ずつ前進していることを伝えてほしかった。野球部も大会を通じて全国、全世界に支援に対する感謝を表したかったという。敗退は残念だが、来年がある。次の夏では「おっ石巻市はここまで復興したんだな」と思ってもらえるようになってほしい。

13. 大相撲がやってくる!                     H24.6.1

 きょうから6月。衣替えの季節を迎え、石巻市でもYシャツやブラウス姿で颯爽と通学する高校生の姿があった。もうすぐ梅雨入り。地盤沈下に伴う排水処理はどうなのか? 食中毒は? 梅雨が明ければ猛暑か? それとも酷暑か? はたまた冷夏か?…この仕事は先々を考えてしまうため、なかなか気が休まらない。
 5月末に石巻市にホットなニュースが飛び込んできた。8月7日に大相撲の石巻興行が決まり、関係者が亀山紘市長を訪問した。横綱・白鵬ら幕内力士が続々訪れるというのだ。しかも3000人を無料招待。会場は石巻市総合体育館で前日から地元の土8トンを運び込み、突貫工事で土俵を作る。相撲協会は「またとない機会。土俵づくりには市民の協力も得たい」とお手伝いにラブコールを求めた。
 この話を聞いたとき、翌日の1面トップと決めており、取材した記者に指示し、なるべく詳しく書くように伝えた。新聞購読者はご年配の方が多く、しかも相撲好き。暗いニュースよりも地域がパッと明るくなるような話を届けたかった。案の定、思惑は当たり、翌朝から会社の電話がジャンジャンなった。「チケットはいつもらえるの?」「どこで?」「2枚ほしいんだけど」(うちが主催じゃないのでそれは無理です…)。
 チケットの配布方法はまだ決まってないが、おそらく殺到だろう。倍率は5倍、いや10倍になるのではないか。本来なら一場所設けてほしいくらいであり、興行だけではもったいないのが本音。石巻市で大相撲が見られるのは昭和33年8月依頼、54年ぶり。今年の夏は暑くなりそうだ!

12. 復興交付金は満額回答                     H24.5.26

 「復興庁は査定庁だ」。宮城県の村井嘉浩知事が第1回目(3月)の復興交付金で声を荒げたことが全国ニュースでも流れた。石巻市にある復興庁の支所も肩身が狭くなり、地元自治体との間にもギクシャクとした関係が生じていた。5月25日に発表された第2回目の配分では申請額のほぼ2倍に当たる事業が認められ、満額回答となった。これには村井知事も笑顔。査定庁呼ばわりに対して「そんなこと言ったっけ」ととぼけ顔を見せた。
 石巻市も今回の内示に胸をなでおろす職員、市長の姿があった。25日夕に緊急記者会見を開いた亀山紘市長は復興庁の姿勢を高く評価した。とくに防災集団移転事業は市内で63地区が対象であり、このうち2地区は南浜町→新蛇田、川口町周辺→新渡波と最も大きく、残る61地区は合併前の旧町や牡鹿半島周辺。内示によって測量、用地取得に弾みがつく。仮設住宅などで暮らす市民にとって復興が最も肌で感じられるのが、安定した住環境だろう。そこに落ち着くまでは復興とは言えない。
 石巻市を取材していても事あるごとに「国が、国が」という言葉を耳にする。確かにスピードは感じられなかったが、今回、予算が付いたことで国に責任を擦り付けるわけにもいかないだろう。市はしっかりとした計画を立てて市民に示し、住まいの確保と産業再生を最優先として復興に取り組んでほしい。

11. 一波乱の予感                         H24.5.22

 太陽と月、地球が一直線に重なったときに起こる金環日食。石巻市ではリング状にはならなかったが、太陽が「C」を描くように約9割欠けた。当日、私は朝から最も被災の大きかった門脇、南浜町地区におり、そこで日食を見た。
 午前7時45分ごろだろうか。太陽が最も欠けたあたりは気温も若干下がり、長い影が後ろに伸びた。私も日食を見るのは初めて。取材を兼ねながら観察グラス越しに太陽を見つめていた。少しずつ移動しながらであり、気づけば地震、津波、火災の被害に遭った門脇小学校の校門付近にいた。
 国道からも幾分離れているため、周囲は静か。誰も歩く人はいない。「もし、震災がなければ、今頃は校庭に子ども達が集まって観察グラスで太陽を見ているのではないか」と思った。半分が黒く焼け焦げた校舎は窓ガラスも割れ、寂しく佇んでいる。小学校の反対方向を望めば更地が広がり、家主が亡くなったのだろう。花が手向けてあった。悲しいが、これが現実だ。
 石巻市では5月28日から将来設計に係る個別説明会が開かれる。南浜町をはじめ、防災集団移転地域に住所を持つ住民に対して市が土地の買い取り目安、新たな土地の価格を示す。ただし一波乱は起きそうだ。住民のほとんどはゾーン分け(住めるか、住めないか)に納得しておらず、市の説明不足を厳しく指摘。22日にあった沿岸部町内会の集まりでは「説明会どころではない」と市の対応に疑問を投げかけた。
 住まいの問題は一番難しい。誰も直面したことのない課題に石巻市は差しかかろうとしている。

10. 夢のマイホーム                        H24.5.15

 被災した沿岸部の土地を売却し、新たに石巻市が市街地に用意した防災集団移転用地に土地を買って家を建てると個人の持ち出しは2500万円になる。先日、市が発表したモデルケースの試算だ。想定は被害が大きく、ほとんどの家屋が流出した南浜町地区(テレビで紹介される焼けた小学校の近く)。ここで所有していた250平方メートルの土地の売却価格は1平方メートル当たり2万4000円となり、総額は600万円。市は被災前の8割を買い取り目安とした。
 次に防災移転用地の新蛇田地区は三陸縦貫道路に近く、商業施設も集積する内陸部。当然、土地単価は高く1平方メートル当たり5万2千円。被災前と同じ規模で家を建てる場合、土地の購入費で1300万円、建物が2000万円で支出額は3300万円。ここから売却分の600万円、再建に応じて支給される加算支援金の200万円を加えた支出合計は800万円となり、差引2500万円の手出しとなる計算。土地を買わずに賃借して家を建てれば支出は1200万円だが、賃借料は毎月1万円かかる。
 被災者からはため息が聞かれる。「財産もすべて失った中で2500万円は高い。マイホームは夢なのか」。返す言葉もない。市や県が建てる災害公営住宅(市営住宅)は4000戸。現在、仮設住宅の入居は7200戸であり、市の計算では3000戸近くが新築や民間アパートを借りると想定するが、果たしてそうなるのか。また一つ壁が立ちはだかってきた。

9. 地盤沈下                           H24.5.8

 震災で石巻市は最大1・5メートル近く地盤沈下した。平均は75センチと見られており、いたるところで道路に段差が生じている。車で走っていてもたまにガリッと底をする音が聞こえてくる。とくに雨天時は地盤沈下が手に取るように分かる。連休中の大雨で、道路にはたくさんの水溜りができた。深さは30センチを超えており、場所を選んで走らないとエンジンに水が入って車が一瞬でダメになる。事実、せっかく震災を乗り切っても今回の大雨で水没した車両を何度も見た。
 石巻市ではGWの大雨で避難勧告が出され、一夜を避難所で過ごす人もいた。震災直後から数ヶ月も避難所で暮らしていた市民にとってまたあの状態に逆戻り。深いため息が場を包んでいた。これから1か月も過ぎれば梅雨入りも見え始め、再び水との戦いが幕を開ける。もううんざり。早くもそんな声が出始めている。 
 地盤沈下対策は被災地にとって重要課題の一つ。これが解決されなければ家も工場も企業も建てられない。いつまでも更地のままだ。全国的には広域がれき処理に目が向けられているが、被災地ではもっと喫緊の課題が多い。復興計画では10年後の輝かしい未来が描かれていても今は想像もできない。新たな石巻市は微細藻類やバイオマスなど新エネルギーを使ったまちづくり構想などを示しているが、市民からは「雲をつかむような話」と関心度は低い。まちの将来像が地盤沈下しては元も子もない。報道機関としてしっかりと見定めていきたい。

8. 安心できる海へ                        H24.5.2

 石巻市と山形県酒田市は太平洋側と日本海側。石巻市、大崎市、新庄市、酒田市を経由する道路は日本を横断する通称・ウエストラインと言われる。高速道路などとは違い、一般道をひたすら走る。石巻市から日本海側までは約170キロだ。
 途中、川下りで有名な最上川(山形県最上町)を右手に見ながら走る。山から一直線に流れ落ちる白糸の滝があり、実に風光明美だ。さらに1時間半ほど走れば酒田市に入り、やがて眼下に日本海が広がる。
 荒波の日本海というイメージを持つが、訪れたときは至って穏やか。白波もなく、まるで湖(みずうみ)を見ているかのようだ。波打ち際では多くの家族連れが歓喜を上げる。よくある風景だが、とても懐かしく感じた。
 多くの人命を飲み込んだ東日本大震災。太平洋側、とりわけ石巻地方ではGWでも海を訪れる人は少ない。哀悼と恐怖が交錯するのだろう。正直、私も海沿いを走っているとまた津波が来たらどうすると考えてしまう。被災地の人なら誰しも同じことが頭を過ぎるだろう。
 今やどこで震災が起きてもおかしくない状況だが、比較的地震の少ない日本海には幾分安心感を感じた。太平洋も再び安心できる海に戻ってほしいと願うばかりだ。

7. ドキュメンタリー映画                     H24.4.24

 被災地・石巻市を舞台としたドキュメンタリー映画「宮城からの報告―こども・学校・地域」は、4月19日にクランクアップした。市民らが製作委員会を組織し、阪神淡路大震災などを取り続けた青池憲司監督(千葉県)がメガホンを取った。撮影開始から実に1年。これまで30分の予告編を皮切りに今年2月には証言編「3月11日を生きてー石巻・門脇小・人びと・ことば」を発表した。
 地震、津波、火災の三重苦を受けた門脇小学校が舞台。児童、保護者、教職員のインタビューを中心にリレー形式で結んだ。子ども達の生々しい証言は「どう生き抜いたか」を伝えている。映像で見せる映画とは異なり、言葉を読んだ映画だ。試写会では子ども達の言葉に何度もうなづく姿が見られた。
 映画の集大成となる本編は、今後、編集作業に入り、ナレーションやBGMを吹き込む。7月中に完成し、8月中旬には全国に先駆けて石巻市で試写会が行われる予定だ。青池監督は「本編は門脇小の1年を追い続けた。学校生活のほか、失われた地域コミュニティーをどう元に戻していくかなども盛り込みたい」と意気込む。元教育長で製作委の阿部和夫代表も「学校と地域の間で結ばれた信頼関係にも目を向けてほしい」と話す。
 震災後、石巻地方を舞台とした映画は国内外で製作されている。単に惨状だけを映しているわけではない。いつ、どこで起きるか分からない自然災害。その時人はどう考え、どう生き抜くかを伝えている。決して災害は対岸の火事ではない。

6. 桜の季節                          H24.4.19

 石巻市の桜の名所「日和山」は市内中心部の旧北上川河口部にあり、高さ約56メートルの丘陵地。かつて松尾芭蕉も訪れたことがあり、市内を一望できる観光スポットだ。石巻市では長い冬が終わり、ここ数日、気温の高い日が続く。硬くなっていた桜(ソメイヨシノ)のつぼみは膨らみを増し、今にも開花しそうな勢いだ。
 日和山の桜で一番先に咲くのは茶屋から階段を登った先にあり、今は営業していないカフェレストランの隣にある木。ここが最も日当たりが良く、例年一足早く花を咲かせる。
 震災前はこの時期になると提灯が吊り下げられ、観桜期間中の交通規制が敷かれる。週末ともなればブルーシートを持った家族連れや会社関係者が日和山の坂を登り、ピンクに色づいた木の下で宴を楽しむ。そんな風景があった。昨年は震災直後とあり、花見どころではなかったが、今年はどうだろうか。やはり花見ムードにはなれないというのが本音のようだ。
 日和山からは市内を一望できるため、連日、全国の支援関係者やボランティアがこの地に足を運び、その光景に唖然とする。中には花を手向ける人も。こうした状況が続いており、たとえ桜が満開となってもひっそりと眺める程度になるだろう。
 心から市民が花見を楽しめるようになるのは時間がかかりそうだ。それでも昨年より、ほんの少しでいいので季節が感じられる1年であってほしい。

5. 天気を占う臭い                       H24.4.14

 石巻市民は臭いで翌日の天気が分かる。ここに住んだことのある人なら「うん、うん」とうなずけるはずだ。その臭いは何ともいえない魚?のような香り。石巻では昔から天気予報よりも海側から漂う臭いで明日は雨かどうかが分かるのだ。
 地元なら当たり前の話。よく建物の外にでると「うっ!くさっい。明日は雨だなっ」という会話になったものだ。でも震災以降、この臭いもほとんどなくなっているようだ。
 そもそもこの臭いは海沿いにある化成飼料工場などから発されていたが、震災で工場群は壊滅被害を受けた。国内でも屈指の水揚げ量を誇る石巻魚市場周辺の被害も顕著であり、1年が過ぎた今も被災当時のままで残っている建物が多い。
 魚市場背後の水産加工団地は関連企業を含めると約200社と言われていたが、今では影を潜めている。早く再建したいという企業もあるが、周囲の土地利用がしっかり決まり、土地のかさ上げが終わらないと中々本体工事に取り掛かれない。企業の再開意志はあっても個人ではどうにもできない現状がそこにあるのだ。
 きょう(14日)は午後から雲行きが怪しい。こんな日は決まって魚?のような香りが漂ってくるのだが、どうやら鼻には届かない。また魚町周辺が活気を取り戻し、あの臭いで天気が分かる日が来ることを待ち侘びたい。

4. すごいぞう(ゾウ)                      H24.4.9

 石巻市はきょう(9日)から新学期。昨年は震災で学校が再開できず、長い春休みとなったが、今年は例年通りの約2週間。通学路は多くの子ども達であふれ、地域に活気を与えた。仮設住宅から通学する児童は約1500人おり、これまでは保護者が送迎してきたが、4月からようやくスクールバスが運行されるようになり、前よりは利便性も高まった。まだまだ道のりは長いが、地域は少しずつ以前のような生活を取り戻しつつある。
 話は変わるが、絵を描くゾウはご存知だろうか?。首都圏では有名らしいが、私は知らなかった。先日、千葉県市原市にある動物園「市原ぞうの国」で飼育されているアジアゾウの「ゆめ花」(雌・4歳)が描いた桜の絵が石巻市に寄贈された。見た目は人間が書いたような作品であり、最初は思いっきり疑ったが、さすがは動物園。「よくそう言われるから、今回の絵を描いている様子を収録しているんですよ」と。映像が映し出され、確かにゾウが鼻で筆を持ち、すらすらと描いていた。ロボット?いや誰かが中に入っている?と邪推したが、どこからどうみても生身のゾウだった。 信じられなかったのは私だけではない。絵を受け取った亀山紘市長もその一人。「絵が描けるとは知っていたが、本当にこれ?これをゾウが描いたの?」と疑心暗鬼。それだけ人間が描いてもおかしくない作品だった。 市には4枚寄贈され、新しくできる保育所や仮設の幼稚園、保育所、子育て支援センターなどに置くという。今回は夢のある取材だった。こんな明るい話が続いてくれるといい。いつか、このゾウをそばで見てみたいなって思った1日だった。

3. 23カ所の山                          H24.4.6

 石巻市を代表する日和山からは市内を一望できる。太平洋と北上川、石ノ森萬画館がある中瀬公園、居住地、商業地が把握でき、高い建物が少ないだけに街の広さが良く分かった。震災で風景は大きく変わり、今までなかったところに山ができた。がれきの山だ。うず高く積まれ、頂上付近では重機がうなりを上げてがれきの中にクレーンを入れる。
 「がれき、がれきってよく言われるけど。これは俺たちが生きてきた証しなんだ」。ある男性が話した言葉だ。その通りであり、がれきはゴミとは違う。よく見ると家財やインテリア、子どものおもちゃもある。塩水に浸かったため、色は変わっているが、紛れもなく生活の証しだ。
 石巻市のがれき発生量は616万d。通常の一般廃棄物処理の106年分に該当する。公園など23か所の市有地はがれきの1次仮置き場となり、それ以外の市有地には仮設住宅が建った。もう石巻市に余っている土地などない。がれきは49%(約300万d)が1次仮置き場に保管されたが、もう飽和状態。県が行う2次処理や県外での広域処理が進まなければ、残り半分を置く場所などないのだ。
 4月6日には市議会でがれき受け入れを全会一致で議決した福岡県北九州市から副市長ら視察団が訪れた。やはり不安は放射能汚染だが、石巻市の放射線量は基準値を下回っており、北九州市の安心材料となった。確かにがれき受け入れは住民感情もあり、自治体にとっても難しい問題だろう。ただし、被災地はがれき処理が滞ればそれだけ復興は長引く。今こそオールジャパンに期待したい。

2. 若い力に期待                         H24.4.3

 平成24年度がスタートした。石巻地方の自治体では辞令交付式が行われ、スーツ姿の若者たちが首長から辞令を受け取った。例年なら、先輩の背中を見ながらゆっくりと育っていく新社会人たちだが、今年は違う。住民生活を確保するためにも復興を加速させなければならない。
 よくスピード感と言うが、被災地でのインフラなどハード面の復旧、復興は「感」ではなく、スピードを持って取り組まなければならない。若者たちの表情からもそれは読み取れた。「地元のためにできることは何でもやりたい。同じ被災者だから気持ちが分かる」。こう話す若者からは自信が満ち溢れていた。
 震災から半年が過ぎた頃、こんな話を耳にした。中学生で俗に言う不良たちは、発災直後から学校に残り、被災者の支援を行った。「先生、俺たちにできることは何!」「何でも言ってくれよ」。先生たちも一様に驚いたと言う。この子たちは自宅にも戻らず、毛布を運び込むなど地域のために一生懸命汗を流した。
 10年、20年後の石巻市を背負うのは我々ではなく、今の、これからの子ども達。この子たちに「何だこの街は」と言われないように、若者の意見も十分に反映させたまちづくりが必要だ。魅力がなければ定住化は難しい。行政、地域はもっと若い力に頼ってもいいはず。そこから活路が見えてきそうだ。

1. さくら咲く季節                        H24.3.31

 震災から1年が過ぎ、再び春の季節を迎えた。石巻市も春は日和山公園の桜、夏は田代島や野蒜海岸での海水浴、秋は大漁まつり、冬は石巻駅前のイルミネーションと四季を感じるが、昨年は季節感を肌で感じることもなく、時だけが流れていった。
 いつもの通勤路。信号で止まり、車窓から外をのぞくと鉄骨が剥き出しになった事業所や1階が突き抜けた民家、何もなくなった更地が目に入る。人影もなく、風だけが通り過ぎていった。
 近くには幾つもの切り株が残る。周辺被害の大きさに目がいくため、気にしたこともなかったが、よくみれば桜(ソメイヨシノ)の木。本来はつぼみを膨らませ、あと半月後にはピンクの花を咲かせるはずだったが、今ではつぼみはおろか、枝も幹もなく、黒ずんだ切り株がそこにあるだけだ。
 寂しさがこみ上げてきたが、ふと目を向けるとすらりと伸びる苗木を見つけた。それは桜かどうかは判別できないが、誰かが植えたものだ。数年先になるのだろうか。この苗木がすくすくと育ち、いつしか花や実をつけるだろう。
 心に受けた深い傷あとは癒えることはないが、石巻市内では少しずつ、希望の種がまかれ始めている。この地にも「さくら咲く季節」が必ず来ると信じている。